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第6話:風が吹いた日、ふたりで見た海
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潮風がいつもより強く吹いていた。
雲一つない青空の下、白波が海岸に打ち寄せるたびに、空気の端がざわりと震える。
季節は静かに夏へ向かっていた。
雪野千紘は、放課後の道を颯真と並んで歩いていた。
同じ制服を着たふたりが、堤防へと向かう道を歩く。ただそれだけのことなのに、胸が温かくなっていくのを感じていた。
「今日は、風、強いね」
「うん」
短い返事。でも、以前と違って“終わらせるための言葉”じゃなかった。
颯真は少しだけ顔を千紘の方に向けていた。
それだけで、千紘の足取りは軽くなった。
堤防に着くと、ふたりはいつもの位置に座った。
遠くの水平線が、淡く揺れていた。
「……こうして話すの、最初は変な感じだった」
千紘がそう呟くと、颯真はわずかに目を伏せた。
「俺、人と距離取る癖、あるから」
「うん。でもそれ、少しだけ治ってきてると思う」
「……そう?」
「だって今、ちゃんと話してくれてるし」
そう言うと、颯真は照れ隠しのように空を見上げた。
風が彼の髪を撫で、光が横顔を優しく包んでいた。
「晴人、来週退院できるかもって」
「えっ……」
「まだ安静は必要だけど、もう家で療養できるって。医者が言ってた」
その声には、はっきりとした安堵が混ざっていた。
けれど、同時に迷いのような影も揺れていた。
「よかった…!すごいよ、それは……」
千紘は素直に喜びの声をあげた。けれど、颯真の表情はどこか沈んでいる。
「……けど、晴人は、あの日のこと、まだ何も覚えてない。俺のことも、事故のことも」
「……それって、いいことなんじゃないかな?」
「そうかもしれない。でも――」
そこで、言葉が途切れた。
「……でも、思い出したとき、俺を恨むんじゃないかって……思うんだ。あいつは、俺を助けようとして落ちた。俺のせいで、3年間も眠り続けた。だから……」
風の音が、言葉の隙間を吹き抜けていった。
「俺は、きっと許されない」
その言葉に、千紘の胸が締めつけられた。
どうしてこんなにも優しい人が、自分を罰するように生きているのだろう。
どうしてこんなにも誠実な人が、自分だけを責めてしまうのだろう。
千紘は、静かに彼の手を取った。
「誰が許すとかじゃなくて、自分を許してあげて」
「……でも」
「晴人くんが何も覚えてなくても、あなたは忘れてないんでしょ? だから苦しくて、ずっとここで海を見てたんだよね?」
彼の手が、ほんの少し震えた。
「あなたがそうやって後悔して、誰よりも晴人くんのことを想ってるって、それだけで十分じゃないかな」
颯真は、顔を伏せた。
「……怖いんだよ。晴人に会うのが」
「怖くていいよ」
千紘はその手を強く握りしめた。
「でも、逃げないで。だって、晴人くんにとって一番会いたいのは、きっとお兄ちゃんなんだよ」
その言葉が、風に乗って彼の胸に届いたのかもしれない。
長い沈黙のあと、彼はゆっくりと顔を上げ、空を見つめた。
「……会いに行くよ」
それは、自分にかけた呪いを、ひとつほどくような声だった。
それから数日、千紘と颯真はいつもよりゆっくりとした時間を過ごすようになった。
颯真は前よりも少しだけ話すようになり、たまに冗談も言った。
千紘は彼の笑顔を見て、本当に泣きたくなるほど嬉しくなった。
放課後の堤防には、静かで温かい風が吹いていた。
ある日、千紘はフィルムカメラを持ってきていた。
スマホじゃない、本物のカメラ。父から譲ってもらった古い一眼レフだ。
「撮ってもいい?」
「俺を?」
「うん。今の、あなたを。…きっと、これからのあなたに必要な“記憶”だから」
颯真は少し照れたように頷いた。
シャッターが落ちる音が、海風に重なる。
その瞬間、風が強く吹いた。
ふたりの髪が舞い、スカートと制服の裾がはためく。
千紘の心が、大きく波打った。
「今が、一番きれい」
思わず漏れたその言葉に、颯真は静かに微笑んだ。
「……ありがとう」
その“ありがとう”には、今まで言えなかった言葉が全部込められているような気がした。
千紘は、そっと微笑み返した。
心が、確かにひとつの場所に寄り添った。
だが――その帰り道。
何もかもが順調に見えたその日、千紘のスマホに一本のメッセージが届いた。
差出人は川瀬碧。
「晴人くん、容態が急変したって。救急搬送されたって、颯真に伝えて」
目の前の世界が、すっと色を失った。
ふと横を見れば、颯真は穏やかな顔をして、夕焼けの海を見ていた。
その顔に、どう伝えたらいいのか。
その言葉が、どれほど彼の心を打つのかを思えば、胸が締めつけられる。
けれど、伝えなければならなかった。
「……颯真くん」
「ん?」
「晴人くんが……容態、急変したって。病院、搬送されたって……」
その瞬間、颯真の表情から血の気が引いた。
「……なんで、そんな……っ」
「碧ちゃんから連絡が……」
千紘の言葉を最後まで聞かずに、颯真は駆け出した。
砂利道を踏みしめて、風のように。
千紘はその背中を追いながら、心の中で願っていた。
