社宅の神さまは、恋愛不感症

naomikoryo

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第8話:神さま、追いかけてきた

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夜の社宅は、いつもより静かだった。
 それは、葵の耳が敏感になっているせいだったかもしれない。

 (言っちゃった……きつく)

 怒りに任せて、ぶつけた言葉。
 言いたかったのに、言ったあとで後悔するような、あの苦い感じ。
 彼の目が、ほんの少し揺れたように見えたのは、気のせいだっただろうか。

 「……もう、知らない」

 呟いてベッドに潜りこもうとして、なぜか眠れなかった。
 壁越しの203号室。
 そこから何も聞こえないことが、ひどく堪えた。

 (……あの人の生活音、いつの間にか、わたしのリズムになってたんだ)

 あの整った包丁の音も、炊飯器のタイマーのピッという音も、
 部屋に流れる湯気の匂いも――全部。

     ***

 一方、瀬名は、部屋の中で立ち尽くしていた。

 いつもなら、すべての行動は計画的で、効率的で、迷いがなかった。
 けれど今夜は、思考の中で何かがひっかかって、処理が止まっていた。

 (“言い方が無神経だ”……)

 彼女の声が、まだ耳に残っている。
 確かに、自分は悪意を持って言ったわけではなかった。
 ただ、効率的な方法を選んだ。それだけだった。

 けれど――彼女は、泣きそうな顔をしていた。

 (感情に触れる言葉は、こうも不安定なのか)

 その問いに答えが出ないまま、気づけば玄関に立っていた。
 そして――そのまま、無意識に外へ出ていた。

     ***

 廊下を歩きながら、瀬名は自分でも理由がわからないまま、204号室の前に立っていた。
 今、何をしに来たのか、自分にもはっきりしていない。

 ただ、“ここにいなければ”という衝動があった。

 ノックを迷っていると、向こうからふいにドアが開いた。

 「……瀬名さん?」

 パジャマ姿の葵が、驚いた顔で立っていた。

 「え、どうしたんですか……こんな時間に」

 瀬名は数秒黙った後、静かに口を開いた。

 「……確認に来ました」

 「確認?」

 「あなたが、まだここにいるかどうかを」

 葵はぽかんとした。
 けれど、すぐにその言葉の意味を察して、目を細めた。

 「出ていくわけないじゃないですか」

 「……でも、あなたの声が、今夜は聞こえなかった」

 「え……」

 「食器の音も、足音も、壁越しの咳払いすら。
 それがないだけで、僕の中に違和感が生まれました。思考が乱れました」

 その言葉を、彼はまっすぐな目で言った。
 それは説明でも分析でもなく――ただの“報告”でもなく、たぶん、本心だった。

 「……なんかそれ、ちょっと嬉しいです」

 葵は小さく笑った。

 「そんなふうに言ってくれるなんて思わなかった」

 瀬名は、数秒黙ってから、もう一歩踏み込んだ。

 「感情は、わからないままです。
 でも、“あなたがそこにいないかもしれない”という未来を、僕は想像したくなかった」

 「……瀬名さん」

 「だから、確認しに来ました。
 あなたが、まだ“隣”にいてくれるかどうかを」

     ***

 その夜、葵は再びベッドに入り、スマホのメモを開いた。

 《あの人は、“好き”とか“寂しい”とか言わない》
 《でも、“あなたの声が聞こえなかった”って言ってくれた》
 《それだけで、なんだか救われた》

つづく
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