雨のち、青(アオハル・シリーズ)

naomikoryo

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第1話「雨の午後、あの教室で」

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昼過ぎから降り始めた雨は、まるで誰かの心の中を映すように静かで、終わる気配を見せなかった。
濡れた窓ガラスに水滴が細い筋を描き、教室の中に青みがかった光が滲む。
放課後になっても、空は暗く、雨脚はむしろ強くなっていた。

そんな空の下、白石まひるは教室の隅で机に突っ伏していた。
右耳にはイヤホン。だけど、音楽は流れていない。
ただ、教室の静けさに耐えきれなくて、何かで耳を塞ぎたかっただけだった。

足音はもう、とっくに消えていた。
同じクラスの生徒たちは、放課後の用事へと散っていった。
部活、委員会、友達とのおしゃべり、そして日常。
そこに、まひるの姿はなかった。

彼女は今日、泣いていた。
声は出していない。
でも、涙は止まらなかった。

きっかけは些細なことだった。
文芸部で提出した詩を、顧問の先生に「わかりにくい」と一蹴されたこと。
昼休みに誰かが、彼女の机の上に置いた原稿を“地味”と笑っていたこと。
家では、母親が「もっとちゃんとしなさい」と、まひるの眠気を責め立てたこと。
積み重なった些細なことが、まひるの中で音を立てて崩れた。

自分の居場所が、どこにもないように感じた。
この学校でも、家の中でも。
誰かに「だいじょうぶ?」と聞かれるたびに、「うん」としか言えなかった。
本当は、うんなんかじゃなかったのに。

教室の中には、机と椅子の整った並び、蛍光灯の白い光、濡れた窓。
そのすべてが、まるで誰もいない舞台装置みたいだった。
雨音だけが、生きているように響いている。

ポタ、ポタ、ポタ――。
一定のリズムで、天井から伝ってきた音が、心の底にまで染み込んでいく。

目を閉じれば、世界が遠のいていくようだった。
少しだけ、眠ってしまおうかと思ったそのときだった。

「……泣いてた?」

不意に、誰かの声が降ってきた。
乾いた、少し低めの声。
聞き覚えのない声だった。

びくっと体が反応して、まひるは顔を上げた。
涙の跡が頬に残っていた。
視界の中に、ひとりの男子生徒が立っていた。

黒い髪。
長い前髪が目にかかりそうで、それでも整っている。
制服のネクタイは少し緩く、腕にスケッチブックのようなものを抱えている。
目元はどこか眠たげで、けれどその目線は、まっすぐこちらを見ていた。

「……ごめん、寝てた?」と彼は言った。
まひるは、何も言えなかった。
ただ、首を横に振った。

「泣いてるときって、声かけられると、もっと泣きたくなるよね」
彼はそう言って、教室の後ろの席に座った。
誰の机かなんて気にしていない様子だった。
椅子を引く音が、静まり返った空気に響いた。

まひるは、ぽかんとしていた。
話しかけられるとは思っていなかった。
誰もいないと思っていた。
そして、こんなふうに誰かが“踏み込んでくる”のは、久しぶりだった。

「……なんで、ここに?」
かすれるような声で、まひるは尋ねた。

「雨降ってるでしょ。絵具持ってたから、外出る前に拭こうと思って。……そしたら、いた」
そう言って、彼はスケッチブックを鞄から取り出した。
ページをぱらぱらとめくりながら、机の上に広げる。
そこには、色鉛筆で描かれた空の絵があった。

灰色の空。
濃淡のグラデーションだけで、雲の重さが伝わってくる。
その空の端に、小さく青が浮かんでいた。

「……きれい」
思わず漏れた言葉だった。
まひるは、何かを褒めるとき、自然とそう呟いてしまう癖がある。

「雨の日って、悪いことばっか言われるけど……好きだな。音とか、色とか」
「……私も」
まひるはそう言って、自分の声が思ったよりしっかりしていたことに少し驚いた。

ふたりの間に、少しの沈黙が流れる。
けれど、それは居心地の悪いものではなかった。
むしろ、誰かと共有する“静けさ”に、まひるは少し救われていた。

「……名前、訊いてもいい?」
まひるが言った。
律は少しだけ目を細めたあと、こう答えた。

「黒瀬。黒瀬律」
「……白石まひる」
「うん。知ってる」
「えっ……?」
「図書委員だよね。……いつも窓際で本読んでる」

その言葉に、まひるの頬が熱くなる。
誰も自分のことなんて見ていないと思っていたのに。
律は、見ていた。
それがなぜだかわからないけれど、とても嬉しかった。

「……変な子だと思った?」
「いや。……静かなだけで、変じゃない」

その一言が、まひるの中の“何か”をすうっと軽くした。
静かなだけで、変じゃない。
たったそれだけの肯定が、どれほど救いになるのか。
律は、きっと知らない。

気がつけば、雨脚は弱くなっていた。
空はまだ暗く、傘は必要そうだったけれど、地面の水たまりには空の色が映り始めていた。

律は立ち上がり、スケッチブックを閉じた。
「じゃ、また」
それだけ言って、教室を出ていく。
振り返らない背中。
でも、ドアの開く音と一緒に、空気が変わった気がした。

まひるは、その背中を見送ったあと、ゆっくりと席を立った。
机の上に置きっぱなしだった原稿を、静かに鞄にしまう。
イヤホンを外すと、雨の音はもうほとんど聞こえなかった。

外に出ると、雨上がりの匂いが鼻をくすぐった。
地面は濡れているのに、空は少しだけ明るくなっていた。

まひるは、傘を開いて歩き出した。
前より少し、胸が軽い気がした。

あの教室で出会った声。
「泣いてた?」という言葉が、今も耳の奥に残っている。
その声が、不思議と優しかった。

何も変わっていないはずの日常。
でも、ほんの少しだけ、何かが始まった気がした。
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