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110)『おさがり』
その服は、畳まれて神棚の下に置かれていた。
くすんだ白と墨色の布、胸元に刺繍のような奇妙な文様。どこか手作りのような雰囲気があるが、タグもブランド名もなかった。
「これ、誰の服?」
娘の美羽(みう)が尋ねると、隣にいた祖母が微笑んだ。
「それはね、“おさがり”だよ。あんたのために、ちゃんと用意しておいた」
引っ越してきたばかりの田舎の家。父の実家を継ぐため、家族三人は郊外の山間の村に越してきた。村には娯楽もなく、商店もひとつきり。美羽にとっては、退屈で不気味な場所だった。
けれど、その服はなぜか魅力的に見えた。
古びているはずなのに、布地は肌に吸いつくようになめらかで、羽織るとすうっと心が落ち着いた。
その夜から、美羽は夢を見始めた。
夢の中、美羽は見知らぬ山道を歩いていた。
背中には例の服。周囲の木々はざわざわと揺れ、空は灰色。耳元では、どこからか少女の声が囁いていた。
「かえして……」
振り返っても誰もいない。ただ、地面には無数の裸足の足跡が泥の中に残されていた。
次の朝、彼女のパジャマの裾が泥で汚れていた。
「最近、夜中に美羽がうろうろしてるのよ」
母が小声で父にそう言っているのを、美羽は聞いてしまった。自分では寝ているつもりだったのに、いつの間にか家の縁側に立っていたことが何度もあったという。
その服を着ると、夜があっという間に終わる。
夢か、現実か。目覚めたときにはいつも、体に細かな擦り傷ができていた。
ある朝、風呂場の鏡に指でなぞったような文字が浮かんでいた。
「みう、かえして」
不安になった母が、祖母に問いただす。
「お義母さん、“おさがり”って誰のものなんです? 名前も書いてなかったし……」
祖母は笑って答える。
「代々、この家の娘たちが着てきたのよ。年頃になったら、みんな渡されてね」
「そんなに古いものなんですか? でも、タグも……」
「そんなもの、最初からついてないの。これは“あちら”の服だから」
その瞬間、部屋の空気がひやりと変わった。
母はその夜、娘の部屋をそっと開けた。
美羽は布団に横たわっていたが、顔は青白く、寝言のように何かを呟いていた。
「もうすぐ……つれていく……つれてくの……」
そっとめくった布団の下――美羽の腕には、爪でひっかいたような文字が浮かんでいた。
「かえして」
翌朝、母は「服を処分する」と言って祖母と揉めた。
「勝手なことしないでちょうだい! “あれ”は、渡さないと祟るのよ」
「美羽の身に何かあってからじゃ遅いのよ!」
祖母の顔は見たことのないほど険しかった。
「“おさがり”はね、**“貸し借り”なんだよ。あちらの世界の子と、こちらの子が、ひと晩ずつ交代で借りる。**それで、バランスが取れてるの!」
「そんな話、信じられるわけ……!」
「信じなくてもいい。でも、**返さなかった子は、みんな“向こう”に連れていかれたよ。**何代も、ずっとそうだった」
その夜、服は鍵のかかった箱に封じられた。
母は安心したように眠り、父もぐっすりと寝ていた。
だが、午前2時。
きぃ……
箱の蓋が、誰かの手で開かれた。
タンスの中から、真っ白な足がひとつ、ゆっくりと外に出た。
翌朝、美羽がいなかった。
布団の中には、ぬけがらのようにぐしゃぐしゃになった服と、泥で汚れた足跡。
玄関の戸はわずかに開いており、外には裸足のまま歩いたような跡が、山の方へと続いていた。
山道の奥、古びた祠の前で、美羽は見つかった。
目を開いたまま、口元にはうっすらと笑みを浮かべていた。
その胸元には、例の“おさがり”がきちんと着せられていた。
服は一切汚れておらず、まるで今、誰かが着替えさせたばかりのように、ぴしっと整っていた。
◆エピローグ
数ヶ月後。
村のとある家の神棚の下、古びた布がまた一枚、静かに置かれていた。
それは、くすんだ白と墨色の模様。
胸元には、奇妙な刺繍。
そして、そばにはこう書かれた紙片がそっと添えられていた。
