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序章
第1話「檻の中に生まれて」
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檻の隙間から差し込む朝の光は、金網の影を床に縞模様で描いていた。
床は鉄の格子で、その下に敷かれた板の隙間から冷気が這い上がってくる。
けれども、彼にとってそれは「冬の匂い」であり、「朝の気配」だった。
小さなクマの子、バーニーは、檻の中で目を覚ました。
母のぬくもりは、もうない。
あの、ふわふわして温かくて、かすかに甘い乳の匂いがする体は、ある日を境に消えてしまった。
(……ママ。)
その言葉は、彼の中で言語として成り立ってはいなかった。
ただ、甘く、安心で、守ってくれるものへの記憶。
檻の向こうから、人間たちが時折「ママベア」「引退」と言っていたのを覚えている。
そして、その数日後、母熊は大きなトラックに乗せられて去っていった。
バーニーは、その日をきっかけに独りで眠ることを覚えた。
代わりに、夜中に寝言を言いながら彼の檻に入ってきてくれる少年団員や、昼間にミルクをくれる若い女性団員がいた。
彼女はバーニーの鼻先にミルクの瓶を差し出しながら、「バーニー、いい子ね」と何度も言っていた。
言葉の意味は分からない。
けれど、その声の調子、表情、指の動き、目線のやわらかさから、「好き」「大丈夫」「安心して」といった何かが伝わってきた。
(この人は、僕の味方だ。)
檻は決して牢獄ではなかった。
それは彼にとって、「安心できる巣」であり、「自分だけの場所」だった。
世界の匂いは、サーカスの匂いだった。
油の焼けた匂い。
ポップコーンの甘さ。
汗に混じった香水の匂い。
時折、象の檻から届く干し草の匂いと、調教師の靴に染み込んだ革の匂い。
空の青さや、森の匂い、狩りの感覚──そんなものは、彼には想像すらできなかった。
彼にとって「自然」は、サーカステントの裏で見る空と、運動用の金属の輪で囲われたグラウンドだった。
子どもの頃の記憶には、いつも音楽があった。
ラッパの音。
太鼓の音。
団員たちが声を掛け合う声。
観客のざわめき。
それらは不協和音ではなく、世界の一部だった。
ある日、鼻をひくつかせていると、老調教師が彼の頭をぽんと叩いて言った。
「やっぱりお前は、サーカスの空気を吸って育ったクマだな。」
(……空気、クマ、育った。)
バーニーは、音の意味は分からないまま、調教師の笑顔と声の調子から「褒められている」と理解して、鼻を鳴らした。
それは、彼の小さな誇りだった。
兄弟もいなかった。
彼は「一頭きりのクマ」であり、「みんなのクマ」だった。
時には、犬やヤギとすれ違った。
犬はやかましく吠えるばかりで、ヤギは臆病に目を逸らした。
けれど、一匹の老オウムだけは、彼と檻越しに「ヘロー」「バーニー」「ハニー」と奇妙な言葉を投げかけてきた。
バーニーは首を傾げてそれを聴いた。
(この鳥は、何かを知ってる。)
誰もが言葉を使っていたが、彼は言葉の意味を必要としていなかった。
感情を、動きで、目で、匂いで感じ取っていた。
ある日、バーニーは鏡に映った自分をじっと見た。
檻の外に立てかけられた道具箱の裏、そこに差し込んだ光が反射して、偶然鏡が彼に自分を見せたのだった。
(これが……僕?)
大きな鼻。
丸い耳。
灰褐色の毛並み。
ぬいぐるみのようだ、と少女が言っていたのを、音で覚えている。
(ぬいぐるみ……って、なんだ?)
