放課後、君は海を見ていた(アオハル・シリーズ)

naomikoryo

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第5話:沈んだ記憶と青の約束

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海野颯真。
その名前を知ってから、雪野千紘の胸の中で、放課後の景色は変わった。

校舎の裏を抜けて海へ続く道を歩く時、遠くに波の音が聞こえてくるたびに、彼の静かな声が耳に蘇る。
潮風がスカートを揺らすたび、彼の髪が風にそよぐ姿が頭に浮かぶ。

彼は多くを語らない。
でも、確かに言葉ではない「何か」を発していた。

それが気になって、もっと知りたくて、千紘は毎日のように海へ通った。

三度目の放課後、彼の隣に座ったとき、颯真は唐突に尋ねてきた。

「どうして、ここに来るの?」

風に消されそうなほどの小さな声だった。

「……好きだから。海の音とか、空の広さとか。それに……あなたが、いるから」

言ってから、自分でも驚いた。
こんなにも素直に言葉が出てしまうなんて。

けれど、颯真は怒るわけでも、困るわけでもなかった。
ただ少しだけ目を伏せて、呟くように言った。

「変わってるね、君」

「よく言われる」

そう言って微笑むと、颯真の口元も、かすかに動いた気がした。

まるで、見えないシャッターが少しだけ開いたような感覚だった。

その日の夕方。
千紘は、校門の近くで碧と出くわした。

「お、ちょうどよかった。これ、昨日貸すって言ってたプリント。先生に渡せって言われたやつ」

「ありがとう。助かった」

「んで? 今日も行ってたの?」

「え?」

「海だよ、堤防。…颯真に会いにでしょ?」

千紘は少しだけ戸惑った。
けれど、嘘をつく理由もなかった。

「うん。今日も少しだけ」

「……そっか」

碧は短く息を吐き、それから急に足を止めた。
夕陽が差し込んで、彼女の長い髪が橙色に染まっている。

「颯真のこと、気になってる?」

「うん。……知りたいなって思ってる」

「…だったら、ひとつだけ教えてあげる。あの子が毎日海を見てるのには、ちゃんと理由があるよ」

「理由…?」

「3年前、夏の終わり。あの海で、彼の弟が溺れたの」

千紘の呼吸が、ふと止まった。

「颯真は助かった。でも、弟は今も病院にいる。意識が戻らないまま」

風が強くなった。
波音も、遠くでざわりと響いた気がした。

「誰も彼を責めてない。でも、颯真は自分を責めてる。ずっと、ずっと…自分が助けられなかったって」

碧の目は、真っすぐだった。冗談でも軽口でもない、本当の想いがそこにあった。

「だから彼は、あの海を見続けてる。罰みたいに。……だから、無理に近づかないであげてね」

碧はそれだけ言って、手を振って去っていった。

夜。
千紘はベッドの中で何度も碧の言葉を反芻していた。

──自分が助けられなかった。

その言葉の重さが、胸に沈んでくる。
颯真の、あの沈黙の意味が、今なら少しだけわかる気がした。

風の音、波の音、彼の瞳。

すべてが、彼の中にある「悔い」と「痛み」の影だったのだ。

でも。

それでも、千紘は思った。

知ったからこそ、離れたくない。

彼の沈黙に寄り添える自分でありたいと。

翌日、千紘はカメラを持って、再び海へ向かった。

颯真は、いつもの場所にいた。

制服のまま、靴も履いたまま、堤防の縁に腰かけている。

「……来たんだ」

彼のその言葉に、千紘は頷いた。

「うん。今日も、海が見たくて。あなたにも、会いたくて」

そう言うと、颯真は目を閉じて、小さく首を振った。

「なんで、そんな風に言えるの?」

「好きだから」

「俺のこと、何も知らないのに?」

「知りたいから、来てるんだよ」

風が吹いた。潮の匂いが、ふたりの間を通り過ぎていく。

千紘はカメラを構え、颯真の横顔にレンズを向けた。

「撮ってもいい?」

「……好きにすれば」

シャッターの音が、静かに響いた。

それは、彼の中の痛みを写し取るような写真だった。

光に半分だけ照らされた頬。遠くを見つめる目。
そこにあるのは、ただの少年ではなかった。

過去を背負いながらも、それを手放せずにいる誰かの、深い孤独だった。

「あなたの弟くん、晴人くんって言うんだよね?」

そう言った瞬間、颯真の顔がこわばった。

「……碧から聞いたのか」

「うん。でも、話してほしいと思ってるわけじゃないよ。無理に過去を聞きたいんじゃなくて、ただ……」

千紘は膝の上で手を握った。

「私は、今のあなたを知りたいの。あなたが海を見る理由も、ここにいる理由も。すべてが、今のあなたの一部だから」

颯真は沈黙した。

長い、沈黙。

でもその後、ぽつりと口を開いた。

「晴人は、俺を庇ったんだ。あの日、岩場から落ちそうになった俺の手を、彼が掴んだ。代わりに、足を滑らせて海に落ちたのは、晴人の方だった」

「……」

「助けようとしたけど、間に合わなかった。気づいた時には、彼は水の中にいた。……それからずっと、俺は」

声が震えた。
唇を噛みしめ、拳を握る颯真。

千紘は、そっとその手に自分の手を重ねた。

「……じゃあ、私があなたの居場所になる。罰としてじゃなくて、これからを見つめるための場所になりたい」

颯真は顔を上げた。
その目の奥に、揺れる光が見えた。

そして、かすかに──微笑んだ。

その日、千紘は一枚の写真をプリントして、颯真に手渡した。

夕焼けの中で、彼が海を見ている後ろ姿。
その背中に、優しい風が吹いている一枚。

「……ありがとう」

彼が呟いたその声は、海よりもずっと静かで、でも確かに、千紘の胸に届いた。
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