社宅の神さまは、恋愛不感症

naomikoryo

文字の大きさ
5 / 15

第5話:風邪と、だし巻きたまご

しおりを挟む
朝。

 アラームが鳴る前に目を覚ました葵は、窓の外の異変に気がついた。
 いつもなら、203号室から流れてくる味噌汁の香り。
 洗濯機の控えめな稼働音。規則正しい包丁の音――

 それが、今朝に限って、一切しなかった。

 (……寝坊? 瀬名さんが?)

 社宅の神さまが「寝坊」なんて。考えにくい。
 けれど、おかしい。心の奥がざわつく。

     ***

 仕事を終えて社宅に戻ると、廊下で西園寺さんに出くわした。

 「ねぇ、葵ちゃん。瀬名くん、今日会社休んだんだって。知ってた?」

 「……えっ?」

 「珍しいよねぇ。熱っぽかったとか。部屋にこもってるみたいだけど」

 その言葉を聞いた瞬間、葵の足は203号室の前で止まっていた。

 ノックを2回。応答、なし。
 耳を近づけても、足音も、気配もない。

 「……瀬名さん? いますか?」

 返事はない。
 けれど、部屋の奥でわずかな咳き込みが聞こえた気がした。

 「……ちょっと、開けますよ」

 鍵は閉まっていた。さすがにピンポンを連打するのははばかられたが、それでも引き返す気になれず、管理人室で合鍵を借りてくる決意をする。

     ***

 部屋に入ると、空気が澱んでいた。
 あの整然とした、整いきった203号室が、ほんの少しだけ――乱れていた。

 キッチンの上に出しっぱなしのカップ。
 テーブルの上の体温計と、未開封の風邪薬。
 寝室のドアをそっと開けると、布団の中で瀬名が横たわっていた。

 「……雨宮、さん……?」

 声が、かすれている。

 「どうして……ここに……?」

 「西園寺さんが教えてくれました。会社、休んだって」

 「……ちょっと、熱が……」

 「はいはい、寝ててください。水とか、何か食べた?」

 「……食欲がなくて」

 「……わかりました」

 そのまま葵は、静かに台所へ向かった。
 そこには、整然と並んだ調味料と、冷蔵庫の中には最低限の食材。卵、ねぎ、昆布だし。

 (……これだけあれば、なんとかなる)

 彼のために、自分ができることは少ない。
 だけど、以前渡した不格好な卵焼きを思い出す。

 (あれでも、ちゃんと食べてくれたから)

 慣れない手つきで卵を割り、昆布だしを混ぜて弱火でじっくり焼く。
 だし巻きたまご。
 母が昔、風邪をひいたときに作ってくれた、やさしい味。

     ***

 数十分後。
 小皿に盛ったたまごと、白湯をお盆にのせて、寝室へ戻った。

 「……食べられますか?」

 瀬名は、ほんの少しだけ体を起こして、うなずいた。

 「……これ、雨宮さんが?」

 「はい。不格好ですけど、やさしめの味付けにしました。たぶん、食べやすいと思います」

 瀬名は、箸を取ってひとくち食べた。
 噛みしめて、静かに、飲み込んで――それから、ぽつりと呟く。

 「……あたたかいですね」

 「温度、ですか?」

 「いえ。……気持ちが、です」

 胸の奥が、ぎゅっとなる。
 こんなに弱った声なのに、ちゃんと伝えてくれるんだと思った。

 「おいしかったら、また作りますよ」

 「……お願いします」

     ***

 葵が食器を片付けて部屋を出ようとしたとき、背中から声がかかった。

 「……あなたが来てくれて、よかったです」

 振り返ると、瀬名は目を閉じたまま、穏やかな顔をしていた。

 「“人が側にいる”って、こんなに違うんですね」

 「……それ、人間的な感想で、ちょっと安心しました」

 葵は笑って、そっとドアを閉めた。

     ***

 その夜。
 部屋に戻った葵は、スマホのメモに書き込んだ。

 《風邪をひいた神さまに、だし巻きたまごをあげた》
 《神さまは、思ったよりずっと、人間だった》
 《……よかった、会いに行って》

つづく
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

お茶をしましょう、若菜さん。〜強面自衛官、スイーツと君の笑顔を守ります〜

ユーリ(佐伯瑠璃)
ライト文芸
陸上自衛隊衛生科所属の安達四季陸曹長は、見た目がどうもヤのつく人ににていて怖い。 「だって顔に大きな傷があるんだもん!」 体力徽章もレンジャー徽章も持った看護官は、鬼神のように荒野を走る。 実は怖いのは顔だけで、本当はとても優しくて怒鳴ったりイライラしたりしない自衛官。 寺の住職になった方が良いのでは?そう思うくらいに懐が大きく、上官からも部下からも慕われ頼りにされている。 スイーツ大好き、奥さん大好きな安達陸曹長の若かりし日々を振り返るお話です。 ※フィクションです。 ※カクヨム、小説家になろうにも公開しています。

Husband's secret (夫の秘密)

設楽理沙
ライト文芸
果たして・・ 秘密などあったのだろうか! むちゃくちゃ、1回投稿文が短いです。(^^ゞ💦アセアセ  10秒~30秒?  何気ない隠し事が、とんでもないことに繋がっていくこともあるんですね。 ❦ イラストはAI生成画像 自作

元カレは隣の席のエース

naomikoryo
ライト文芸
【♪♪♪本編、完結しました♪♪♪】 東京で燃え尽きたアラサー女子が、地元の市役所に転職。 新しい人生のはずが、配属先の隣の席にいたのは―― 十四年前、嘘をついて別れた“元カレ”だった。 冷たい態度、不器用な優しさ、すれ違う視線と未練の影。 過去を乗り越えられるのか、それとも……? 恋と再生の物語が、静かに、熱く、再び動き出す。 過去の痛みを抱えた二人が、地方の公務員として出会い直し、 心の距離を少しずつ埋めていく大人の再会ラブストーリー。

レオナルド先生創世記

ポルネス・フリューゲル
ファンタジー
ビッグバーンを皮切りに宇宙が誕生し、やがて展開された宇宙の背景をユーモアたっぷりにとてもこっけいなジャック・レオナルド氏のサプライズの幕開け、幕開け!

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

一億円の花嫁

藤谷 郁
恋愛
奈々子は家族の中の落ちこぼれ。 父親がすすめる縁談を断り切れず、望まぬ結婚をすることになった。 もうすぐ自由が無くなる。せめて最後に、思いきり贅沢な時間を過ごそう。 「きっと、素晴らしい旅になる」 ずっと憧れていた高級ホテルに到着し、わくわくする奈々子だが…… 幸か不幸か!? 思いもよらぬ、運命の出会いが待っていた。 ※エブリスタさまにも掲載

【完結】年収三百万円台のアラサー社畜と総資産三億円以上の仮想通貨「億り人」JKが湾岸タワーマンションで同棲したら

瀬々良木 清
ライト文芸
主人公・宮本剛は、都内で働くごく普通の営業系サラリーマン。いわゆる社畜。  タワーマンションの聖地・豊洲にあるオフィスへ通勤しながらも、自分の給料では絶対に買えない高級マンションたちを見上げながら、夢のない毎日を送っていた。  しかしある日、会社の近所で苦しそうにうずくまる女子高生・常磐理瀬と出会う。理瀬は女子高生ながら仮想通貨への投資で『億り人』となった天才少女だった。  剛の何百倍もの資産を持ち、しかし心はまだ未完成な女子高生である理瀬と、日に日に心が枯れてゆくと感じるアラサー社畜剛が織りなす、ちぐはぐなラブコメディ。

処理中です...