人間たちは皆、自分に触れ、笑い、撫でた。
檻の外から、柵越しに小さな子供たちが飴玉を差し出すこともあった。
バーニーは飴玉の包み紙を鼻で弾き飛ばし、子供たちを笑わせた。
(それで、よかった。)
怖がられたことはない。
怒鳴られたことも、殴られたこともなかった。
彼は「うまく育った」クマだった。
そして、そのことを誇りに思っていた。
夜、団員たちの控え室の灯りが消える頃。
バーニーは自分の檻の中で、丸くなって眠る。
檻の上の天井を見上げると、鉄骨の間から月が覗くことがあった。
月の意味も知らなかった。
ただ、白くて冷たくて、どこか心が静かになる存在だった。
(明日も、また音楽が鳴る。)
彼はそう思いながら、鼻先を前足に埋めて、まどろみに沈んでいった。
風の音は聞こえなかった。
自然の音は聞こえなかった。
でも、そこにある音と光と人の声だけで──彼の世界は、満ちていた。
床は鉄の格子で、その下に敷かれた板の隙間から冷気が這い上がってくる。
けれども、彼にとってそれは「冬の匂い」であり、「朝の気配」だった。
小さなクマの子、バーニーは、檻の中で目を覚ました。
母のぬくもりは、もうない。
あの、ふわふわして温かくて、かすかに甘い乳の匂いがする体は、ある日を境に消えてしまった。
(……ママ。)
その言葉は、彼の中で言語として成り立ってはいなかった。
ただ、甘く、安心で、守ってくれるものへの記憶。
檻の向こうから、人間たちが時折「ママベア」「引退」と言っていたのを覚えている。
そして、その数日後、母熊は大きなトラックに乗せられて去っていった。
バーニーは、その日をきっかけに独りで眠ることを覚えた。
代わりに、夜中に寝言を言いながら彼の檻に入ってきてくれる少年団員や、昼間にミルクをくれる若い女性団員がいた。
彼女はバーニーの鼻先にミルクの瓶を差し出しながら、「バーニー、いい子ね」と何度も言っていた。
言葉の意味は分からない。
けれど、その声の調子、表情、指の動き、目線のやわらかさから、「好き」「大丈夫」「安心して」といった何かが伝わってきた。
(この人は、僕の味方だ。)
檻は決して牢獄ではなかった。
それは彼にとって、「安心できる巣」であり、「自分だけの場所」だった。
世界の匂いは、サーカスの匂いだった。
油の焼けた匂い。
ポップコーンの甘さ。
汗に混じった香水の匂い。
時折、象の檻から届く干し草の匂いと、調教師の靴に染み込んだ革の匂い。
空の青さや、森の匂い、狩りの感覚──そんなものは、彼には想像すらできなかった。
彼にとって「自然」は、サーカステントの裏で見る空と、運動用の金属の輪で囲われたグラウンドだった。
子どもの頃の記憶には、いつも音楽があった。
ラッパの音。
太鼓の音。
団員たちが声を掛け合う声。
観客のざわめき。
それらは不協和音ではなく、世界の一部だった。
ある日、鼻をひくつかせていると、老調教師が彼の頭をぽんと叩いて言った。
「やっぱりお前は、サーカスの空気を吸って育ったクマだな。」
(……空気、クマ、育った。)
バーニーは、音の意味は分からないまま、調教師の笑顔と声の調子から「褒められている」と理解して、鼻を鳴らした。
それは、彼の小さな誇りだった。
兄弟もいなかった。
彼は「一頭きりのクマ」であり、「みんなのクマ」だった。
時には、犬やヤギとすれ違った。
犬はやかましく吠えるばかりで、ヤギは臆病に目を逸らした。
けれど、一匹の老オウムだけは、彼と檻越しに「ヘロー」「バーニー」「ハニー」と奇妙な言葉を投げかけてきた。
バーニーは首を傾げてそれを聴いた。
(この鳥は、何かを知ってる。)
誰もが言葉を使っていたが、彼は言葉の意味を必要としていなかった。
感情を、動きで、目で、匂いで感じ取っていた。
ある日、バーニーは鏡に映った自分をじっと見た。
檻の外に立てかけられた道具箱の裏、そこに差し込んだ光が反射して、偶然鏡が彼に自分を見せたのだった。
(これが……僕?)
大きな鼻。
丸い耳。
灰褐色の毛並み。
ぬいぐるみのようだ、と少女が言っていたのを、音で覚えている。
(ぬいぐるみ……って、なんだ?)
人間たちは皆、自分に触れ、笑い、撫でた。
檻の外から、柵越しに小さな子供たちが飴玉を差し出すこともあった。
バーニーは飴玉の包み紙を鼻で弾き飛ばし、子供たちを笑わせた。
(それで、よかった。)
怖がられたことはない。
怒鳴られたことも、殴られたこともなかった。
彼は「うまく育った」クマだった。
そして、そのことを誇りに思っていた。
夜、団員たちの控え室の灯りが消える頃。
バーニーは自分の檻の中で、丸くなって眠る。
檻の上の天井を見上げると、鉄骨の間から月が覗くことがあった。
月の意味も知らなかった。
ただ、白くて冷たくて、どこか心が静かになる存在だった。
(明日も、また音楽が鳴る。)
彼はそう思いながら、鼻先を前足に埋めて、まどろみに沈んでいった。
風の音は聞こえなかった。
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でも、そこにある音と光と人の声だけで──彼の世界は、満ちていた。
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