社宅の神さまは、恋愛不感症

naomikoryo

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第13話:社宅の神さま、降臨しない

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その朝、社宅には“音”がなかった。

 正確には、あるはずの音が、なかった。

 203号室からいつも聞こえる、あの規則正しい包丁の音。
 炊飯器のスチーム音、食器が触れ合う乾いたリズム。
 それらが、今朝に限って――まったく聞こえてこなかった。

 葵は身支度をしながら、無意識に時計を見た。

 (おかしい。いつもなら、もうご飯炊き上がってる時間なのに)

 静けさは、むしろ耳を刺すように感じた。
 社宅という空間において、瀬名樹の生活音は、いつの間にか“空気の一部”になっていたのだ。

     ***

 「なぁなぁ、今日さ、“あの人”の部屋……静かすぎない?」

 ゴミ出しの帰り、社宅の階段で男性住人の声が耳に入る。
 “あの人”という言い回しで、瀬名のことだとすぐわかる。

 「ゴミ箱も空っぽだったし、洗濯物も出てない。珍しいよな、あの人が」

 「社宅の神さま、寝坊説?」

 「いや、寝坊じゃ済まなそうな静けさだったけどな」

 住人たちの小声が、廊下にうっすら残っていく。

 ――不在の空気というのは、意外なほど、存在感があるものだ。

     ***

 午後になっても、瀬名の部屋のカーテンは開かなかった。
 洗濯も干されない。いつもは17時を過ぎたら必ず香ってくる出汁の匂いも、今日はない。

 (……おかしい)

 仕事から帰宅した葵は、落ち着かないまま部屋の中を行ったり来たりした。
 メッセージを送るべきかどうか迷って、結果、なにもできずに時間だけが過ぎていった。

 そして19時。ついに、彼女は立ち上がる。

     ***

 203号室の前に立つのは、いつ以来だっただろう。

 数秒のためらいのあと、ノックを2回。返事はない。

 (……いる。気配は、ある)

 しかし、それ以上の反応はない。
 管理人室から鍵を借りようかとすら思ったが、その前に――

 「……雨宮さん?」

 扉の向こうから、かすれた声が返ってきた。

 「瀬名さん……! どうしたんですか、開けてください!」

 数秒の沈黙ののち、カチャリとドアが開いた。

     ***

 そこにいた瀬名は、髪も乱れ、シャツも皺だらけで、いつもの彼とはまったく違っていた。
 表情も、目元もうつろで、どこか熱があるようだった。

 「……すみません。熱が、あって」

 「体調、悪いんですね……! 早く言ってくださいよ!」

 「言うべきか迷いました。風邪程度で誰かの手を煩わせることに、意味があるのかと」

 「あるに決まってるじゃないですか!」

 思わず大きな声が出た。
 驚いたように瀬名が瞬きをする。

 「……そういうときくらい、誰かに甘えてください。
 “神さま”が倒れたら、誰も気づかないふりなんか、できないんですよ」

 その言葉に、瀬名はゆっくりと頭を下げた。

 「……すみません。誰かに頼る、ということが、まだ……わからなくて」

 「……じゃあ、練習しましょう」

 葵は一歩、部屋の中へ入る。

 「今日だけ、私が“あなたを見守る係”になります」

     ***

 台所に立って、冷蔵庫を開ける。
 いつもは几帳面に整えられていた中身が、今日に限って雑然としていた。

 「……やっぱり、バランス崩れてるんですね。あなたの中で」

 独り言のように呟きながら、ありあわせの材料でスープを作る。
 ねぎと卵、コンソメのシンプルなもの。それでも、きっと温まる。

 そしてそれを、布団に横たわる瀬名のもとへ運ぶと、彼は小さく目を細めた。

 「……温かい匂いがします」

 「あなたがいつも、私たちにくれてたものですよ」

 「……僕も、そうだったんですね」

 スプーンをひとくち口に運んで、彼はぽつりと言った。

 「雨宮さん。あなたが来てくれて、よかったです。
 来なかったら、僕は今日、“いないふり”をしたまま終わっていたかもしれない」

     ***

 その夜。
 自室に戻った葵は、そっとスマホを開いた。

 《社宅の神さまが、降臨しなかった日》
 《でも私は、その“空白”に、ちゃんと気づけた》
 《それはたぶん、“好き”って気持ちが、ちゃんとある証拠》

つづく
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