放課後、君は海を見ていた(アオハル・シリーズ)

naomikoryo

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第2話:名前を呼んだ日

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翌日、雪野千紘は教室の席に着くと、昨日の出来事を何度も頭の中で繰り返していた。

──堤防の上の、あの少年。

制服の色からして、同じ学校の生徒であることは間違いない。でも、教室では見かけなかった。クラスが違うのか、それとも…。

「…なにぼーっとしてんの?」

不意に声をかけられて、千紘は小さく肩を揺らした。

隣の席の川瀬碧が、笑いを堪えるように口元を押さえている。

「あっ…ご、ごめん。ちょっと考え事してただけ」

「考え事ねぇ。転校して二日目にして、もうこの町の海に恋でもした?」

「え…!?」

動揺した声が漏れてしまった。思わず、周囲を見渡す。幸い、誰も聞いていないようだ。

碧は「冗談だよ」と笑ってから、千紘の机に頬杖をつくようにして小声で続けた。

「でもさ、この町に来たばかりの子は、だいたい一回は“海に魅せられる”っていうかさ。うちの学校、海が近いでしょ?放課後になると、ふらっと行っちゃうんだよね。…あんたも行った?」

「う、うん。昨日、少しだけ…」

「堤防のとこ?」

「うん」

そのとき、碧の表情が、ほんの一瞬だけ固まった。

千紘はその変化を見逃さなかった。
なにかを思い出したような、あるいは、思い出したくなかったような顔。

でもそれは一瞬のことだった。すぐに碧はにっこりと笑い、話題を変えた。

「そっか、なら今度一緒に行こっか。…あそこ、夕暮れきれいなんだよ」

「うん、楽しみにしてる」

千紘はそう返しながらも、心のどこかで、“あの少年”が気になっていた。

話しかけられなかったこと。
名前も聞けなかったこと。
それでも、なぜかあの目が焼きついて離れなかった。

午後の授業が終わると、千紘はノートを鞄に押し込み、机に手を添えて立ち上がった。
昨日と同じように、誰に告げることもなく教室を出る。

向かうのは、海。

昨日と同じ潮の匂い。
昨日と同じ風の音。
昨日と同じ堤防の上。

そこに、彼はいた。

やっぱり、いるんだ──。

しゃがんで石を投げるような仕草をしていた彼は、千紘の気配に気づいたのか、振り返った。
今度は驚いたような素振りも、警戒の色もない。
ただ、少しだけ首を傾けて、また前を向いた。

千紘は彼の隣まで歩いて、少し距離を空けて座った。

波の音だけが、ふたりの間に満ちていた。

「…こんにちは」

自分でも驚くほど小さな声だった。けれど、彼には届いたようだった。無言のまま、彼は頷いた。

それが、会話の始まりだった。

「昨日も、ここにいましたよね」

彼は何も言わなかった。

「…毎日、来てるんですか?」

問いかける声は、風に揺れて、少しだけ頼りなかった。でも、千紘は逃げなかった。返事がなくても、そこにいることが嬉しかった。

「私も、海、好きなんです。なんか…無音なのに、心がざわざわするというか」

その言葉に、彼の肩がわずかに揺れた。笑った、ようにも見えた。

「写真、撮ってもいいですか?…あなたのことは写さないから」

彼はまた頷いた。

それだけで、胸の奥にふっと風が吹いたような気がした。

千紘はスマホを取り出し、波のきらめきを、空の青を、堤防の先を切り取っていった。
その間、彼は一言も発さず、ただ海を見つめていた。

「……」

しばらく沈黙が続いた。

でも、それは気まずいものではなかった。むしろ心地よかった。

誰かと一緒にいながら、話さなくてもいい時間というものが、こんなにも安心できるものだとは思わなかった。

風が吹いた。

彼の髪が揺れ、千紘のリボンがひらりと翻る。

そして――

「……千紘」

唐突に、彼が呟いた。

え…?

驚いて彼の方を見ると、彼は少しだけ顔を向けていた。

「…名札、見えたから」

「あ…」

彼の声は、低く、静かで、どこか水の中から届くようだった。

「俺は…颯真。海野颯真」

はじめて、名前を知った。

たったそれだけのことなのに、千紘の胸は大きく波打っていた。

自分の名前を呼ばれたこと。
彼の名前を聞けたこと。

それだけで、世界が少し違って見えた。

「……颯真くん」

呼び返すと、彼は少しだけ目を細めた。
それが笑顔なのか、ただのまぶしさなのか、千紘にはわからなかった。

でも、きっとまた来たいと思った。

この場所に、彼の隣に。

名前を呼び合えるようになった、その小さな一歩を、胸の奥にそっとしまいながら。
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