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番外編:最後の気持ち
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扉を押すと、微かにベルが鳴った。
東京・銀座の路地裏にひっそりと佇む小さな喫茶店「檸檬館」。
木製のドアには、彫金細工でこう書かれている。
《お静かに——ここは沈黙のための店です》
蘭子は静かに中へ足を踏み入れた。足音さえ、空気を気遣って小さくなるような空間だった。
濃い木の匂い、古い蓄音機の音、そして客たちの目配せだけで交わされる“会話”。
店の一番奥。
窓際の席に腰を下ろすと、彼女は懐から便箋を取り出した。
薄いクリーム色の紙に、墨で丁寧に綴られた文章。
まだ誰にも見せていない、一通の手紙だった。
——宛名は書かれていない。
でもその行間のすべてが、ひとりの青年に向かっていた。
《晋平さま》
《東京の秋は、ほんとうに早足ですわ。》
《九月には金木犀が咲き、十月には街路樹が赤くなり、十一月には風が冬の色を含んでまいります》
《あの町での季節は、もっとのんびりしていたような気がします。干物が軒先に揺れて、商店街の鍋の匂いが風に乗って……ああ、恋しゅうございます》
《けれど、こちらでも、良い風景に出会いました》
《先日、小さな舞台で“音を聞き取る耳の不自由な少女”の役を演じました》
《沈黙のなかで、言葉が芽生える瞬間を、表現する芝居でした》
《演出家の先生に「君は“言わなかった言葉”を表現する女優だ」と言われました。》
《その言葉、わたくしの宝物です》
《でも、本当は、わたくしにそれを教えてくださったのは、晋平さま……あなたでした》
店主が、静かに紅茶を置いた。
「いつものでございます」
「ありがとう存じますわ」
蘭子は微笑み、ティーカップを手に取った。
ほのかに檸檬が香るアールグレイ。
そして、角砂糖をひとつ落とす音。
それだけで、もう“ひとつの劇”がはじまったような感覚だった。
ここでは誰も声を出さない。
けれど、すべてが語られていた。
その沈黙の空間で、彼女は再び便箋に目を落とす。
《晋平さま、ごきげんよう》
《わたくしは、いまも、あなたの言葉を胸に芝居をしております》
《「がんばれよ」というたった一言。その裏側に、どれだけ多くの言えなかった想いが詰まっていたか》
《わたくしは知っております》
《あの紫陽花の鉢。たしかに届かなくて、触れることもできませんでしたけれど》
《わたくしの心には、あの時からずっと咲き続けております》
《いまでは、小さな蕾を宿しはじめました。いつか、それが花開くとき、またお会いできるでしょうか》
扉のベルが鳴った。
蘭子はそっと顔を上げる。が、そこに立っていたのは、背広姿の老紳士だった。
(……そう、あの人が来るわけなどないのに)
それでも、不思議と胸の中の紫陽花が、また少し咲いたような気がした。
夕方、下宿へ戻ると、机の上に小さな封筒が届いていた。
魚の形をした市松模様の便箋。差出人の名はないが、字を見た瞬間、蘭子は手が震えた。
《東京の秋は、冷えるって聞いた。喉に気ぃつけろよ。魚送るのは難しいけど、塩昆布でも食って、元気でな》
——晋平からだった。
その簡素な言葉の奥に、いくつもの“不器用な愛情”が見え隠れしていた。
蘭子は、ひとつ深く息を吸い、手紙を懐に収めた。
その夜、日記にこう書いた。
《わたくしたちは、手紙のような恋をしています》
《声に出す代わりに、書いて残す》
《会う代わりに、思いを送る》
《それでも、心はつながっているのです。そう信じているから、わたくしは笑って前に進めるのです》
そして最後に、こう綴った。
《いつか、本当に紫陽花が咲いたら——
そのとき、また“がんばれよ”って言ってください》
《わたくしは、
きっとそのときも“好きです”って笑えますから》
