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序章
第2話「拍手の海で泳いで」
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パチン、と音を立てて、照明が一つ灯った。
続いて二つ、三つと、ドーム型の天幕の内側に光が広がっていく。
そこに照らされるのは、赤と金の大きな円形ステージ。
しわのある布地には、幾度となく繰り返された演目の痕跡が刻まれている。
今日も観客の席はほぼ満席だった。
人々のざわめきと、ポップコーンの甘い匂いが、幕の裏側にまで届いてくる。
バーニーは、控えスペースの一角でじっとしていた。
緊張しているわけではない。
けれど、観客の気配を、皮膚の奥で感じ取っていた。
(今日も、たくさん来てる。)
隣では団員の少女が衣装を整えながら、笑顔で彼の頭を撫でた。
手袋の上から伝わる体温と、香水のわずかな匂い。
彼女が笑っていると、バーニーも安心する。
だからバーニーは鼻を鳴らし、頭を少し傾けて「準備はできている」という合図を送った。
「よし。今日も決めよう、バーニー。」
老調教師が声をかける。
彼の声は少しかすれているが、バーニーはその響きをよく知っていた。
それは、彼が最初に「芸」を覚えたときから、ずっと傍にあった声だった。
鉄のゲートがゆっくりと開き、スポットライトがまばゆく差し込んでくる。
バーニーは、大きな丸い木製の玉に前足をかけて乗った。
「さあ、我らがスター、バーニーの登場だ!」
司会の声が響くと、観客から歓声があがった。
バーニーは玉の上で軽くバランスを取り、ゆっくりと前進する。
玉がぎゅっと床を押し、揺れるたびに身体の重心がずれる。
それを調整するのは、何百回と練習した身体の感覚だった。
前足、後ろ足、わずかな角度で回転を制御し、回りながら歩く。
観客席から拍手が起きる。
バーニーは鼻先で特製の帽子を放り上げ、回転させた。
次いで、用意された金属の輪を片手で回し、もう一つを投げ上げ、ジャグリングに移行する。
照明が揺れ、拍手が重なり、彼の体がそれに合わせて滑るように動いていく。
(みんな、笑ってる。)
音はわからないが、空気が温かい。
拍手のリズム、観客の手の動き、目の輝き、笑顔。
それらが、彼の中に「うまくやれている」という実感をもたらした。
(これが、ぼくの役目なんだ。)
以前は「言われたから」芸をしていた。
けれど、今は違う。
自分の芸を、誰かが見て、喜んでくれることが嬉しい。
それは、彼にとって「存在する意味」そのものになっていた。
そして──
その中に、一人の少女がいた。
客席の前列。
ツインテールの栗色の髪。
赤いワンピースと、膝に載せた小さな白いカバン。
彼女は笑っていた。
バーニーを見つめて、目を細めて、何度も小さく手を振っていた。
(……あの子、前にもいた。)
記憶の奥に残っていた。
毎回ではない。
けれど、時々、彼女は来ていた。
ほかの観客よりもずっと静かで、けれど目がとても優しかった。
演目の終盤、バーニーはいつもその少女の前で足を止めるようになっていた。
彼女も、それを知っているかのように、笑顔で頷いてくれる。
(この子のために、もっと上手くなりたい。)
言葉ではない。
けれど、その気持ちは確かに胸の奥にあった。
芸が終わると、ステージには花束が投げ込まれた。
歓声、拍手、拍手、拍手。
まるでそれは、海のようだった。
バーニーはその拍手の海に浮かび、泳いでいた。
舞台裏に戻ると、団員たちが彼を囲んで喜んだ。
「よかったよ、バーニー!」
「今日のジャグリング、完璧だったな。」
「お前、ほんとに人間の言葉がわかるんじゃないのか?」
そう言われると、バーニーは少し首を傾げて、鼻を鳴らす。
それは彼なりの「そうかもしれないね」という答えだった。
控え室に戻る途中、少女が見えた。
帰り際、母親らしき女性の手を引いて、ステージ脇を通っていた。
彼女は一瞬、バーニーに気づいて、にっこり笑った。
手を振った。
バーニーも、柵の向こうから前足を軽く上げて応えた。
その一瞬に、言葉はいらなかった。
たった数秒。
けれど、その記憶は彼の心に、しっかりと刻み込まれた。
(また、来てくれるといいな。)
夜。
バーニーは檻の中で、まるくなって目を閉じる。
今日は拍手が長かった。
芸が終わった後も、しばらく拍手が鳴りやまなかった。
その音が、今も耳の奥に残っていた。
(明日は……もう少し、高く帽子を飛ばしてみようかな。)
そんなことを思いながら、彼はゆっくりと眠りについた。
サーカスという世界。
その中で、自分にしかできないことがあるという確信。
