3 / 10
第三話『一人暮らし未遂の少女』
しおりを挟む
ユイは、まばたきの回数が人より明らかに少ない。
「いいですか? 口出しは最小限に。依頼人に余計な感情移入をしないこと。作業中の私語は禁止」
森岡課長の事務的な説明にも、彼女はただ「はい」と一言だけ答えた。目だけが、すべてを見透かすように鋭く光っていた。
今日がユイの初現場同行日。アリサは、彼女の清掃ユニフォーム姿を見て「似合ってる」と思ったが、口には出さなかった。
依頼があったのは、下町の古い一軒家。
依頼主は中学2年生の少年――松崎蓮(れん)。両親を早くに亡くし、祖母と二人暮らしだという。だが、連絡を寄越したのは彼自身で、
「祖母が汚す部屋を、どうにかしたいんです」
という異例の内容だった。
***
「あ……あの、こっちです」
蓮は、少し猫背の少年だった。声はか細いが、目だけはまっすぐだった。
築50年は超える平屋の玄関を開けた瞬間、アリサたちは息を呑んだ。
廊下には新聞紙が絨毯のように敷き詰められ、台所には半年前のカレー鍋が鍋ごと眠っていた。居間には服とチラシが山を成している。そして奥の部屋に見えるのは、うずくまる老人の背。
「祖母は、……最近はほとんど、寝室から出てきません。話しかけると怒るんです」
蓮はそう言ったが、その声には“哀しさ”より“諦め”が滲んでいた。
ユイがふと、横目で蓮を見た。
「君、何歳?」
「……14です。もうすぐ15」
「自立願望、強そう」
「え?」
「うちの親と同じだ。突然いなくなったくせに、いまだに家の中には足跡ばかり残してる」
「……」
蓮は答えなかったが、手がわずかに震えていた。
***
「新聞紙の敷き詰めは典型的ですね。足音を消したい、という無意識の現れです」
森岡が部屋の中を見渡しながら呟いた。
「あるいは、過去を“保存”したい人がやる行動でもある。年月日が書かれた紙は、記録としての役割も果たす」
アリサは黙って頷いた。
台所のシンクには、黴びた食器が数十枚重なっている。水も出ない。給湯器も壊れて久しいようだった。
蓮の祖母――澄子さん(78)は、ふと顔を上げると、アリサたちを鋭く睨みつけた。
「……他人を家に入れるなんて、あの子は馬鹿だよ。片付ける必要なんて、ない」
「理由を、聞いてもいいですか」
アリサが静かに尋ねると、澄子は微かに笑った。
「わたしはね、この“匂い”が好きなのよ。生きてる気がするの。新聞のインクの匂い、湿った衣類の臭い……これがあるから、わたしは今日も生きてる」
「誰かと一緒に?」
「いや。わたし自身と、よ」
その言葉に、アリサはどこかで自分と似た“反響”を感じた。
***
作業は3時間を要した。
ユイは黙々と段ボールを組み立て、缶とビンを分別していた。だが、時折、ちらりと蓮の背を見ていた。
アリサがキッチンの引き出しから、封筒の束を見つけた。
すべて未開封。差出人は「社会福祉協議会」「介護支援センター」「市役所」など。
「祖母さん、助けを拒絶してたんですね。制度の匂いが嫌だったのかもしれない」
「……綺麗にされるって、殺されるような気がするって、言ってました」
蓮の言葉に、ユイが突然立ち上がった。
「蓮くん」
「……はい?」
「あなた、自分の居場所を作ろうとしてるよね。でもね、誰かの“居場所”を奪ってまでは作っちゃいけない」
「……でも、じゃあ、僕はどうしたら……」
「誰にも答えなんか出せない。わたしだって、いまだに“自分の部屋”って言える場所、ないもん」
ユイは、静かに続けた。
「でも、少なくとも。誰かの“匂い”を消す前に、その人の“生き方”に敬意は払った方がいい。掃除って、そういう仕事だから」
蓮はその言葉を、深く深く飲み込んでいった。
***
帰りの車中。ユイはぽつりと呟いた。
