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第十五話「秘密の学校、そして涙」
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絢子が桐原家へ戻ったのは、下紺野の寺子屋での出来事から二日後のことだった。
正和は何も言わず、祖母の静子もただ一言「よう戻った」とだけ告げ、静かに茶を差し出した。
その背中に、どこかほっとした色が見えるのを、絢子は確かに見た。
――しかし、それで“全てが許された”わけではない。
桐原家の名のもと、家出は家出である。
それが町の噂になるのは、もはや時間の問題だった。
(それでも――)
絢子の中には、揺るがぬ想いがあった。
下紺野の子供たちの、泥だらけの手。
字を覚えたことを心から喜び、声を張り上げて読み上げるその笑顔。
「この手で、もう一度やってみたい」
「自分の力で、もっと多くの子に“居場所”を作りたい」
そう強く思ったのだった。
* * *
「――お嬢様、まさか、それを“町で”やるおつもりですか」
驚きと困惑の声を上げたのは、桐原家の家令・遠山だった。
絢子はきっぱりと頷いた。
「はい。町の子供たち、特に女の子たちのために、“読み書きを教える場”を作ります」
「それは……確かに立派なことではありますが……」
「立派なだけでは、駄目なんです。
町の奥で生まれた女の子は、字も知らぬまま嫁に出され、“知らぬまま”の人生を歩む。
“知る自由”を知らぬまま、です」
遠山は言葉を失っていた。
けれど、絢子の目の中に宿る火を見て、もはや止めることは無意味だと悟った。
「お嬢様……」
「“お絢さま”じゃなくていい。
“先生”でも、“お姉ちゃん”でも。
私は、この町で“居場所”を持たない子供たちのために、扉を開けたいんです」
* * *
計画はすぐに動き始めた。
場所は、山下町の裏手にある空き蔵。
元は酒屋の貯蔵所だったが、今は誰も使っておらず、町の自治会の所有地となっていた。
「お絢さまが使いたいって? なんじゃそりゃ、なんでまた?」
最初は町の有力者も戸惑ったが、慎之介が間に入り、役場の手続きと簡易の許可を整える。
「正式な“学校”ではありません。あくまで“私塾”です」
慎之介の冷静な説明と、何より町の子供たちからの「やったー!」という歓声が、反対意見を押し流した。
「お絢さまの学校、いつから!?」
「わたし、字が書けるようになりたい!」
「兄ちゃんにも教えてもらっていい?」
やがて、その蔵は町の片隅の“灯り”となった。
名もなき小さな学校――
その名は、子供たちが呼び始めた通りに、「絢子の寺子屋」。
木の板を床に敷き、壁に貼った五十音。
貸本屋で借りてきた童話集と、役場の古文書をもとにした地図帳。
何もかもが手作りだったが、子供たちの目はきらきらと輝いていた。
* * *
ある日。
授業を終えて、絢子は寺子屋の窓辺で一息ついていた。
そこに、慎之介が現れる。
「お疲れ様です。……良い、場所ですね」
「はい。夢みたいです。……でも、夢じゃありません」
彼女は笑って、手帳を開いて見せた。
「これは、今週来てくれた子の名簿です。
たった五日で、二十人を超えました。
そのうち半分以上が、女の子なんです」
「……すごいことです」
「……でも、時々、怖くなるんです。
私が“何かの間違い”を起こしてしまうんじゃないかって」
慎之介は黙って彼女の隣に座った。
そして、小さく、静かに言った。
「間違えても、立ち上がればいい。
そのために、私は――ここにいます」
絢子の瞳が、ふるふると震えた。
「……ううん、だめ。泣きたくない。
今は、うれしい涙じゃなくて、不安の涙だから……」
慎之介は、そっと手帳を閉じてやり、彼女の手にそれを返した。
「では、いつか――“誇らしい涙”を、見せてください」
「うん……!」
* * *
夕暮れ、寺子屋の扉を閉めながら、絢子はつぶやいた。
「私は、たしかにここにいる」
名家の娘としてでなく、誰かの娘でもなく。
一人の人間として、名もない子供たちと並んで、夢を見ている。
小さな寺子屋には、今日も絢子の声が響いていた。
「“ゆめ”という字は、“夕べの目”って書きます。
夜に目を閉じて見るものが“夢”なんですね。
でも、目を開いたままでも、人は夢を見ていいんです。