> 「次のおさがり、届きました」
くすんだ白と墨色の布、胸元に刺繍のような奇妙な文様。どこか手作りのような雰囲気があるが、タグもブランド名もなかった。
「これ、誰の服?」
娘の美羽(みう)が尋ねると、隣にいた祖母が微笑んだ。
「それはね、“おさがり”だよ。あんたのために、ちゃんと用意しておいた」
引っ越してきたばかりの田舎の家。父の実家を継ぐため、家族三人は郊外の山間の村に越してきた。村には娯楽もなく、商店もひとつきり。美羽にとっては、退屈で不気味な場所だった。
けれど、その服はなぜか魅力的に見えた。
古びているはずなのに、布地は肌に吸いつくようになめらかで、羽織るとすうっと心が落ち着いた。
その夜から、美羽は夢を見始めた。
夢の中、美羽は見知らぬ山道を歩いていた。
背中には例の服。周囲の木々はざわざわと揺れ、空は灰色。耳元では、どこからか少女の声が囁いていた。
「かえして……」
振り返っても誰もいない。ただ、地面には無数の裸足の足跡が泥の中に残されていた。
次の朝、彼女のパジャマの裾が泥で汚れていた。
「最近、夜中に美羽がうろうろしてるのよ」
母が小声で父にそう言っているのを、美羽は聞いてしまった。自分では寝ているつもりだったのに、いつの間にか家の縁側に立っていたことが何度もあったという。
その服を着ると、夜があっという間に終わる。
夢か、現実か。目覚めたときにはいつも、体に細かな擦り傷ができていた。
ある朝、風呂場の鏡に指でなぞったような文字が浮かんでいた。
「みう、かえして」
不安になった母が、祖母に問いただす。
「お義母さん、“おさがり”って誰のものなんです? 名前も書いてなかったし……」
祖母は笑って答える。
「代々、この家の娘たちが着てきたのよ。年頃になったら、みんな渡されてね」
「そんなに古いものなんですか? でも、タグも……」
「そんなもの、最初からついてないの。これは“あちら”の服だから」
その瞬間、部屋の空気がひやりと変わった。
母はその夜、娘の部屋をそっと開けた。
美羽は布団に横たわっていたが、顔は青白く、寝言のように何かを呟いていた。
「もうすぐ……つれていく……つれてくの……」
そっとめくった布団の下――美羽の腕には、爪でひっかいたような文字が浮かんでいた。
「かえして」
翌朝、母は「服を処分する」と言って祖母と揉めた。
「勝手なことしないでちょうだい! “あれ”は、渡さないと祟るのよ」
「美羽の身に何かあってからじゃ遅いのよ!」
祖母の顔は見たことのないほど険しかった。
「“おさがり”はね、**“貸し借り”なんだよ。あちらの世界の子と、こちらの子が、ひと晩ずつ交代で借りる。**それで、バランスが取れてるの!」
「そんな話、信じられるわけ……!」
「信じなくてもいい。でも、**返さなかった子は、みんな“向こう”に連れていかれたよ。**何代も、ずっとそうだった」
その夜、服は鍵のかかった箱に封じられた。
母は安心したように眠り、父もぐっすりと寝ていた。
だが、午前2時。
きぃ……
箱の蓋が、誰かの手で開かれた。
タンスの中から、真っ白な足がひとつ、ゆっくりと外に出た。
翌朝、美羽がいなかった。
布団の中には、ぬけがらのようにぐしゃぐしゃになった服と、泥で汚れた足跡。
玄関の戸はわずかに開いており、外には裸足のまま歩いたような跡が、山の方へと続いていた。
山道の奥、古びた祠の前で、美羽は見つかった。
目を開いたまま、口元にはうっすらと笑みを浮かべていた。
その胸元には、例の“おさがり”がきちんと着せられていた。
服は一切汚れておらず、まるで今、誰かが着替えさせたばかりのように、ぴしっと整っていた。
◆エピローグ
数ヶ月後。
村のとある家の神棚の下、古びた布がまた一枚、静かに置かれていた。
それは、くすんだ白と墨色の模様。
胸元には、奇妙な刺繍。
そして、そばにはこう書かれた紙片がそっと添えられていた。
> 「次のおさがり、届きました」
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