どうか、どうか、まだ間に合って。
ふたりがまた――海の光を見られる日が来ますように。
雲一つない青空の下、白波が海岸に打ち寄せるたびに、空気の端がざわりと震える。
季節は静かに夏へ向かっていた。
雪野千紘は、放課後の道を颯真と並んで歩いていた。
同じ制服を着たふたりが、堤防へと向かう道を歩く。ただそれだけのことなのに、胸が温かくなっていくのを感じていた。
「今日は、風、強いね」
「うん」
短い返事。でも、以前と違って“終わらせるための言葉”じゃなかった。
颯真は少しだけ顔を千紘の方に向けていた。
それだけで、千紘の足取りは軽くなった。
堤防に着くと、ふたりはいつもの位置に座った。
遠くの水平線が、淡く揺れていた。
「……こうして話すの、最初は変な感じだった」
千紘がそう呟くと、颯真はわずかに目を伏せた。
「俺、人と距離取る癖、あるから」
「うん。でもそれ、少しだけ治ってきてると思う」
「……そう?」
「だって今、ちゃんと話してくれてるし」
そう言うと、颯真は照れ隠しのように空を見上げた。
風が彼の髪を撫で、光が横顔を優しく包んでいた。
「晴人、来週退院できるかもって」
「えっ……」
「まだ安静は必要だけど、もう家で療養できるって。医者が言ってた」
その声には、はっきりとした安堵が混ざっていた。
けれど、同時に迷いのような影も揺れていた。
「よかった…!すごいよ、それは……」
千紘は素直に喜びの声をあげた。けれど、颯真の表情はどこか沈んでいる。
「……けど、晴人は、あの日のこと、まだ何も覚えてない。俺のことも、事故のことも」
「……それって、いいことなんじゃないかな?」
「そうかもしれない。でも――」
そこで、言葉が途切れた。
「……でも、思い出したとき、俺を恨むんじゃないかって……思うんだ。あいつは、俺を助けようとして落ちた。俺のせいで、3年間も眠り続けた。だから……」
風の音が、言葉の隙間を吹き抜けていった。
「俺は、きっと許されない」
その言葉に、千紘の胸が締めつけられた。
どうしてこんなにも優しい人が、自分を罰するように生きているのだろう。
どうしてこんなにも誠実な人が、自分だけを責めてしまうのだろう。
千紘は、静かに彼の手を取った。
「誰が許すとかじゃなくて、自分を許してあげて」
「……でも」
「晴人くんが何も覚えてなくても、あなたは忘れてないんでしょ? だから苦しくて、ずっとここで海を見てたんだよね?」
彼の手が、ほんの少し震えた。
「あなたがそうやって後悔して、誰よりも晴人くんのことを想ってるって、それだけで十分じゃないかな」
颯真は、顔を伏せた。
「……怖いんだよ。晴人に会うのが」
「怖くていいよ」
千紘はその手を強く握りしめた。
「でも、逃げないで。だって、晴人くんにとって一番会いたいのは、きっとお兄ちゃんなんだよ」
その言葉が、風に乗って彼の胸に届いたのかもしれない。
長い沈黙のあと、彼はゆっくりと顔を上げ、空を見つめた。
「……会いに行くよ」
それは、自分にかけた呪いを、ひとつほどくような声だった。
それから数日、千紘と颯真はいつもよりゆっくりとした時間を過ごすようになった。
颯真は前よりも少しだけ話すようになり、たまに冗談も言った。
千紘は彼の笑顔を見て、本当に泣きたくなるほど嬉しくなった。
放課後の堤防には、静かで温かい風が吹いていた。
ある日、千紘はフィルムカメラを持ってきていた。
スマホじゃない、本物のカメラ。父から譲ってもらった古い一眼レフだ。
「撮ってもいい?」
「俺を?」
「うん。今の、あなたを。…きっと、これからのあなたに必要な“記憶”だから」
颯真は少し照れたように頷いた。
シャッターが落ちる音が、海風に重なる。
その瞬間、風が強く吹いた。
ふたりの髪が舞い、スカートと制服の裾がはためく。
千紘の心が、大きく波打った。
「今が、一番きれい」
思わず漏れたその言葉に、颯真は静かに微笑んだ。
「……ありがとう」
その“ありがとう”には、今まで言えなかった言葉が全部込められているような気がした。
千紘は、そっと微笑み返した。
心が、確かにひとつの場所に寄り添った。
だが――その帰り道。
何もかもが順調に見えたその日、千紘のスマホに一本のメッセージが届いた。
差出人は川瀬碧。
「晴人くん、容態が急変したって。救急搬送されたって、颯真に伝えて」
目の前の世界が、すっと色を失った。
ふと横を見れば、颯真は穏やかな顔をして、夕焼けの海を見ていた。
その顔に、どう伝えたらいいのか。
その言葉が、どれほど彼の心を打つのかを思えば、胸が締めつけられる。
けれど、伝えなければならなかった。
「……颯真くん」
「ん?」
「晴人くんが……容態、急変したって。病院、搬送されたって……」
その瞬間、颯真の表情から血の気が引いた。
「……なんで、そんな……っ」
「碧ちゃんから連絡が……」
千紘の言葉を最後まで聞かずに、颯真は駆け出した。
砂利道を踏みしめて、風のように。
千紘はその背中を追いながら、心の中で願っていた。
どうか、どうか、まだ間に合って。
ふたりがまた――海の光を見られる日が来ますように。
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