社宅の神さまは、恋愛不感症

naomikoryo

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番外編:「はじめてのデートは、静かに」

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付き合い始めて、3週間。
 日常はあまり変わらない。社宅の廊下で会えば「おはよう」と言い、203号室では夕飯を並んで食べる。

 “付き合ってる”という実感は、正直まだ薄い。
 でも、ある日突然、瀬名がこう言った。

 「外に出かけてみたいです。……“あなたと”」

 デート、だった。

     ***

 春から初夏へと変わる日曜日。
 瀬名と並んで歩く商店街は、やけに色濃く見えた。
 カフェ、雑貨屋、風に揺れる看板。どれもいつもより、鮮やかだった。

 「……人、多いですね」

 「ふふ、休日だもん。大丈夫ですか?」

 「問題ありません。ただし、“手をつなぐ”のは、今は難易度が高いです」

 「えっ、なにその報告形式」

 「緊張が勝ってしまうということです」

 葵は思わず笑った。
 手はつながない。けれど、並んで歩くだけで充分だった。

     ***

 最初に立ち寄ったのは、小さな文具店だった。
 店内には季節ごとの便箋やカードが並び、葵が何気なく見ていたレターセットに、瀬名がぽつりと声をかけた。

 「……こういうの、もらったことありません」

 「手紙? 書いたことは?」

 「ないです。……でも、もしもらえたら、かなりうれしいかもしれません」

 「じゃあ……いつか、書いてあげようかな」

 その一言に、瀬名の目がほんの少しだけ、和らいだように見えた。

     ***

 昼食は、葵が以前から気になっていたカフェへ。
 落ち着いた内装と、少し高めのランチプレート。

 「……おしゃれすぎたかも」

 「いえ。あなたが行きたいと言った場所なら、僕はどこでも満足です」

 「また、そういうことをさらっと……」

 「事実です」

 「うん、知ってるけど、照れるんです」

 やがて運ばれてきた料理を前に、瀬名はふと手を止めた。

 「葵さん。これが、たぶん僕にとって、“人生初デート”です」

 「……うん。わたしも、こんなに“静かで心地よい”デートは初めて」

 「……それは、褒め言葉ですか?」

 「もちろん」

 微笑むふたりの間に、しずかな午後の陽射しが差し込んだ。

     ***

 帰り道。
 商店街の端にあるベンチに腰掛けて、缶コーヒーを飲みながら瀬名がぽつりと呟いた。

 「今日の記録は、メモします。……初デート、成功」

 「メモってるんですか?」

 「はい。帰ったらまとめて記録します。“あなたの隣で、心拍が緩やかに整う時間だった”と」

 「なんか、詩的っぽくてびっくり」

 「感情のメモには、定義以外の語彙も必要だと最近気づきました」

 「それ、めちゃくちゃ“恋してる人”の発言ですからね?」

 「……そうですか」

 瀬名は、少しだけ照れたように、コーヒーの缶を口元へ運んだ。

     ***

 夜。203号室。
 デートの報告を誰にするでもなく、ふたりは並んで夕飯を食べていた。

 変わったこともあれば、変わらないこともある。
 だけど、今日の外出を経て、“心の距離”はまた少し近づいた気がした。

 「……今日は、ありがとう」

 葵がそう言うと、瀬名はしばらく黙ってから答えた。

 「こちらこそ、ありがとうございます。
 “あなたといると、世界が静かでやさしくなる”――
 そのことに、今日あらためて気づきました」

 その言葉に、葵の胸がじんわり温かくなった。

 (この人となら、どんな景色でもきっと、少しだけ特別に見える)

おわり。
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