花村蘭子ものがたり 〜昭和の風、紫陽花の恋〜

naomikoryo

文字の大きさ
16 / 17

番外編:最後の気持ち

しおりを挟む
扉を押すと、微かにベルが鳴った。
東京・銀座の路地裏にひっそりと佇む小さな喫茶店「檸檬館」。
木製のドアには、彫金細工でこう書かれている。

《お静かに——ここは沈黙のための店です》

蘭子は静かに中へ足を踏み入れた。足音さえ、空気を気遣って小さくなるような空間だった。
濃い木の匂い、古い蓄音機の音、そして客たちの目配せだけで交わされる“会話”。

店の一番奥。
窓際の席に腰を下ろすと、彼女は懐から便箋を取り出した。
薄いクリーム色の紙に、墨で丁寧に綴られた文章。
まだ誰にも見せていない、一通の手紙だった。

——宛名は書かれていない。
でもその行間のすべてが、ひとりの青年に向かっていた。

《晋平さま》

《東京の秋は、ほんとうに早足ですわ。》

《九月には金木犀が咲き、十月には街路樹が赤くなり、十一月には風が冬の色を含んでまいります》

《あの町での季節は、もっとのんびりしていたような気がします。干物が軒先に揺れて、商店街の鍋の匂いが風に乗って……ああ、恋しゅうございます》

《けれど、こちらでも、良い風景に出会いました》

《先日、小さな舞台で“音を聞き取る耳の不自由な少女”の役を演じました》

《沈黙のなかで、言葉が芽生える瞬間を、表現する芝居でした》

《演出家の先生に「君は“言わなかった言葉”を表現する女優だ」と言われました。》

《その言葉、わたくしの宝物です》

《でも、本当は、わたくしにそれを教えてくださったのは、晋平さま……あなたでした》

店主が、静かに紅茶を置いた。

「いつものでございます」

「ありがとう存じますわ」

蘭子は微笑み、ティーカップを手に取った。

ほのかに檸檬が香るアールグレイ。
そして、角砂糖をひとつ落とす音。

それだけで、もう“ひとつの劇”がはじまったような感覚だった。

ここでは誰も声を出さない。
けれど、すべてが語られていた。

その沈黙の空間で、彼女は再び便箋に目を落とす。

《晋平さま、ごきげんよう》

《わたくしは、いまも、あなたの言葉を胸に芝居をしております》

《「がんばれよ」というたった一言。その裏側に、どれだけ多くの言えなかった想いが詰まっていたか》

《わたくしは知っております》

《あの紫陽花の鉢。たしかに届かなくて、触れることもできませんでしたけれど》

《わたくしの心には、あの時からずっと咲き続けております》

《いまでは、小さな蕾を宿しはじめました。いつか、それが花開くとき、またお会いできるでしょうか》


扉のベルが鳴った。

蘭子はそっと顔を上げる。が、そこに立っていたのは、背広姿の老紳士だった。

(……そう、あの人が来るわけなどないのに)

それでも、不思議と胸の中の紫陽花が、また少し咲いたような気がした。

夕方、下宿へ戻ると、机の上に小さな封筒が届いていた。

魚の形をした市松模様の便箋。差出人の名はないが、字を見た瞬間、蘭子は手が震えた。

《東京の秋は、冷えるって聞いた。喉に気ぃつけろよ。魚送るのは難しいけど、塩昆布でも食って、元気でな》

——晋平からだった。

その簡素な言葉の奥に、いくつもの“不器用な愛情”が見え隠れしていた。

蘭子は、ひとつ深く息を吸い、手紙を懐に収めた。

その夜、日記にこう書いた。

《わたくしたちは、手紙のような恋をしています》

《声に出す代わりに、書いて残す》

《会う代わりに、思いを送る》

《それでも、心はつながっているのです。そう信じているから、わたくしは笑って前に進めるのです》

そして最後に、こう綴った。

《いつか、本当に紫陽花が咲いたら——
そのとき、また“がんばれよ”って言ってください》

《わたくしは、
きっとそのときも“好きです”って笑えますから》

月が静かにのぼっていた。
東京の空の下で、ひとつの恋が、まだ静かに育っていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

