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第八話「家族会議とお嬢様の決起」
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重厚な欅の扉が、音を立てて閉じられた。
その瞬間、空気が変わった。
桐原家の本座敷
――名家としての威厳を象徴するこの部屋に、当主代理の祖母・桐原静子、長兄・桐原正和、その妻・澄子、家令・遠山、そして――
「……失礼いたします」
音もなくすり足で現れたのは、桐原絢子である。
その姿はいつもの笑顔と違い、きりりと引き締まっていた。
背筋を伸ばし、顔を伏せずに、正面の静子をまっすぐに見据える。
「お絢。今日は、大事な話がある」
静子の声は低く、硬い。
それは予告されていた。
女学校での言動、町での奔放な振る舞い、役場の牧野慎之介との頻繁な交流――
「名家の娘らしからぬ行い」が、いよいよ家中の問題として取り沙汰される時が来たのだ。
「まずは、あなたの行いについて、説明を求めます」
正和が口火を切った。
その眉間には皺が寄り、目元はまるで役人のように冷たかった。
「女学校では先生に対して異論を唱え、町では下町の子供たちと遊び歩き、時には泥だらけで帰宅したという話すらある。しかも、役場の若い役人と――」
「――牧野さんは、私の大切な相談相手です」
絢子は遮った。
その声には、震えがなかった。
「決して、軽々しくお付き合いしているわけではありません。学び合える相手として、私は彼を尊敬しています」
「尊敬だと? 庶民の官吏を? 彼の家が何家の出か、お前は分かっているのか?」
正和の言葉に、絢子は頷いた。
「ええ。旧士族、牧野家。代々、文に通じた家柄であり、今も町政に真摯に向き合っていらっしゃいます。家柄で人を量るのは、私はおかしいと思います」
「その“おかしさ”が通じる世の中なら、名家も家名も要らぬ。お前が遊んでいる町の子供たちと、我々は同じか?」
その瞬間、正面の静子が手を上げた。
「やめなさい、正和」
老女の目は、まっすぐに絢子を射抜いていた。
「お絢。お前は、自分のしていることが、家にどれほどの重みをもたらすか、分かっておるのか」
「はい。分かっております」
「ではなぜ、それでも己を貫く?」
静子の声には、怒りではなく、静かな“問う力”があった。
絢子は深く、深く頭を下げた。そして、言った。
「私が生まれた家は、名家と呼ばれる家です。けれど私は、この家のために生まれたのではなく、この町の人々と共に生きたいから、学び、動いてきました」
顔を上げた瞳は、涙一滴すら浮かべていなかった。
「家の重みを、私は否定しません。でも、それに潰されて生きるのではなく、受け継ぎながら、新しい形にしてゆくことが私の“役目”だと思っています」
正和が声を荒げた。
「理想論だ! お前の言う“新しい形”が、どれほど危ういものか分かっているのか。縁談の話も――」
「結婚は、私の人生を誰かの名誉に預けることではありません」
その一言に、部屋の空気が止まった。
「私は、自分の意志で、生きる相手を選びます。家に相応しいからではなく、私が望むから選びます」
老いた静子の目が細められた。
その唇が、微かに震えた。
「……あの人に、似ておる」
呟くように言ったその“あの人”とは
――絢子の亡き母であった。
絢子は知らなかった。
かつて母もまた、家の在り方に異を唱え、孤独の中で選んだ恋を貫き、やがて命を失った人だったことを。
「祖母様……」
「お前の想い、たしかに聞いた。だが――覚えておくのじゃ。強さだけでは、人は守れぬ。ときに、折れてしなやかにあることが、家を守る術となる」
「はい……肝に銘じます」
老女はゆっくりと頷いた。
「では、桐原絢子――己の名と意志において、今後の行いを定めよ。それが通るなら、我らは黙して見守ろう」
それは、“桐原家”としての黙認であり、同時に――絢子自身への“責任”の要求でもあった。
「感謝いたします。祖母様、兄上……皆様」
絢子は深く頭を下げ、座敷を下がった。
襖の向こう、初夏の風が廊下の障子を揺らす。
その風の中を、絢子はまっすぐに歩いた。
泣かなかった。怯まなかった。
けれど、その手はわずかに震えていた。
その夜、彼女は日記帳に、こう記した。
--------------------------------------------------------------------------------
今日は、私がはじめて「桐原家の娘」ではなく、
「桐原絢子」として、声を上げた日。
まだ怖い。でも、少しだけ、自由が近づいた気がする。