そして、あの少女の笑顔。
彼の胸には、まだ名もない「誇り」の芽が、静かに根を張っていた。
続いて二つ、三つと、ドーム型の天幕の内側に光が広がっていく。
そこに照らされるのは、赤と金の大きな円形ステージ。
しわのある布地には、幾度となく繰り返された演目の痕跡が刻まれている。
今日も観客の席はほぼ満席だった。
人々のざわめきと、ポップコーンの甘い匂いが、幕の裏側にまで届いてくる。
バーニーは、控えスペースの一角でじっとしていた。
緊張しているわけではない。
けれど、観客の気配を、皮膚の奥で感じ取っていた。
(今日も、たくさん来てる。)
隣では団員の少女が衣装を整えながら、笑顔で彼の頭を撫でた。
手袋の上から伝わる体温と、香水のわずかな匂い。
彼女が笑っていると、バーニーも安心する。
だからバーニーは鼻を鳴らし、頭を少し傾けて「準備はできている」という合図を送った。
「よし。今日も決めよう、バーニー。」
老調教師が声をかける。
彼の声は少しかすれているが、バーニーはその響きをよく知っていた。
それは、彼が最初に「芸」を覚えたときから、ずっと傍にあった声だった。
鉄のゲートがゆっくりと開き、スポットライトがまばゆく差し込んでくる。
バーニーは、大きな丸い木製の玉に前足をかけて乗った。
「さあ、我らがスター、バーニーの登場だ!」
司会の声が響くと、観客から歓声があがった。
バーニーは玉の上で軽くバランスを取り、ゆっくりと前進する。
玉がぎゅっと床を押し、揺れるたびに身体の重心がずれる。
それを調整するのは、何百回と練習した身体の感覚だった。
前足、後ろ足、わずかな角度で回転を制御し、回りながら歩く。
観客席から拍手が起きる。
バーニーは鼻先で特製の帽子を放り上げ、回転させた。
次いで、用意された金属の輪を片手で回し、もう一つを投げ上げ、ジャグリングに移行する。
照明が揺れ、拍手が重なり、彼の体がそれに合わせて滑るように動いていく。
(みんな、笑ってる。)
音はわからないが、空気が温かい。
拍手のリズム、観客の手の動き、目の輝き、笑顔。
それらが、彼の中に「うまくやれている」という実感をもたらした。
(これが、ぼくの役目なんだ。)
以前は「言われたから」芸をしていた。
けれど、今は違う。
自分の芸を、誰かが見て、喜んでくれることが嬉しい。
それは、彼にとって「存在する意味」そのものになっていた。
そして──
その中に、一人の少女がいた。
客席の前列。
ツインテールの栗色の髪。
赤いワンピースと、膝に載せた小さな白いカバン。
彼女は笑っていた。
バーニーを見つめて、目を細めて、何度も小さく手を振っていた。
(……あの子、前にもいた。)
記憶の奥に残っていた。
毎回ではない。
けれど、時々、彼女は来ていた。
ほかの観客よりもずっと静かで、けれど目がとても優しかった。
演目の終盤、バーニーはいつもその少女の前で足を止めるようになっていた。
彼女も、それを知っているかのように、笑顔で頷いてくれる。
(この子のために、もっと上手くなりたい。)
言葉ではない。
けれど、その気持ちは確かに胸の奥にあった。
芸が終わると、ステージには花束が投げ込まれた。
歓声、拍手、拍手、拍手。
まるでそれは、海のようだった。
バーニーはその拍手の海に浮かび、泳いでいた。
舞台裏に戻ると、団員たちが彼を囲んで喜んだ。
「よかったよ、バーニー!」
「今日のジャグリング、完璧だったな。」
「お前、ほんとに人間の言葉がわかるんじゃないのか?」
そう言われると、バーニーは少し首を傾げて、鼻を鳴らす。
それは彼なりの「そうかもしれないね」という答えだった。
控え室に戻る途中、少女が見えた。
帰り際、母親らしき女性の手を引いて、ステージ脇を通っていた。
彼女は一瞬、バーニーに気づいて、にっこり笑った。
手を振った。
バーニーも、柵の向こうから前足を軽く上げて応えた。
その一瞬に、言葉はいらなかった。
たった数秒。
けれど、その記憶は彼の心に、しっかりと刻み込まれた。
(また、来てくれるといいな。)
夜。
バーニーは檻の中で、まるくなって目を閉じる。
今日は拍手が長かった。
芸が終わった後も、しばらく拍手が鳴りやまなかった。
その音が、今も耳の奥に残っていた。
(明日は……もう少し、高く帽子を飛ばしてみようかな。)
そんなことを思いながら、彼はゆっくりと眠りについた。
サーカスという世界。
その中で、自分にしかできないことがあるという確信。
そして、あの少女の笑顔。
彼の胸には、まだ名もない「誇り」の芽が、静かに根を張っていた。
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