「わたしさ、最近やっとわかった。きれいにするってこと、誰かの命に触るってことなんだよね」
「……最初にしては、悪くなかったわよ」
アリサが答えると、ユイは小さく微笑んだ。
「わたし、片付けるより、残す方が難しいと思ってた。けど今日、ちょっとわかった気がする。“汚れ”って、案外、誠実なんだね」
***
その夜。蓮は祖母の寝室にそっと入った。
「……ばあちゃん、僕、今夜だけ一緒に寝てもいい?」
その問いに、澄子はしばらく黙っていたが、小さく「ん」と頷いた。
部屋の中はまだ散らかっていた。でも、蓮の心には、小さな“余白”ができていた。
「いいですか? 口出しは最小限に。依頼人に余計な感情移入をしないこと。作業中の私語は禁止」
森岡課長の事務的な説明にも、彼女はただ「はい」と一言だけ答えた。目だけが、すべてを見透かすように鋭く光っていた。
今日がユイの初現場同行日。アリサは、彼女の清掃ユニフォーム姿を見て「似合ってる」と思ったが、口には出さなかった。
依頼があったのは、下町の古い一軒家。
依頼主は中学2年生の少年――松崎蓮(れん)。両親を早くに亡くし、祖母と二人暮らしだという。だが、連絡を寄越したのは彼自身で、
「祖母が汚す部屋を、どうにかしたいんです」
という異例の内容だった。
***
「あ……あの、こっちです」
蓮は、少し猫背の少年だった。声はか細いが、目だけはまっすぐだった。
築50年は超える平屋の玄関を開けた瞬間、アリサたちは息を呑んだ。
廊下には新聞紙が絨毯のように敷き詰められ、台所には半年前のカレー鍋が鍋ごと眠っていた。居間には服とチラシが山を成している。そして奥の部屋に見えるのは、うずくまる老人の背。
「祖母は、……最近はほとんど、寝室から出てきません。話しかけると怒るんです」
蓮はそう言ったが、その声には“哀しさ”より“諦め”が滲んでいた。
ユイがふと、横目で蓮を見た。
「君、何歳?」
「……14です。もうすぐ15」
「自立願望、強そう」
「え?」
「うちの親と同じだ。突然いなくなったくせに、いまだに家の中には足跡ばかり残してる」
「……」
蓮は答えなかったが、手がわずかに震えていた。
***
「新聞紙の敷き詰めは典型的ですね。足音を消したい、という無意識の現れです」
森岡が部屋の中を見渡しながら呟いた。
「あるいは、過去を“保存”したい人がやる行動でもある。年月日が書かれた紙は、記録としての役割も果たす」
アリサは黙って頷いた。
台所のシンクには、黴びた食器が数十枚重なっている。水も出ない。給湯器も壊れて久しいようだった。
蓮の祖母――澄子さん(78)は、ふと顔を上げると、アリサたちを鋭く睨みつけた。
「……他人を家に入れるなんて、あの子は馬鹿だよ。片付ける必要なんて、ない」
「理由を、聞いてもいいですか」
アリサが静かに尋ねると、澄子は微かに笑った。
「わたしはね、この“匂い”が好きなのよ。生きてる気がするの。新聞のインクの匂い、湿った衣類の臭い……これがあるから、わたしは今日も生きてる」
「誰かと一緒に?」
「いや。わたし自身と、よ」
その言葉に、アリサはどこかで自分と似た“反響”を感じた。
***
作業は3時間を要した。
ユイは黙々と段ボールを組み立て、缶とビンを分別していた。だが、時折、ちらりと蓮の背を見ていた。
アリサがキッチンの引き出しから、封筒の束を見つけた。
すべて未開封。差出人は「社会福祉協議会」「介護支援センター」「市役所」など。
「祖母さん、助けを拒絶してたんですね。制度の匂いが嫌だったのかもしれない」
「……綺麗にされるって、殺されるような気がするって、言ってました」
蓮の言葉に、ユイが突然立ち上がった。
「蓮くん」
「……はい?」
