墨華宮の昼寝猫

naomikoryo

文字の大きさ
31 / 40

30)墨華宮の昼寝猫

しおりを挟む
昼下がりの墨華宮は、いつもと変わらぬ静けさに包まれていた。

高く澄んだ空。

風に揺れる梅の香。

どこかから聞こえる、小鳥のさえずり。

書庫室の扉が、ゆるりと開いた。

「……また寝ている」

麗華が、少し困ったような笑みを浮かべる。

奥の机に頬杖をついたまま、うとうとと舟を漕ぐ女。

李 雪蘭。

元・軍師、元・月影。

今はただの記録官であり、この墨華宮に棲みつく“昼寝猫”だった。

「ほら、起きてください。もう茶の時間ですよ」

「……むにゃ、あと五頁……」

「五分じゃなくて、五頁? 寝言まで文官ですか」

麗華は呆れたように言いながら、机の脇に小さな茶盆を置いた。

香り高い白毫銀針。

小さく切った干し柿。

それらの香りに釣られてか、雪蘭がようやく目を開けた。

「……麗華」

「お目覚めですか?」

「うん。夢を見ていたの」

「また、“月”の夢?」

「違う。今度は“猫”の夢」

「猫?」

「ええ。墨華宮の屋根で、昼寝ばかりしている猫。誰に呼ばれても起きないくせに、風の音だけには耳をぴくぴく動かすの」

麗華は、雪蘭の髪を撫でながら笑う。

「……それって、あなたのことでは?」

「ふふ、やっぱり?」

二人の笑い声が、書庫室の中で響いた。

とても小さく、けれど、確かに温かく。

◆◇◆

日が傾きはじめる頃、雪蘭は帳面を一つ閉じた。

それは、「正史記録官 李 雪蘭」の名前で綴られた最新の帝国記録。

そこには、月の国の終焉も、衛 懐遠の裁きも、金 逸臣の証言も、すべて記されていた。

「これで、ひとつの時代が終わったのですね」

「ええ。記録として残された以上、“それ”はもう誰にも消せない」

「……雪蘭様。これからは、何を書きますか?」

問いに、雪蘭は少しだけ黙って、ふと笑った。

「そうですね。“何も起きなかった日々”を書きたいです」

「なにもない日々、ですか?」

「そう。誰かが陰謀を巡らせるわけでも、誰かが流罪になるわけでもない。花が咲いて、茶を飲んで、昼寝をして……そんな日々」

「それを、“記録”するんですか?」

「ええ。だって、それもまた“歴史”ですから」

麗華は、少しだけ目を細めて、彼女を見つめた。

「……あなたは、やっぱり昼寝猫です」

「なら、あなたはその隣の“番犬”ですね」

「それなら……もう、逃がしませんよ」

「ふふ。うれしい」

雪蘭は、そっと目を閉じる。

陽光が紙の上に差し込み、墨の香が微かに舞う。

風が吹いた。

どこかで猫の鳴き声が聞こえた気がした。

けれど、それはきっと空耳だ。

ここにはもう、“月影”も、“敵”も、“戦”もいない。

ただ、墨と紙と、穏やかな時間があるだけ。

「麗華、眠ってもいい?」

「どうぞ、私が見張っていますから」

「……ありがとう」

李 雪蘭は、静かに机に伏せた。

まるで、世界に背を向けるように。

けれどその背中には、何の重荷もない。

墨華宮の昼寝猫は、今日もまた、春の陽のなかで眠る。

その夢の中では、たぶん猫が屋根の上で丸くなっている。

誰にも邪魔されず、誰にも縛られず。

ただ、静かに、眠っている。

――完。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】お供え喫茶で願いごと

餡玉(あんたま)
キャラ文芸
身勝手な母親のせいで、血の繋がった父と兄と離れ離れになってしまった小学三年生の知也。 ある日知也は、『新しいお父さん』が家にいるせいで家に居づらく、夜の公園で空腹と寒さを抱えていた。 先の見えない孤独と寂しさに囚われかけていた知也の前に、突然見知らぬ少年が現れる。 高校生くらいの年齢に見える少年は樹貴(たつき)と名乗り、知也を見たこともない喫茶店に連れて行く。 なんとそこは、神様が訪れる不思議な店で……。 ◇1/22、番外編を追加します! こちらはブロマンス風味が強いので、BLがお嫌いな方はご注意ください。 ◇キャラ文芸大賞参加作品です。応援していただけると嬉しいです。よろしくお願いします!