--------------------------------------------------------------------------------
(第八話 完)
その瞬間、空気が変わった。
桐原家の本座敷
――名家としての威厳を象徴するこの部屋に、当主代理の祖母・桐原静子、長兄・桐原正和、その妻・澄子、家令・遠山、そして――
「……失礼いたします」
音もなくすり足で現れたのは、桐原絢子である。
その姿はいつもの笑顔と違い、きりりと引き締まっていた。
背筋を伸ばし、顔を伏せずに、正面の静子をまっすぐに見据える。
「お絢。今日は、大事な話がある」
静子の声は低く、硬い。
それは予告されていた。
女学校での言動、町での奔放な振る舞い、役場の牧野慎之介との頻繁な交流――
「名家の娘らしからぬ行い」が、いよいよ家中の問題として取り沙汰される時が来たのだ。
「まずは、あなたの行いについて、説明を求めます」
正和が口火を切った。
その眉間には皺が寄り、目元はまるで役人のように冷たかった。
「女学校では先生に対して異論を唱え、町では下町の子供たちと遊び歩き、時には泥だらけで帰宅したという話すらある。しかも、役場の若い役人と――」
「――牧野さんは、私の大切な相談相手です」
絢子は遮った。
その声には、震えがなかった。
「決して、軽々しくお付き合いしているわけではありません。学び合える相手として、私は彼を尊敬しています」
「尊敬だと? 庶民の官吏を? 彼の家が何家の出か、お前は分かっているのか?」
正和の言葉に、絢子は頷いた。
「ええ。旧士族、牧野家。代々、文に通じた家柄であり、今も町政に真摯に向き合っていらっしゃいます。家柄で人を量るのは、私はおかしいと思います」
「その“おかしさ”が通じる世の中なら、名家も家名も要らぬ。お前が遊んでいる町の子供たちと、我々は同じか?」
その瞬間、正面の静子が手を上げた。
「やめなさい、正和」
老女の目は、まっすぐに絢子を射抜いていた。
「お絢。お前は、自分のしていることが、家にどれほどの重みをもたらすか、分かっておるのか」
「はい。分かっております」
「ではなぜ、それでも己を貫く?」
静子の声には、怒りではなく、静かな“問う力”があった。
絢子は深く、深く頭を下げた。そして、言った。
「私が生まれた家は、名家と呼ばれる家です。けれど私は、この家のために生まれたのではなく、この町の人々と共に生きたいから、学び、動いてきました」
顔を上げた瞳は、涙一滴すら浮かべていなかった。
「家の重みを、私は否定しません。でも、それに潰されて生きるのではなく、受け継ぎながら、新しい形にしてゆくことが私の“役目”だと思っています」
正和が声を荒げた。
「理想論だ! お前の言う“新しい形”が、どれほど危ういものか分かっているのか。縁談の話も――」
「結婚は、私の人生を誰かの名誉に預けることではありません」
その一言に、部屋の空気が止まった。
「私は、自分の意志で、生きる相手を選びます。家に相応しいからではなく、私が望むから選びます」
老いた静子の目が細められた。
その唇が、微かに震えた。
「……あの人に、似ておる」
呟くように言ったその“あの人”とは
――絢子の亡き母であった。
絢子は知らなかった。
かつて母もまた、家の在り方に異を唱え、孤独の中で選んだ恋を貫き、やがて命を失った人だったことを。
「祖母様……」
「お前の想い、たしかに聞いた。だが――覚えておくのじゃ。強さだけでは、人は守れぬ。ときに、折れてしなやかにあることが、家を守る術となる」
「はい……肝に銘じます」
老女はゆっくりと頷いた。
「では、桐原絢子――己の名と意志において、今後の行いを定めよ。それが通るなら、我らは黙して見守ろう」
それは、“桐原家”としての黙認であり、同時に――絢子自身への“責任”の要求でもあった。
「感謝いたします。祖母様、兄上……皆様」
絢子は深く頭を下げ、座敷を下がった。
襖の向こう、初夏の風が廊下の障子を揺らす。
その風の中を、絢子はまっすぐに歩いた。
泣かなかった。怯まなかった。
けれど、その手はわずかに震えていた。
その夜、彼女は日記帳に、こう記した。
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今日は、私がはじめて「桐原家の娘」ではなく、
「桐原絢子」として、声を上げた日。
まだ怖い。でも、少しだけ、自由が近づいた気がする。
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(第八話 完)
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