「あなた、自分の居場所を作ろうとしてるよね。でもね、誰かの“居場所”を奪ってまでは作っちゃいけない」
「……でも、じゃあ、僕はどうしたら……」
「誰にも答えなんか出せない。わたしだって、いまだに“自分の部屋”って言える場所、ないもん」
ユイは、静かに続けた。
「でも、少なくとも。誰かの“匂い”を消す前に、その人の“生き方”に敬意は払った方がいい。掃除って、そういう仕事だから」
蓮はその言葉を、深く深く飲み込んでいった。
***
帰りの車中。ユイはぽつりと呟いた。
「わたしさ、最近やっとわかった。きれいにするってこと、誰かの命に触るってことなんだよね」
「……最初にしては、悪くなかったわよ」
アリサが答えると、ユイは小さく微笑んだ。
「わたし、片付けるより、残す方が難しいと思ってた。けど今日、ちょっとわかった気がする。“汚れ”って、案外、誠実なんだね」
***
その夜。蓮は祖母の寝室にそっと入った。
「……ばあちゃん、僕、今夜だけ一緒に寝てもいい?」
その問いに、澄子はしばらく黙っていたが、小さく「ん」と頷いた。
部屋の中はまだ散らかっていた。でも、蓮の心には、小さな“余白”ができていた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【完結】伯爵令嬢の25通の手紙 ~この手紙たちが、わたしを支えてくれますように~
朝日みらい
恋愛
煌びやかな晩餐会。クラリッサは上品に振る舞おうと努めるが、周囲の貴族は彼女の地味な外見を笑う。
婚約者ルネがワインを掲げて笑う。「俺は華のある令嬢が好きなんだ。すまないが、君では退屈だ。」
静寂と嘲笑の中、クラリッサは微笑みを崩さずに頭を下げる。
夜、涙をこらえて母宛てに手紙を書く。
「恥をかいたけれど、泣かないことを誇りに思いたいです。」
彼女の最初の手紙が、物語の始まりになるように――。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
処刑された勇者は二度目の人生で復讐を選ぶ
シロタカズキ
ファンタジー
──勇者は、すべてを裏切られ、処刑された。
だが、彼の魂は復讐の炎と共に蘇る──。
かつて魔王を討ち、人類を救った勇者 レオン・アルヴァレス。
だが、彼を待っていたのは称賛ではなく、 王族・貴族・元仲間たちによる裏切りと処刑だった。
「力が強すぎる」という理由で異端者として断罪され、広場で公開処刑されるレオン。
国民は歓喜し、王は満足げに笑い、かつての仲間たちは目を背ける。
そして、勇者は 死んだ。
──はずだった。
十年後。
王国は繁栄の影で腐敗し、裏切り者たちは安穏とした日々を送っていた。
しかし、そんな彼らの前に死んだはずの勇者が現れる。
「よくもまあ、のうのうと生きていられたものだな」
これは、英雄ではなくなった男の復讐譚。
彼を裏切った王族、貴族、そしてかつての仲間たちを絶望の淵に叩き落とすための第二の人生が、いま始まる──。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
幼馴染みの婚約者が「学生時代は愛する恋人と過ごさせてくれ」と言ってきたので、秒で婚約解消を宣言した令嬢の前世が、社畜のおっさんだった件。
灯乃
ファンタジー
子爵家の総領娘である令嬢の前に、巨乳美少女と腕を組んだ婚約者がやってきた。
曰く、「学生時代くらいは、心から愛する恋人と自由に過ごしたい。それくらい、黙って許容しろ」と。
婚約者を甘やかし過ぎていたことに気付いた彼女は、その場で婚約解消を宣言する。
前半はたぶん普通の令嬢もの、後半はおっさんコメディーです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる