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第1話:転校生と海の少年
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潮の匂いが、風に混じって鼻先をくすぐった。
初夏の陽射しに焼かれたアスファルトの上、白い上履きがぱたぱたと軽い音を立てて歩いている。雪野千紘は、校門を出たところでふと立ち止まり、顔を上げた。
新しい制服のリボンが風で少し乱れていた。そっと手で整えてから、彼女は校舎を一度だけ振り返った。
「……はあ」
小さな吐息が、空に溶けて消える。
転校初日。誰ともまともに会話ができなかったことが、胸に小さな棘のように残っていた。
*
新しいクラスは2年B組。自己紹介をしたとき、拍手も返事もなく、ただ空気のように受け入れられた感じだった。
特別冷たいわけでも、意地悪をされたわけでもない。けれど、会話の輪に入りこむには、何か決定的に足りないものがあった。
話しかけてくれたのは、休み時間に「これ教えてあげるよ」とノートを見せてくれた女子生徒だけ。彼女の名前は川瀬碧。明るくて、どこか気取りがなくて、ほっとする空気をまとっていた。
「慣れたら楽になるよ。ウチの学校、最初だけちょっと静かだからさ」
碧のその言葉だけが、今日一日を何とかやり過ごせた理由だった。
でもそれ以上、踏み込んでくる人はいなかった。
教室の窓から見える海は、陽の光を受けてきらきらと揺れていた。
海が見える高校なんて、ロマンチックだと思っていたけど、実際に転校してみれば、そんな幻想は打ち消されるほどの現実感があった。
千紘はスマホを取り出して、地図アプリを開いた。校門から南へ、歩いて10分の場所にある海岸。そこで写真を撮ってみたかった。
転校してきたこの町には、彼女の“逃げ場所”がまだなかったから。
放課後。制服のまま、彼女は海へ向かって歩き出した。
*
堤防に出たとき、潮風がふわりと頬を撫でた。
空は澄み切っていて、水平線が遠くまで見渡せた。
人の姿もまばらな海辺。波打ち際に小さな子どもが一人、貝殻を拾っていた。
そして――もう一人。
堤防の端、コンクリの上に腰をかけている男子生徒の背中があった。
制服のシルエット、肩にかかる髪。風で軽くなびくシャツの袖。
千紘はその姿に、思わず歩みを止めた。
その少年は、まるで“海と会話している”ようだった。
まっすぐ前を見つめたまま、一言も発さず、ただそこにいた。
千紘は距離を取りながら、スマホのカメラを構えた。無音シャッターで、一枚だけ。
――カシャ。
そのとき、彼が振り返った。
目が合った。
千紘は息をのんだ。彼の目は、何かを拒絶するような、けれどどこかで誰かを探しているような、不思議な光を宿していた。
「……ごめんなさい。盗撮、じゃないの」
慌てて謝ったが、彼は何も言わなかった。ただ、じっと千紘を見つめていた。
それから、何も言わずに立ち上がり、制服のズボンについた砂を払って、海辺の階段を降りていった。
「……」
言葉をかけるタイミングを逸してしまった千紘は、軽く頭を下げて、その場に残った。
誰だったんだろう。
何を見ていたんだろう。
それだけで、なんだか胸の奥がざわざわしていた。
*
帰宅後、千紘は部屋のカーテンを開けて、今日撮った写真を見返していた。
ほとんどは空と波ばかり。唯一、あの少年の背中を写した一枚だけが、妙に目を引いた。
画面の中の彼は、誰よりも静かだった。
風も波も光も、その背中にすべて吸い込まれているようだった。
何も語らないのに、彼の背中が語るものが確かにあった。
千紘はその写真に、そっと「海の少年」と名前をつけた。
名前も、声も、何も知らないけれど――なぜか、また会えるような気がしていた。
それが“願い”なのか“直感”なのかは、まだわからない。
ただ、あの海辺に、もう一度行きたかった。