【時代小説】 黄昏夫婦

蔵屋
歴史・時代
 江戸時代、東北地方の秋田藩は貧かった。  そんな中、真面目なひとりの武士がいた。同僚からは馬鹿にされていたが真面目な男であった。俸禄は低く貧しい。娘二人と実母との4人暮らし。  秋田藩での仕事は勘定方である。  仕事が終わると真っ直ぐ帰宅する。 ただひたすら日中は城中では勘定方の仕事をまじめにして、帰宅すれば論語を読んで知識を習得する。   そんな毎日であった。彼の名前は立花清左衛門。年齢は35歳。  娘は二人いて、一人はとめ15歳。もう一人は梅、8歳。  さて|黄昏《たそがれ》は、一日のうち日没直後、雲のない西の空に夕焼けの名残りの「赤さ」が残る時間帯のことを言う。「|黄昏時《たそがれどき)」。 「黄昏れる《たそがれる》」という動詞形もある。    「たそがれ」は、江戸時代になるまでは「たそかれ」といい、「たそかれどき」の略でよく知られていた。夕暮れの人の顔の識別がつかない暗さになると誰かれとなく、「そこにいるのは誰ですか」「誰そ彼(誰ですかあなたは)」とたずねる頃合いという意味で日常会話でよく使われた。  今回の私の小説のテーマはこの黄昏である。  この風習は広く日本で行われている。  「おはようさんです」「これからですか」「お晩でございます。いまお帰りですか」と尋ねられれば相手も答えざるを得ず、互いに誰であるかチェックすることでヨソ者を排除する意図があったとされている。  「たそかれ」という言葉は『万葉集』に 誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ」 — 『万葉集』第10巻2240番 と登場するが、これは文字通り「誰ですかあなたは」という意味である。  「平安時代には『うつほ物語』に「たそかれどき」の用例が現れ、さらに『源氏物語』に 「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 夕顔の花」 — 『源氏物語』「夕顔」光源氏 と、現在のように「たそかれ」で時間帯を表す用例が現れる。  なおこの歌は、帖と登場人物の名「夕顔」の由来になった夕顔の歌への返歌である。  またこの言葉の比喩として、「最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態」をという語句の用い方をする。 漢語「|黄昏《コウコン》」は日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻を指す。「初昏」とも呼んでいた。十二時辰では「戌時」(午後7時から9時)に相当する。  「たそがれ」の動詞化の用法。日暮れの薄暗くなり始めるころを指して「空が黄昏れる」や、人生の盛りを過ぎ衰えるさまを表現して「黄昏た人」などのように使用されることがある。  この物語はフィクションです。登場人物、団体等実際に同じであっても一切関係ありません。  それでは、小説「黄昏夫婦」をお楽しみ下さい。  読者の皆様の何かにお役に立てれば幸いです。  作家 蔵屋日唱    

【完結】ふたつ星、輝いて 〜あやし兄弟と町娘の江戸捕物抄〜

上杉
歴史・時代
■歴史小説大賞奨励賞受賞しました!■ おりんは江戸のとある武家屋敷で下女として働く14歳の少女。ある日、突然屋敷で母の急死を告げられ、自分が花街へ売られることを知った彼女はその場から逃げだした。 母は殺されたのかもしれない――そんな絶望のどん底にいたおりんに声をかけたのは、奉行所で同心として働く有島惣次郎だった。 今も刺客の手が迫る彼女を守るため、彼の屋敷で住み込みで働くことが決まる。そこで彼の兄――有島清之進とともに生活を始めるのだが、病弱という噂とはかけ離れた腕っぷしのよさに、おりんは驚きを隠せない。 そうしてともに生活しながら少しづつ心を開いていった――その矢先のことだった。 母の命を奪った犯人が発覚すると同時に、何故か兄清之進に凶刃が迫り――。 とある秘密を抱えた兄弟と町娘おりんの紡ぐ江戸捕物抄です!お楽しみください! ※フィクションです。 ※周辺の歴史事件などは、史実を踏んでいます。 皆さまご評価頂きありがとうございました。大変嬉しいです! 今後も精進してまいります!

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ

BL
鍛えられた肉体、高潔な魂―― それは選ばれし“供物”の条件。 山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。 見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。 誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。 心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。

花嫁御寮 ―江戸の妻たちの陰影― :【第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞】

naomikoryo
歴史・時代
名家に嫁いだ若き妻が、夫の失踪をきっかけに、江戸の奥向きに潜む権力、謀略、女たちの思惑に巻き込まれてゆく――。 舞台は江戸中期。表には見えぬ女の戦(いくさ)が、美しく、そして静かに燃え広がる。 結城澪は、武家の「御寮人様」として嫁いだ先で、愛と誇りのはざまで揺れることになる。 失踪した夫・宗真が追っていたのは、幕府中枢を揺るがす不正金の記録。 やがて、志を同じくする同心・坂東伊織、かつて宗真の婚約者だった篠原志乃らとの交錯の中で、澪は“妻”から“女”へと目覚めてゆく。 男たちの義、女たちの誇り、名家のしがらみの中で、澪が最後に選んだのは――“名を捨てて生きること”。 これは、名もなき光の中で、真実を守り抜いたひと組の夫婦の物語。 静謐な筆致で描く、江戸奥向きの愛と覚悟の長編時代小説。 全20話、読み終えた先に見えるのは、声高でない確かな「生」の姿。

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

処理中です...