月が静かにのぼっていた。
東京の空の下で、ひとつの恋が、まだ静かに育っていた。
東京・銀座の路地裏にひっそりと佇む小さな喫茶店「檸檬館」。
木製のドアには、彫金細工でこう書かれている。
《お静かに——ここは沈黙のための店です》
蘭子は静かに中へ足を踏み入れた。足音さえ、空気を気遣って小さくなるような空間だった。
濃い木の匂い、古い蓄音機の音、そして客たちの目配せだけで交わされる“会話”。
店の一番奥。
窓際の席に腰を下ろすと、彼女は懐から便箋を取り出した。
薄いクリーム色の紙に、墨で丁寧に綴られた文章。
まだ誰にも見せていない、一通の手紙だった。
——宛名は書かれていない。
でもその行間のすべてが、ひとりの青年に向かっていた。
《晋平さま》
《東京の秋は、ほんとうに早足ですわ。》
《九月には金木犀が咲き、十月には街路樹が赤くなり、十一月には風が冬の色を含んでまいります》
《あの町での季節は、もっとのんびりしていたような気がします。干物が軒先に揺れて、商店街の鍋の匂いが風に乗って……ああ、恋しゅうございます》
《けれど、こちらでも、良い風景に出会いました》
《先日、小さな舞台で“音を聞き取る耳の不自由な少女”の役を演じました》
《沈黙のなかで、言葉が芽生える瞬間を、表現する芝居でした》
《演出家の先生に「君は“言わなかった言葉”を表現する女優だ」と言われました。》
《その言葉、わたくしの宝物です》
《でも、本当は、わたくしにそれを教えてくださったのは、晋平さま……あなたでした》
店主が、静かに紅茶を置いた。
「いつものでございます」
「ありがとう存じますわ」
蘭子は微笑み、ティーカップを手に取った。
ほのかに檸檬が香るアールグレイ。
そして、角砂糖をひとつ落とす音。
それだけで、もう“ひとつの劇”がはじまったような感覚だった。
ここでは誰も声を出さない。
けれど、すべてが語られていた。
その沈黙の空間で、彼女は再び便箋に目を落とす。
《晋平さま、ごきげんよう》
《わたくしは、いまも、あなたの言葉を胸に芝居をしております》
《「がんばれよ」というたった一言。その裏側に、どれだけ多くの言えなかった想いが詰まっていたか》
《わたくしは知っております》
《あの紫陽花の鉢。たしかに届かなくて、触れることもできませんでしたけれど》
《わたくしの心には、あの時からずっと咲き続けております》
《いまでは、小さな蕾を宿しはじめました。いつか、それが花開くとき、またお会いできるでしょうか》
扉のベルが鳴った。
蘭子はそっと顔を上げる。が、そこに立っていたのは、背広姿の老紳士だった。
(……そう、あの人が来るわけなどないのに)
それでも、不思議と胸の中の紫陽花が、また少し咲いたような気がした。
夕方、下宿へ戻ると、机の上に小さな封筒が届いていた。
魚の形をした市松模様の便箋。差出人の名はないが、字を見た瞬間、蘭子は手が震えた。
《東京の秋は、冷えるって聞いた。喉に気ぃつけろよ。魚送るのは難しいけど、塩昆布でも食って、元気でな》
——晋平からだった。
その簡素な言葉の奥に、いくつもの“不器用な愛情”が見え隠れしていた。
蘭子は、ひとつ深く息を吸い、手紙を懐に収めた。
その夜、日記にこう書いた。
《わたくしたちは、手紙のような恋をしています》
《声に出す代わりに、書いて残す》
《会う代わりに、思いを送る》
《それでも、心はつながっているのです。そう信じているから、わたくしは笑って前に進めるのです》
そして最後に、こう綴った。
《いつか、本当に紫陽花が咲いたら——
そのとき、また“がんばれよ”って言ってください》
《わたくしは、
きっとそのときも“好きです”って笑えますから》
月が静かにのぼっていた。
東京の空の下で、ひとつの恋が、まだ静かに育っていた。
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