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第3話:社宅の掟と、すこしだけ、境界線の内側
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土曜日の夜、社宅の廊下に水が跳ねる音がした。
洗面所に立っていた雨宮葵は、パイプの下からじわりと水が滲んでいるのを見て、眉をひそめた。
(……え? またお湯、出ない?)
試しに蛇口をひねると、ぬるい水がチョロチョロと出て、すぐに冷たくなる。
給湯器のスイッチは入っているのに、お湯が出ない。
「まさか……壊れた?」
こういう時に限って管理会社は週末休み。張り紙に書かれていたメンテナンス会社に連絡するも、対応は早くて月曜以降になるという返答。
「……マジか……」
よりによってこの春先の寒さで、数日間水風呂はきつい。
しかもシャワーどころか台所のお湯まで死んでいる。葵はソファに崩れ落ちた。
***
夜八時。
不便を嘆いていても仕方ないと、とりあえず風呂をどうにかするために葵は服を羽織り、社宅の廊下へ出た。
「……すみません、あの……」
ノックの音とともに203号室の扉が開き、いつもの無表情――瀬名樹が姿を現す。
「どうしましたか?」
「えっと、急で申し訳ないんですけど……。うちの給湯器、壊れちゃって」
「……」
「業者が来るのが数日後になるみたいで……よければ、その、数日だけ、シャワーだけ使わせてもらえませんか? 本当にそれだけで……!」
言いながら、何度も頭を下げる。
瀬名は無言で数秒間考え――そして、淡々と答えた。
「かまいません」
「……ほんとですか? よかった……!」
「バスタオルとアメニティは、必要なら貸します」
「ありがとうございます……! できるだけ早く終わらせますので!」
***
浴室の灯りが暖かく、湯気に包まれる感覚に、葵は思わずため息をついた。
やはりお湯というのは、文明の奇跡だ。
備えつけのシャンプーもタオルも無駄がなく整っていて、さすが生活力MAX男の住まいだと感心する。
なのに、どこか居心地が悪くない。
(なんでこんなに落ち着くんだろ)
シャワーを終えて髪を拭きながら浴室の扉を開けると、廊下にはそっと折りたたまれた替えのタオルとドライヤーが置かれていた。
「……準備よすぎでは?」
呟きながらリビングを通り、玄関まで歩くと、キッチンのテーブルにふと目がいった。
丁寧に並べられた食器。整理されたカトラリー。ラベル付きのスパイスボトル。
(こんなふうに、誰かと一緒に暮らしてたこと、あるのかな……)
「……ありがとうございました!」
玄関で頭を下げると、瀬名は無言のまま軽く会釈をして、ドアを閉めた。
***
翌朝。
「おはよう葵ちゃん~。なんか、いい香りしてたけど……まさか、昨日、203号室から?」
顔を合わせるなり、西園寺奈津がニヤリと笑う。
散歩帰りなのか、トートバッグを肩にかけ、スポーツドリンク片手だ。
「え、ば、バレてました……?」
「まさか瀬名くんの家にあの時間で出入りして、気づかれないと思った? この社宅、噂の伝播早いのよ?」
「ち、ちがいますって! 給湯器が壊れただけで……お風呂だけ借りて……!」
「あら、じゃあ今夜からは私んち使いなさい。203号室、空気薄そうでしょ?」
「え、いいんですか?」
「女同士のほうが気楽でしょ? バスソルトも選び放題よ♡」
「た、助かります……!」
そうして数日間、葵は“風呂ジプシー”となった。
西園寺宅のお風呂タイムは快適で、話も弾み、つい長居してしまうことも。
「瀬名くんち、どうだった? お風呂だけとはいえ、空気とかさ~」
「……生活感がないのに、居心地は悪くなかったです。不思議と」
「ふふ~ん。案外、“無機質の中の温もり”ってやつかもね」
「……なんですかそれ」
***
それから数日後、無事に給湯器は修理され、生活は元に戻った。
だが葵の中では、“何か”が少しだけ変わっていた。
203号室の前を通るとき、つい足を止めてしまう。
無言で食器を洗う彼の後ろ姿が、なぜかふとよぎる。
(……あの部屋の中、今はどうなってるんだろう)
彼は何も変わらず、淡々と過ごしているだろう。
だけど――あのバスタオルとドライヤーのことを思い出すたびに、ほんの少しだけ、胸が温かくなるのだ。
***
夜、葵はメモアプリに小さく書いた。
《数日だけ、境界線の内側に入れてもらった気がした》
《それだけなのに、なんだか、それを思い出してしまう》
つづく
洗面所に立っていた雨宮葵は、パイプの下からじわりと水が滲んでいるのを見て、眉をひそめた。
(……え? またお湯、出ない?)
試しに蛇口をひねると、ぬるい水がチョロチョロと出て、すぐに冷たくなる。
給湯器のスイッチは入っているのに、お湯が出ない。
「まさか……壊れた?」
こういう時に限って管理会社は週末休み。張り紙に書かれていたメンテナンス会社に連絡するも、対応は早くて月曜以降になるという返答。
「……マジか……」
よりによってこの春先の寒さで、数日間水風呂はきつい。
しかもシャワーどころか台所のお湯まで死んでいる。葵はソファに崩れ落ちた。
***
夜八時。
不便を嘆いていても仕方ないと、とりあえず風呂をどうにかするために葵は服を羽織り、社宅の廊下へ出た。
「……すみません、あの……」
ノックの音とともに203号室の扉が開き、いつもの無表情――瀬名樹が姿を現す。
「どうしましたか?」
「えっと、急で申し訳ないんですけど……。うちの給湯器、壊れちゃって」
「……」
「業者が来るのが数日後になるみたいで……よければ、その、数日だけ、シャワーだけ使わせてもらえませんか? 本当にそれだけで……!」
言いながら、何度も頭を下げる。
瀬名は無言で数秒間考え――そして、淡々と答えた。
「かまいません」
「……ほんとですか? よかった……!」
「バスタオルとアメニティは、必要なら貸します」
「ありがとうございます……! できるだけ早く終わらせますので!」
***
浴室の灯りが暖かく、湯気に包まれる感覚に、葵は思わずため息をついた。
やはりお湯というのは、文明の奇跡だ。
備えつけのシャンプーもタオルも無駄がなく整っていて、さすが生活力MAX男の住まいだと感心する。
なのに、どこか居心地が悪くない。
(なんでこんなに落ち着くんだろ)
シャワーを終えて髪を拭きながら浴室の扉を開けると、廊下にはそっと折りたたまれた替えのタオルとドライヤーが置かれていた。
「……準備よすぎでは?」
呟きながらリビングを通り、玄関まで歩くと、キッチンのテーブルにふと目がいった。
丁寧に並べられた食器。整理されたカトラリー。ラベル付きのスパイスボトル。
(こんなふうに、誰かと一緒に暮らしてたこと、あるのかな……)
「……ありがとうございました!」
玄関で頭を下げると、瀬名は無言のまま軽く会釈をして、ドアを閉めた。
***
翌朝。
「おはよう葵ちゃん~。なんか、いい香りしてたけど……まさか、昨日、203号室から?」
顔を合わせるなり、西園寺奈津がニヤリと笑う。
散歩帰りなのか、トートバッグを肩にかけ、スポーツドリンク片手だ。
「え、ば、バレてました……?」
「まさか瀬名くんの家にあの時間で出入りして、気づかれないと思った? この社宅、噂の伝播早いのよ?」
「ち、ちがいますって! 給湯器が壊れただけで……お風呂だけ借りて……!」
「あら、じゃあ今夜からは私んち使いなさい。203号室、空気薄そうでしょ?」
「え、いいんですか?」
「女同士のほうが気楽でしょ? バスソルトも選び放題よ♡」
「た、助かります……!」
そうして数日間、葵は“風呂ジプシー”となった。
西園寺宅のお風呂タイムは快適で、話も弾み、つい長居してしまうことも。
「瀬名くんち、どうだった? お風呂だけとはいえ、空気とかさ~」
「……生活感がないのに、居心地は悪くなかったです。不思議と」
「ふふ~ん。案外、“無機質の中の温もり”ってやつかもね」
「……なんですかそれ」
***
それから数日後、無事に給湯器は修理され、生活は元に戻った。
だが葵の中では、“何か”が少しだけ変わっていた。
203号室の前を通るとき、つい足を止めてしまう。
無言で食器を洗う彼の後ろ姿が、なぜかふとよぎる。
(……あの部屋の中、今はどうなってるんだろう)
彼は何も変わらず、淡々と過ごしているだろう。
だけど――あのバスタオルとドライヤーのことを思い出すたびに、ほんの少しだけ、胸が温かくなるのだ。
***
夜、葵はメモアプリに小さく書いた。
《数日だけ、境界線の内側に入れてもらった気がした》
《それだけなのに、なんだか、それを思い出してしまう》
つづく
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