不可思議カフェ百鬼夜行は満員御礼

一花カナウ
キャラ文芸
【キャラ文芸大賞に参加中】 カフェ百鬼夜行に集まるのは不可思議な噂や奇妙な身の上話。 呑気な店長・百目鬼(どうめき)と、なりゆきで働くことになった俺・獅子野王(ししの・おう)はお客のあれこれに巻き込まれながら、ゆるゆると日々を送る。 ※カクヨム、ノベルアップ+、pixivにて先行公開中

オヤジ栽培〜癒しのオヤジを咲かせましょう〜

草加奈呼
キャラ文芸
会社員である草木好子《くさきよしこ》は、 毎日多忙な日々を送り心身ともに疲れきっていた。 ある日、仕事帰りに着物姿の女性に出会い、花の種をもらう。 「植物にはリラックス効果があるの」そう言われて花の種を育ててみると…… 生えてきたのは植物ではなく、人間!? 咲くのは、なぜか皆〝オヤジ〟ばかり。 人型植物と人間が交差する日常の中で描かれる、 家族、別れ、再生。 ほんのり不思議で、少しだけ怖く、 それでも最後には、どこかあたたかい。 人型植物《オヤジ》たちが咲かせる群像劇(オムニバス)形式の物語。 あなたは、どんな花《オヤジ》を咲かせますか? またいいオヤジが思いついたらどんどん増やしていきます!

付喪神狩

やまだごんた
キャラ文芸
古い道具には年月と共に人の情念が蓄積され、それが意思を持ったものが付喪神と呼ばれる。 容姿端麗だが口も性格も女癖も悪い大和御門は日本で唯一の付喪神狩として、付喪神を祓う能力者。 自分に取り憑いた大口真神を引き連れ、同居中の相方・棚橋亨と繰り広げる現代異能バトル

もっと早く、伝えていれば

嶌田あき
キャラ文芸
 記憶から生まれ、1ヶ月で消える運命のあやかし・憶。鎌倉の古い喫茶店「波音堂」で目覚めた彼が最初に出会ったのは、17歳の高校生・夏希だった。  同じ17歳なのに、夏希には18歳の誕生日が来る。憶には来ない。  憶は、大切な人を失った人々を「記憶の渚」へ導き、故人の記憶と対話する手伝いをしている。言えなかった恋の告白、12年越しのさよなら、認知症の夫への思い――4つの「弔い」を通じて、憶は生きること、死ぬこと、記憶することの意味を知っていく。  そして最後、憶は自分の正体を知る。憶は、夏希の母の記憶から生まれたのだと。 「もっと早く、伝えていれば」と後悔する人々に寄り添いながら、憶自身も夏希との限られた時間の中で、大切な気持ちを伝えようとする。  1ヶ月後、憶は静かに光の粒子となって消えていく。でも憶の存在は、夏希の記憶の中で永遠に生き続ける――。

澪尽くしー白い羽が舞う夜にー

天咲琴乃 あまさき ことの
キャラ文芸
双子の姉妹と、それぞれを想う恋人たち。 失踪した両親の謎を追い、彼らが足を踏み入れたのは「鶴の恩返し」の伝承が残る村だった。 恐怖と愛が交錯する夜、試されるのは――愛の強さ。 舞い散る白い羽は、救いを告げるのか、それとも呪いの証なのか。 切なくも美しい恋と伝承ホラーが織りなす、青春ラブ・サスペンス。

告白作戦っ!

小松広和
キャラ文芸
 みなさんは片思いをしたことはありませんか? これは好きな彼に告白できないでいるのを友人が助けようと努力してくれるお話です。いかにも友情物語っぽく聞こえますが、碌な作戦を考えてくれず主人公の百瀬柚衣が振り回されるというコメディーですけど。更に柚衣には一途に思われている幼馴染み琉星がいます。これだけでも話がややこしくなりますよね。でも更に更に柚衣の親友の一人である野々葉がこの琉星のことを思い続けていたのです。ややこしすぎる三角関係。気になる人は読んでみてくださいね^^

竜華族の愛に囚われて

澤谷弥(さわたに わたる)
キャラ文芸
近代化が進む中、竜華族が竜結界を築き魑魅魍魎から守る世界。 五芒星の中心に朝廷を据え、木竜、火竜、土竜、金竜、水竜という五柱が結界を維持し続けている。 これらの竜を世話する役割を担う一族が竜華族である。 赤沼泉美は、異能を持たない竜華族であるため、赤沼伯爵家で虐げられ、女中以下の生活を送っていた。 新月の夜、異能の暴走で苦しむ姉、百合を助けるため、母、雅代の命令で月光草を求めて竜尾山に入ったが、魔魅に襲われ絶体絶命。しかし、火宮公爵子息の臣哉に救われた。 そんな泉美が気になる臣哉は、彼女の出自について調べ始めるのだが――。 ※某サイトの短編コン用に書いたやつ。

処理中です...