花村蘭子ものがたり 〜昭和の風、紫陽花の恋〜

naomikoryo

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第15話「ふたり、春の商店街で」

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汽笛の音は、胸の奥のどこか、まだ幼い部分をやさしく、そして確かに震わせた。

蘭子、十八歳。
上京の朝。

駅のホームには、控えめな別れと期待が交差していた。
大きな帽子の婦人が涙をぬぐい、海苔巻きを渡す祖母、拍子木のように肩を叩き合う青年たち。
人生の節目という名の“列車”に乗る者と見送る者が、それぞれの方法で「いってらっしゃい」と「いってきます」を交わしていた。

「お嬢……ハンカチは持ちました?」

「ええ、お初。鰹節の晒し布も一緒に、ここに」

「お嬢、これからは、もう“蘭子さん”やなくて、“花村蘭子女史”ですなぁ……」

「女史だなんて。わたくしは、いくつになっても“おしゃま”のままですわよ」

明るく言ってはみせたが、心は少しだけ沈んでいた。

(とうとう、本当に、わたくしは“町を離れる”のね)

車掌の笛が鳴り、汽車が動き出す寸前――

「蘭子!」

その名を、風が連れてきた。

振り返ると、商店街の路地からひとり、制服姿の青年が走ってきていた。
晋平だった。
白い割烹着を脱ぎ捨て、息を切らしながら。

「晋平さま……!」

声にならぬ声が、蘭子の喉の奥で震えた。

彼はホームの端に飛び上がり、汽車が動き出す寸前、彼女の乗った窓に向かって手を伸ばした。

「これ――忘れもん!」

手には、白い包みがあった。
それは、商店街の小さな花屋で見つけた、季節外れの紫陽花の鉢植え。

列車がゆっくりと動き出す。
蘭子は窓を開け、手を伸ばした。

包みは届かなかった。

けれど、言葉は届いた。

「がんばれよ――蘭子!」

その声に、涙があふれた。

上京の汽車の中で、蘭子はずっと、紫陽花の姿を思い浮かべていた。

六月の、雨の日の傘の下。
沈黙のなかで交わされた、確かな想い。
言えなかったこと。言えたこと。
そして――言わなかったまま、贈ってくれたその鉢の紫陽花。

(紫陽花は、時間が経つと色が変わる)

(でも、それでも、根は同じ……)

彼女の目に、涙のあとが残っていたが、その顔には不思議なほど穏やかな笑みが浮かんでいた。

「さあ、花村蘭子――舞台のはじまりですわよ」

東京は、想像以上に“速かった”。

人も、声も、歩くリズムも。すべてが蘭子の知っていた“昭和”よりも一歩先を急いでいるようだった。

銀座演芸座の稽古場は、小さな洋風の建物だった。
白い壁に緑の格子窓。中には、個性的な若者たちがひしめいていた。

「君が噂の“花村の娘さん”か。なるほど、目が良い」

「舞台は初めて? 緊張する? 大丈夫、緊張なんて、みんなが勝手にしてくれるさ」

「あなたの沈黙には、物語がある。声なんて、要らない」

皆の言葉に、蘭子は少しずつ、息を整えていった。

東京の言葉は、優しくはなかったけれど、まっすぐだった。


一か月後――

劇団の試演会で、蘭子は初舞台を踏んだ。

役は、言葉を持たない少女。

戦争で家族を失い、声も失った少女が、町の片隅で小さな喫茶店を開き、訪れる人の“声なき声”を聞き取っていくという物語。

舞台にはセリフがほとんどなかった。
ただ、動きと目線と、間だけがすべてを語っていた。

観客は息を呑み、蘭子が静かにカウンターに立つその姿に、心を委ねた。

終演後
――拍手が割れたように響いた。

舞台の裏で、演出家の大江が近づいてきた。

「……あの一瞬、“彼女は、本当に喫茶店にいるのだ”と思えた。やはり君は、目で物語る力がある」

蘭子は、そっと微笑んだ。

(わたくしは、ちゃんと“ここ”に来られたのですね)

夜、下宿の部屋で日記を開く。

灯りの下で、白紙のページに、ゆっくりと万年筆を走らせる。

《今日、初めて本当の“沈黙”を、声に変えることができました》

《声は出さずとも、思いは届く。それを、あの町でわたくしは学びました》

《晋平さま、紫陽花はまだ咲いております》

《わたくしの心の奥で、いまも静かに》

そしてページのすみに、こう書いた。

《いつかまた、帰ります。
そのとき、どうか
――鯛の美味しい季節でありますように》

蘭子はペンを置き、窓を開けた。

東京の夜風は少し塩の匂いがした。
海の向こうには、あの商店街があって、
きっと今夜も、どこかで魚をさばく音がしている――。

彼女は微笑み、目を閉じた。
そして、ゆっくりと、未来へ向かって眠りについた。
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