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第十九話「初恋と呼ぶには遅すぎて」
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九月のはじめ、夏の名残を感じさせる蒸し暑さの中にも、ふとした風に秋の気配が混じり始めた頃――
桐原絢子は、寺子屋の縁側で一冊の本を読んでいた。
膝の上には、子供たちが書いた作文が束になっており、内容はどれも、季節の移り変わりについてだった。
「ひぐらしがないた。ひぐらしがなると、ぼくのこころも、なんとなくしずかになります」
「はっぱがきいろくなって、ままがさみしいっていってました。さみしいって、なんですか?」
読んでいるうちに、ふと絢子は胸がきゅっとなるのを感じた。
「さみしいって、なんですか?」
――その問いが、自分に突きつけられたように思えたからだ。
(寂しいって、どういうことだろう)
物理的に誰かがいないこと?
心に空いた穴? それとも、誰かのぬくもりが思い出されること?
考えていると、背後から足音がした。
「お疲れ様です、先生」
絢子が振り返ると、そこにはいつも通りの穏やかな声と、少しだけ汗ばんだ慎之介の姿があった。
「あ……いらっしゃいませ、“共犯者さん”」
「まだそれで呼びますか」
「ええ。お気に入りですから」
ふたりは笑い合い、隣に並んで腰を下ろす。
「……最近、急に静かになった気がしますね」
「はい。嵐の後の、というやつでしょうか」
「町の空気も、少しずつ変わってきてます。婦人会のおばさまが、寺子屋に刺し子を教えに来てくれることになったんです」
「それは、すばらしい。最初に敵だった人が、今は味方になる――それほど、あなたが“やってきたこと”が、正しかったということです」
「……あなたが、そう言ってくれるから、私はがんばれたんですよ」
絢子はぽつりと呟いた。
慎之介はふと黙り、風が抜ける音だけがふたりの間に流れた。
「牧野さん」
「はい」
「私、今日、話したいことがあります」
いつになく真剣な表情だった。
「少しだけ、歩きませんか?」
* * *
夕暮れの町をふたりで歩くのは、思えばこれが初めてだった。
昼間の喧騒が過ぎ、軒先には風鈴が鳴り、通りの猫があくびをする。
寺子屋から離れ、小川のほとりまで来たところで、絢子は立ち止まった。
「……ここ、わたしが子供のころ、よくひとりで来ていた場所です」
「川の流れ、穏やかですね」
「ええ。でも、大雨のときはすぐに溢れそうになるの。
そういうところ、わたしに似てるなって、思ったりしてました」
慎之介は少し驚いた顔で、しかし、微笑んだ。
「あなたが“溢れる”ところなんて、想像できません」
「……本当は、すぐ溢れそうになるんです」
そう言って、彼女はふいに目を伏せた。
「牧野さん」
「はい」
「私は、あなたに支えられて、たくさんのことを乗り越えてきました。
でも、支えられてばかりではいけないとも、思ってるんです」
彼女の声が、微かに震えていた。
「いつか、あなたがつまずいたとき、傷ついたとき、
私があなたの“支え”になりたい。
……それって、傲慢でしょうか?」
「……傲慢など、決して」
慎之介は、初めて――ほんとうに、初めて、彼女に触れた。
そっと、手を握り、もう片方の手でその頬に触れた。
「私は、あなたに出会って、変わりました」
「……」
「人のために涙を流す人を、美しいと思えるようになった。
笑顔に希望を感じるようになった。
そして、あなたのそばにいたいと、思うようになった」
川のせせらぎが、風に運ばれて優しく流れる。
「桐原絢子さん。私は――あなたを、心から愛しています」
その言葉に、絢子の瞳がみるみる潤んだ。
「……愛、って」
「“初恋”などというには、遅すぎました。
けれど、私はあなたのすべてを知ったうえで、
心からそう思っています」
絢子は、ふっと笑った。
そして、その手をぎゅっと握り返した。
「わたしも……あなたが、好きです」
まっすぐに、やっと言えた。
それは、少女ではなく――
“ひとりの女性”としての、最初の恋の成就だった。
夕空には、茜色の雲がひろがっていた。
ふたりの影が、寄り添うように川面に落ちる。
まだ何も終わっていない。
けれど、確かに何かが始まった。
それは、「初恋と呼ぶには遅すぎて」、
けれど、「これからの人生すべてを懸けても惜しくない」ほどの、愛の始まりだった。
(第十九話 完)
桐原絢子は、寺子屋の縁側で一冊の本を読んでいた。
膝の上には、子供たちが書いた作文が束になっており、内容はどれも、季節の移り変わりについてだった。
「ひぐらしがないた。ひぐらしがなると、ぼくのこころも、なんとなくしずかになります」
「はっぱがきいろくなって、ままがさみしいっていってました。さみしいって、なんですか?」
読んでいるうちに、ふと絢子は胸がきゅっとなるのを感じた。
「さみしいって、なんですか?」
――その問いが、自分に突きつけられたように思えたからだ。
(寂しいって、どういうことだろう)
物理的に誰かがいないこと?
心に空いた穴? それとも、誰かのぬくもりが思い出されること?
考えていると、背後から足音がした。
「お疲れ様です、先生」
絢子が振り返ると、そこにはいつも通りの穏やかな声と、少しだけ汗ばんだ慎之介の姿があった。
「あ……いらっしゃいませ、“共犯者さん”」
「まだそれで呼びますか」
「ええ。お気に入りですから」
ふたりは笑い合い、隣に並んで腰を下ろす。
「……最近、急に静かになった気がしますね」
「はい。嵐の後の、というやつでしょうか」
「町の空気も、少しずつ変わってきてます。婦人会のおばさまが、寺子屋に刺し子を教えに来てくれることになったんです」
「それは、すばらしい。最初に敵だった人が、今は味方になる――それほど、あなたが“やってきたこと”が、正しかったということです」
「……あなたが、そう言ってくれるから、私はがんばれたんですよ」
絢子はぽつりと呟いた。
慎之介はふと黙り、風が抜ける音だけがふたりの間に流れた。
「牧野さん」
「はい」
「私、今日、話したいことがあります」
いつになく真剣な表情だった。
「少しだけ、歩きませんか?」
* * *
夕暮れの町をふたりで歩くのは、思えばこれが初めてだった。
昼間の喧騒が過ぎ、軒先には風鈴が鳴り、通りの猫があくびをする。
寺子屋から離れ、小川のほとりまで来たところで、絢子は立ち止まった。
「……ここ、わたしが子供のころ、よくひとりで来ていた場所です」
「川の流れ、穏やかですね」
「ええ。でも、大雨のときはすぐに溢れそうになるの。
そういうところ、わたしに似てるなって、思ったりしてました」
慎之介は少し驚いた顔で、しかし、微笑んだ。
「あなたが“溢れる”ところなんて、想像できません」
「……本当は、すぐ溢れそうになるんです」
そう言って、彼女はふいに目を伏せた。
「牧野さん」
「はい」
「私は、あなたに支えられて、たくさんのことを乗り越えてきました。
でも、支えられてばかりではいけないとも、思ってるんです」
彼女の声が、微かに震えていた。
「いつか、あなたがつまずいたとき、傷ついたとき、
私があなたの“支え”になりたい。
……それって、傲慢でしょうか?」
「……傲慢など、決して」
慎之介は、初めて――ほんとうに、初めて、彼女に触れた。
そっと、手を握り、もう片方の手でその頬に触れた。
「私は、あなたに出会って、変わりました」
「……」
「人のために涙を流す人を、美しいと思えるようになった。
笑顔に希望を感じるようになった。
そして、あなたのそばにいたいと、思うようになった」
川のせせらぎが、風に運ばれて優しく流れる。
「桐原絢子さん。私は――あなたを、心から愛しています」
その言葉に、絢子の瞳がみるみる潤んだ。
「……愛、って」
「“初恋”などというには、遅すぎました。
けれど、私はあなたのすべてを知ったうえで、
心からそう思っています」
絢子は、ふっと笑った。
そして、その手をぎゅっと握り返した。
「わたしも……あなたが、好きです」
まっすぐに、やっと言えた。
それは、少女ではなく――
“ひとりの女性”としての、最初の恋の成就だった。
夕空には、茜色の雲がひろがっていた。
ふたりの影が、寄り添うように川面に落ちる。
まだ何も終わっていない。
けれど、確かに何かが始まった。
それは、「初恋と呼ぶには遅すぎて」、
けれど、「これからの人生すべてを懸けても惜しくない」ほどの、愛の始まりだった。
(第十九話 完)
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