あの場所に戻れば、何かが変わるような気がしていた。
そして彼の“孤独”に、もう一度触れられるような気がしていた。
初夏の陽射しに焼かれたアスファルトの上、白い上履きがぱたぱたと軽い音を立てて歩いている。雪野千紘は、校門を出たところでふと立ち止まり、顔を上げた。
新しい制服のリボンが風で少し乱れていた。そっと手で整えてから、彼女は校舎を一度だけ振り返った。
「……はあ」
小さな吐息が、空に溶けて消える。
転校初日。誰ともまともに会話ができなかったことが、胸に小さな棘のように残っていた。
*
新しいクラスは2年B組。自己紹介をしたとき、拍手も返事もなく、ただ空気のように受け入れられた感じだった。
特別冷たいわけでも、意地悪をされたわけでもない。けれど、会話の輪に入りこむには、何か決定的に足りないものがあった。
話しかけてくれたのは、休み時間に「これ教えてあげるよ」とノートを見せてくれた女子生徒だけ。彼女の名前は川瀬碧。明るくて、どこか気取りがなくて、ほっとする空気をまとっていた。
「慣れたら楽になるよ。ウチの学校、最初だけちょっと静かだからさ」
碧のその言葉だけが、今日一日を何とかやり過ごせた理由だった。
でもそれ以上、踏み込んでくる人はいなかった。
教室の窓から見える海は、陽の光を受けてきらきらと揺れていた。
海が見える高校なんて、ロマンチックだと思っていたけど、実際に転校してみれば、そんな幻想は打ち消されるほどの現実感があった。
千紘はスマホを取り出して、地図アプリを開いた。校門から南へ、歩いて10分の場所にある海岸。そこで写真を撮ってみたかった。
転校してきたこの町には、彼女の“逃げ場所”がまだなかったから。
放課後。制服のまま、彼女は海へ向かって歩き出した。
*
堤防に出たとき、潮風がふわりと頬を撫でた。
空は澄み切っていて、水平線が遠くまで見渡せた。
人の姿もまばらな海辺。波打ち際に小さな子どもが一人、貝殻を拾っていた。
そして――もう一人。
堤防の端、コンクリの上に腰をかけている男子生徒の背中があった。
制服のシルエット、肩にかかる髪。風で軽くなびくシャツの袖。
千紘はその姿に、思わず歩みを止めた。
その少年は、まるで“海と会話している”ようだった。
まっすぐ前を見つめたまま、一言も発さず、ただそこにいた。
千紘は距離を取りながら、スマホのカメラを構えた。無音シャッターで、一枚だけ。
――カシャ。
そのとき、彼が振り返った。
目が合った。
千紘は息をのんだ。彼の目は、何かを拒絶するような、けれどどこかで誰かを探しているような、不思議な光を宿していた。
「……ごめんなさい。盗撮、じゃないの」
慌てて謝ったが、彼は何も言わなかった。ただ、じっと千紘を見つめていた。
それから、何も言わずに立ち上がり、制服のズボンについた砂を払って、海辺の階段を降りていった。
「……」
言葉をかけるタイミングを逸してしまった千紘は、軽く頭を下げて、その場に残った。
誰だったんだろう。
何を見ていたんだろう。
それだけで、なんだか胸の奥がざわざわしていた。
*
帰宅後、千紘は部屋のカーテンを開けて、今日撮った写真を見返していた。
ほとんどは空と波ばかり。唯一、あの少年の背中を写した一枚だけが、妙に目を引いた。
画面の中の彼は、誰よりも静かだった。
風も波も光も、その背中にすべて吸い込まれているようだった。
何も語らないのに、彼の背中が語るものが確かにあった。
千紘はその写真に、そっと「海の少年」と名前をつけた。
名前も、声も、何も知らないけれど――なぜか、また会えるような気がしていた。
それが“願い”なのか“直感”なのかは、まだわからない。
ただ、あの海辺に、もう一度行きたかった。
あの場所に戻れば、何かが変わるような気がしていた。
そして彼の“孤独”に、もう一度触れられるような気がしていた。
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