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第1章:「異世界の空、初めての戦場」
第4話「炎の矢、仲間の涙」
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森の中の空気は、昼とはまるで違っていた。
湿って重く、どこか鋭い。
夜露に濡れた草の匂いが鼻を刺し、木々のざわめきが耳を緊張させる。
剛は焚き火の前で、硬くなったパンをかじっていた。口の中の水分が全部吸われるようで、飲み込むのにも苦労する。
けれど、食べておかなければ、いざというとき体が動かない。
誰にも悟られないように、黙ってそれを噛み続けていた。
先の夜襲から一日が経過していた。魔族の襲撃は斥候レベルにすぎず、人的被害も最小限――と軍の報告には記された。
だが、それは書類の中の話だ。現実には、誰かが血を流した。
「勇者様」
静かな声に顔を上げると、そこにはカイルがいた。
剛と同じか、少し年下に見える少女兵で、栗色の髪を後ろでひとつに結んでいる。
小柄な体格に軽装の革鎧、機敏さを生かした斥候役だ。
「これ……昨日のお礼。魔族の矢が飛んできた時、勇者様が防いでくれたでしょう?」
「あ、あれはたまたま……」
「でも、あれがなかったら私、あの時もう……」
彼女は笑っていた。どこか無理に作ったような、でも感謝のこもった笑みだった。
「まだ、ちょっと肩が痛むけど……動けるから大丈夫です。今夜も斥候班、出ますから!」
「ちょ、ちょっと待って。それ、本当に大丈夫なの?」
「問題ありません!」
ぴしっと敬礼するカイルに、剛は何も言えなくなった。
彼女が“兵士”である以上、命令には従わなければならない。
そして何より、彼女が“勇者タケル”を信じていることが剛にはわかってしまった。
その夜、再び森へ向かう斥候班の一員に、カイルの名前があった。
「カイル、まだ無理じゃないか?」
剛が小声でリアに訊ねると、リアは目を伏せて言った。
「……彼女、自分から志願したの。前線に立ちたいって」
「どうして?」
「きっと、“勇者様の前でいいところを見せたい”んでしょうね。タケルって、そういう人だったから」
剛は胸が苦しくなるのを感じた。
この世界で、“勇者タケル”がどれだけ人の心を動かしてきたか。
そして、自分がその名前を、期待を、代わりに背負ってしまっていること。
(俺なんかが、立ってていいのか?)
けれど、立ち止まることは許されなかった。
斥候班が森に出る。剛もその後方に控える形で同行することとなった。
日が沈み、月光が木々の隙間から差し込む頃。
一同は、森の奥で不穏な気配を感じ取った。
「いる……!」
誰かが囁いた直後、低く響く唸り声。
剛は咄嗟に剣の柄を握る。
次の瞬間――
炎の矢が、森の中から飛んできた。
「カイルッ!」
剛の叫びと同時に、火矢が斥候班の列に突き刺さる。
カイルの体が吹き飛ばされるように地面に叩きつけられ、火花が舞った。
「くそっ、魔族だ! 三時方向から接近!」
「護衛班、前へ! 勇者様、下がってください!」
混乱の中、剛はカイルのもとに駆け寄った。
肩口から血が滲み、火傷も負っている。彼女は意識を保っていたが、痛みに顔を歪めていた。
「……ゆ、勇者様……無事、ですか……?」
「無理に喋らないで! リア! 回復魔法できる!?」
リアがすぐに駆けつけ、詠唱に入る。
青い光がカイルの傷をなぞり、じょじょに血が止まり始める。
「……軽い火傷と裂傷。内臓まではやられてない。でも、戦線復帰は無理」
「俺のせいだ……」
剛は、膝をついたままつぶやいた。
「あの時、俺がもっと早く気づいていれば。もっと……ちゃんと、勇者だったら……!」
「剛……!」
リアが低く呼びかける。周囲には兵たちがいて、“タケル”という名前は出せない。
それでも、彼女の声は真っすぐに剛の胸に届いた。
「誰かを守るために、全部を完璧にできる人なんていない。タケルだって、何度も悔しがってたわ」
「でも……」
「でも、今のあなたは、彼女のそばにいた。手を握って、声をかけた。誰よりも、勇者らしかった」
カイルが、弱々しく微笑んだ。
「……あったかい……。タケル様の……手……やっぱり、やさしい……」
その言葉に、剛は答えられなかった。
でも、彼女の瞳の中には、確かに“信じている”光が宿っていた。
襲撃は短時間で鎮圧された。
魔族たちはまたも姿をくらまし、村の外れに戻った小隊は、簡易の野営地で傷の手当てに追われた。
その夜、剛は一人で焚き火の前に座っていた。
剣は腰にあるのに、まるで自分が武器を持っているという実感がなかった。
火の揺らめきが、瞳の奥で形を変えて踊る。
仲間を守るために剣を振るう。
でも、その剣が間に合わなかった時、勇者は――どうすればよかったのだろう。
「立っているだけで、誰かに希望を与える。それが、タケルだった」
隣に腰を下ろしたリアが、静かに言った。
「でも、“誰かの悲しみを知る勇者”も、私は間違いじゃないと思う」
剛は火を見つめたまま、答えた。
「俺、何もできない。タケルさんみたいに戦えないし、カッコよくもない。守れなかったって思うたびに、自分が偽物だって思い知らされる」
「それでも――そこに立ってたのは、剛だった」
火の粉がはらはらと夜空に舞う。
彼の心にも、かすかにあたたかな光が残っていた。
“勇者”じゃなくていい。
ただ、“この世界で誰かを守りたい”と願った一人の少年でいい。
その思いこそが、タケルがこの世界で築いたものと、たしかに繋がっていた。
湿って重く、どこか鋭い。
夜露に濡れた草の匂いが鼻を刺し、木々のざわめきが耳を緊張させる。
剛は焚き火の前で、硬くなったパンをかじっていた。口の中の水分が全部吸われるようで、飲み込むのにも苦労する。
けれど、食べておかなければ、いざというとき体が動かない。
誰にも悟られないように、黙ってそれを噛み続けていた。
先の夜襲から一日が経過していた。魔族の襲撃は斥候レベルにすぎず、人的被害も最小限――と軍の報告には記された。
だが、それは書類の中の話だ。現実には、誰かが血を流した。
「勇者様」
静かな声に顔を上げると、そこにはカイルがいた。
剛と同じか、少し年下に見える少女兵で、栗色の髪を後ろでひとつに結んでいる。
小柄な体格に軽装の革鎧、機敏さを生かした斥候役だ。
「これ……昨日のお礼。魔族の矢が飛んできた時、勇者様が防いでくれたでしょう?」
「あ、あれはたまたま……」
「でも、あれがなかったら私、あの時もう……」
彼女は笑っていた。どこか無理に作ったような、でも感謝のこもった笑みだった。
「まだ、ちょっと肩が痛むけど……動けるから大丈夫です。今夜も斥候班、出ますから!」
「ちょ、ちょっと待って。それ、本当に大丈夫なの?」
「問題ありません!」
ぴしっと敬礼するカイルに、剛は何も言えなくなった。
彼女が“兵士”である以上、命令には従わなければならない。
そして何より、彼女が“勇者タケル”を信じていることが剛にはわかってしまった。
その夜、再び森へ向かう斥候班の一員に、カイルの名前があった。
「カイル、まだ無理じゃないか?」
剛が小声でリアに訊ねると、リアは目を伏せて言った。
「……彼女、自分から志願したの。前線に立ちたいって」
「どうして?」
「きっと、“勇者様の前でいいところを見せたい”んでしょうね。タケルって、そういう人だったから」
剛は胸が苦しくなるのを感じた。
この世界で、“勇者タケル”がどれだけ人の心を動かしてきたか。
そして、自分がその名前を、期待を、代わりに背負ってしまっていること。
(俺なんかが、立ってていいのか?)
けれど、立ち止まることは許されなかった。
斥候班が森に出る。剛もその後方に控える形で同行することとなった。
日が沈み、月光が木々の隙間から差し込む頃。
一同は、森の奥で不穏な気配を感じ取った。
「いる……!」
誰かが囁いた直後、低く響く唸り声。
剛は咄嗟に剣の柄を握る。
次の瞬間――
炎の矢が、森の中から飛んできた。
「カイルッ!」
剛の叫びと同時に、火矢が斥候班の列に突き刺さる。
カイルの体が吹き飛ばされるように地面に叩きつけられ、火花が舞った。
「くそっ、魔族だ! 三時方向から接近!」
「護衛班、前へ! 勇者様、下がってください!」
混乱の中、剛はカイルのもとに駆け寄った。
肩口から血が滲み、火傷も負っている。彼女は意識を保っていたが、痛みに顔を歪めていた。
「……ゆ、勇者様……無事、ですか……?」
「無理に喋らないで! リア! 回復魔法できる!?」
リアがすぐに駆けつけ、詠唱に入る。
青い光がカイルの傷をなぞり、じょじょに血が止まり始める。
「……軽い火傷と裂傷。内臓まではやられてない。でも、戦線復帰は無理」
「俺のせいだ……」
剛は、膝をついたままつぶやいた。
「あの時、俺がもっと早く気づいていれば。もっと……ちゃんと、勇者だったら……!」
「剛……!」
リアが低く呼びかける。周囲には兵たちがいて、“タケル”という名前は出せない。
それでも、彼女の声は真っすぐに剛の胸に届いた。
「誰かを守るために、全部を完璧にできる人なんていない。タケルだって、何度も悔しがってたわ」
「でも……」
「でも、今のあなたは、彼女のそばにいた。手を握って、声をかけた。誰よりも、勇者らしかった」
カイルが、弱々しく微笑んだ。
「……あったかい……。タケル様の……手……やっぱり、やさしい……」
その言葉に、剛は答えられなかった。
でも、彼女の瞳の中には、確かに“信じている”光が宿っていた。
襲撃は短時間で鎮圧された。
魔族たちはまたも姿をくらまし、村の外れに戻った小隊は、簡易の野営地で傷の手当てに追われた。
その夜、剛は一人で焚き火の前に座っていた。
剣は腰にあるのに、まるで自分が武器を持っているという実感がなかった。
火の揺らめきが、瞳の奥で形を変えて踊る。
仲間を守るために剣を振るう。
でも、その剣が間に合わなかった時、勇者は――どうすればよかったのだろう。
「立っているだけで、誰かに希望を与える。それが、タケルだった」
隣に腰を下ろしたリアが、静かに言った。
「でも、“誰かの悲しみを知る勇者”も、私は間違いじゃないと思う」
剛は火を見つめたまま、答えた。
「俺、何もできない。タケルさんみたいに戦えないし、カッコよくもない。守れなかったって思うたびに、自分が偽物だって思い知らされる」
「それでも――そこに立ってたのは、剛だった」
火の粉がはらはらと夜空に舞う。
彼の心にも、かすかにあたたかな光が残っていた。
“勇者”じゃなくていい。
ただ、“この世界で誰かを守りたい”と願った一人の少年でいい。
その思いこそが、タケルがこの世界で築いたものと、たしかに繋がっていた。
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