夢を見ることは、生きることと同じなんです」
その言葉に、誰もがじっと頷いた。
涙はもう、こぼれていなかった。
(第十五話 完)
正和は何も言わず、祖母の静子もただ一言「よう戻った」とだけ告げ、静かに茶を差し出した。
その背中に、どこかほっとした色が見えるのを、絢子は確かに見た。
――しかし、それで“全てが許された”わけではない。
桐原家の名のもと、家出は家出である。
それが町の噂になるのは、もはや時間の問題だった。
(それでも――)
絢子の中には、揺るがぬ想いがあった。
下紺野の子供たちの、泥だらけの手。
字を覚えたことを心から喜び、声を張り上げて読み上げるその笑顔。
「この手で、もう一度やってみたい」
「自分の力で、もっと多くの子に“居場所”を作りたい」
そう強く思ったのだった。
* * *
「――お嬢様、まさか、それを“町で”やるおつもりですか」
驚きと困惑の声を上げたのは、桐原家の家令・遠山だった。
絢子はきっぱりと頷いた。
「はい。町の子供たち、特に女の子たちのために、“読み書きを教える場”を作ります」
「それは……確かに立派なことではありますが……」
「立派なだけでは、駄目なんです。
町の奥で生まれた女の子は、字も知らぬまま嫁に出され、“知らぬまま”の人生を歩む。
“知る自由”を知らぬまま、です」
遠山は言葉を失っていた。
けれど、絢子の目の中に宿る火を見て、もはや止めることは無意味だと悟った。
「お嬢様……」
「“お絢さま”じゃなくていい。
“先生”でも、“お姉ちゃん”でも。
私は、この町で“居場所”を持たない子供たちのために、扉を開けたいんです」
* * *
計画はすぐに動き始めた。
場所は、山下町の裏手にある空き蔵。
元は酒屋の貯蔵所だったが、今は誰も使っておらず、町の自治会の所有地となっていた。
「お絢さまが使いたいって? なんじゃそりゃ、なんでまた?」
最初は町の有力者も戸惑ったが、慎之介が間に入り、役場の手続きと簡易の許可を整える。
「正式な“学校”ではありません。あくまで“私塾”です」
慎之介の冷静な説明と、何より町の子供たちからの「やったー!」という歓声が、反対意見を押し流した。
「お絢さまの学校、いつから!?」
「わたし、字が書けるようになりたい!」
「兄ちゃんにも教えてもらっていい?」
やがて、その蔵は町の片隅の“灯り”となった。
名もなき小さな学校――
その名は、子供たちが呼び始めた通りに、「絢子の寺子屋」。
木の板を床に敷き、壁に貼った五十音。
貸本屋で借りてきた童話集と、役場の古文書をもとにした地図帳。
何もかもが手作りだったが、子供たちの目はきらきらと輝いていた。
* * *
ある日。
授業を終えて、絢子は寺子屋の窓辺で一息ついていた。
そこに、慎之介が現れる。
「お疲れ様です。……良い、場所ですね」
「はい。夢みたいです。……でも、夢じゃありません」
彼女は笑って、手帳を開いて見せた。
「これは、今週来てくれた子の名簿です。
たった五日で、二十人を超えました。
そのうち半分以上が、女の子なんです」
「……すごいことです」
「……でも、時々、怖くなるんです。
私が“何かの間違い”を起こしてしまうんじゃないかって」
慎之介は黙って彼女の隣に座った。
そして、小さく、静かに言った。
「間違えても、立ち上がればいい。
そのために、私は――ここにいます」
絢子の瞳が、ふるふると震えた。
「……ううん、だめ。泣きたくない。
今は、うれしい涙じゃなくて、不安の涙だから……」
慎之介は、そっと手帳を閉じてやり、彼女の手にそれを返した。
「では、いつか――“誇らしい涙”を、見せてください」
「うん……!」
* * *
夕暮れ、寺子屋の扉を閉めながら、絢子はつぶやいた。
「私は、たしかにここにいる」
名家の娘としてでなく、誰かの娘でもなく。
一人の人間として、名もない子供たちと並んで、夢を見ている。
小さな寺子屋には、今日も絢子の声が響いていた。
「“ゆめ”という字は、“夕べの目”って書きます。
夜に目を閉じて見るものが“夢”なんですね。
でも、目を開いたままでも、人は夢を見ていいんです。
夢を見ることは、生きることと同じなんです」
その言葉に、誰もがじっと頷いた。
涙はもう、こぼれていなかった。
(第十五話 完)
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