墨華宮の昼寝猫

naomikoryo

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06)金魚の尾は揺れて

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王 麗華は、半信半疑だった。

横領事件の帳簿と、天文台の天候記録。
その二つに、一体何の関係があるというのか。

だが、李 雪蘭の、あの全てを見透かしたような静かな瞳を思い出すと、彼女はその指示を無視することができなかった。

麗華は部下に命じ、内務府の過去数年分の帳簿と天文台に保管されていた天候記録を、雪蘭の書庫室へと運び込ませた。

そして、二つの記録を、一月、一日、と丹念に照らし合わせていく。

最初は何も見えてこなかった。

しかし数刻後、麗華はある一点に至って、息を呑んだ。

「……なんだ、これは…」

そこに浮かび上がってきたのは、あまりに単純で、しかし、だからこそ誰も気づかなかった巧妙なトリックだった。

雨が降り続いた月。
その月の帳簿では、後宮で使われる蝋燭や暖を取るための薪の消費量が、不自然なほどに少なかった。

逆に、厳しい日照りが続いた月。
その月の帳簿では、食料を保存し部屋を冷やすための氷の消費量が、ありえないほどに切り詰められていた。

雨の日は、蝋燭の灯りがなければ昼でも薄暗いはずだ。
晴れの日よりも、消費量は増えるのが道理。

炎天下では、氷の需要はむしろ跳ね上がるはずだ。

だが、帳簿の数字はその道理と真逆を示していた。

犯人は、天候を利用していたのだ。

天候によって変動するはずの物資の消費量を、毎年、毎月、ほとんど一定の量で計上し、その差額を、何年にもわたって少しずつ、しかし確実に着服していた。

天候と帳簿を照らし合わせるなどという、面倒な確認作業を誰もするはずがないと高を括っていたのだ。

「……見事なものだな」

背後から、静かな声がした。

いつの間にか、雪蘭が麗華の背後に立っていた。

「ここまで完璧に、人間の怠慢さという“穴”を突いた手口はなかなかない」

「雪蘭……。貴様、ここまで読んでいたのか」

麗華は愕然として、目の前の女官を見つめた。

彼女はただ帳簿をぱらぱらとめくっただけで、この大掛かりなトリックの全てを見抜いていたのだ。

◆◇◆

横領の首謀者はすぐに判明した。

内務府の長である、人の良さそうな初老の宦官。

彼は飛燕の前に引き出されるとあっさりと罪を認めた。

着服した金は、後宮の外で貧しい暮らしを送る年老いた母親と病気の妹のために、長年仕送りを続けていたのだという。

同情を誘う話ではあった。

だが、玉座に座る若き皇帝の瞳は氷のように冷たかった。

「ほう。家族思いであるな。
だが、朕の金を盗んで家族を養う。
それは、忠義か、それとも裏切りか」

飛燕は面白そうに宦官を見下ろすと、何の感情も込めていない平坦な声で判決を下した。

「そやつの官位を剥奪し、後宮から追放せよ。
着服した金は、全額その一族から没収。
それが、朕に対する裏切りの代償だ」

「そ、そんな…!
お慈悲を、陛下!」

泣き崩れる老宦官が、衛兵に引きずられていく。

その光景に、麗華は顔を青くした。
あまりに無慈悲な裁き。

だが、雪蘭はその隣で、表情一つ変えずにただその光景を静かに見つめていた。

権力とは、時に、非情であることでしかその権威を保てない。

彼女は、その本質を嫌というほど知っていた。

飛燕は、満足げにその光景を見届けると、今度は雪蘭へと向き直った。

「さて、雪蘭。今回も見事であった。
その功績に、新たな役職を与えよう」

(……嫌な予感しか、しない)

雪蘭の予感は、的中する。

「本日より、お前を、後宮の不正を監視する、朕直属の『内務監査役』に任じる。
後宮における、全ての部署の帳簿を定期的に監査し、不正の芽を未然に摘み取るのだ」

それは、事実上、雪蘭に後宮の警察権を委ねるに等しい破格の任命だった。

だが、雪蘭にとっては、終わりのない数字の羅列と、面倒な人間関係の調査を永遠に押し付けられる、地獄の宣告であった。

「お断り、いたします」

雪蘭は、即答した。

あまりにきっぱりとした拒絶に、その場の空気が凍り付く。

「……私の能力では、到底、務まりません。
それならば、いっそ、馬小屋の掃除係にでも任命してください。
その方が、よほどお役に立てます」

「ほう……?」

飛燕の目が、すう、と細められる。

また、あの「夜伽役」の脅し文句が飛び出すかと、雪蘭が身構えたその時だった。

「お待ちください、陛下!」

一歩前に進み出たのは、麗華だった。

彼女は、床に膝をつくと、固い声で皇帝に申し出た。

「その役職、どうか、この私、王 麗華に、お命じください!」

「……麗華、お前が?」

「はい。私は、武官として、陛下への忠義を誓った身。
後宮の不正を正すことも、陛下をお守りする、重要な務めと心得ます」

麗華は、ちらりと雪蘭を見た。

その目には、以前のような侮蔑の色はない。

むしろ、その類稀なる才能をこのまま腐らせてはならないという、奇妙な使命感のようなものさえ宿っていた。

「そして……雪蘭には、私の『相談役』として補佐をさせます。
彼女は、この書庫室から、私を助ける。
それで、よろしいのでは、ないでしょうか」

武官である自分が表に立ち、雪蘭を裏方の頭脳として庇護する。

それは、麗華が雪蘭という得体の知れない女官と接する中で導き出した、彼女なりの敬意の表し方だった。

その予想外の提案に、飛燕は一瞬きょとんとし、やがて今日一番の愉悦に満ちた笑みを浮かべた。

「ははは!
面白い!
実に面白いぞ、麗華!
まさか、お前が、その昼寝猫の“鞘”になってやると申すか!
よかろう、許可する!」

こうして、雪蘭はまたしても本人のあずかり知らぬところで、その立場を変えることになった。

表向きは、麗華の補佐役。

だが、実質は、彼女という緩衝材を得て、皇帝からの直接の命令を回避することができる。

それは、雪蘭にとって、最悪の中の、最善手であった。

◆◇◆

その日の午後。

ようやく手に入れた平穏な書庫室で、雪蘭が心地よい昼寝を始めようとしていると、扉が勢いよく開け放たれた。

「雪蘭!
新たな仕事だ!」

麗華が、新たな帳簿の山を、どさりと雪蘭の机の上に置く。

雪蘭は、深い深いため息をついた。
自分の平穏な昼寝ライフが、日に日に遠ざかっていく。

だが、その時、麗華が少しだけ照れたように言った。

「……その、なんだ。
終わったら、私の故郷の銘茶を淹れてやる。
なかなか、美味いぞ」

それは、生真面目な彼女なりのねぎらいの言葉だった。

雪蘭は、少しだけ驚いたように、麗華の顔を見た。

そして、ふい、と顔をそむけると小さな声で呟いた。

「……茶菓子も、いるな」

その言葉に、麗華が初めて、ふっと柔らかな笑みを見せた。

龍の気まぐれによって結ばれた、無気力な猫と、生真面目な番犬。

二人の奇妙な共闘関係は、今、静かにその幕を開けたのだった。
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