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29)月、還る
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春の兆しが、都に微かに忍び寄っていた。
凍てついた石畳の隙間に、小さな草の芽が顔を出し、墨華宮の梅の木も、気づけば蕾を膨らませている。
書庫室の空気は、いつもと変わらぬ静けさに包まれていた。
けれど、そこにいる者たちの心には、確かに何かが変わっていた。
雪蘭は、机の上の筆を手に取り、一枚の書状をしたためていた。
その文字は迷いなく、美しかった。
「……お手紙ですか?」
麗華が茶を運びながら尋ねる。
「ええ。私の役目を、正式に終えるための書です」
「どなた宛に?」
「陛下へ」
麗華は茶を置き、その場に正座した。
彼女の顔には、かすかな不安と、少しの寂しさが混じっていた。
「……やはり、“辞す”のですね」
雪蘭は頷く。
「月影の名を返上し、軍師の役目を降ります」
「あなたの意志ですか?」
「ええ。私が“月影”を名乗ったのは、あの国の記録を守るため。けれど、今やそれは、正史として記された」
「ならば、私はもう“影”ではないのです」
「では、雪蘭様は、どこへ?」
雪蘭は答えなかった。
ただ、机に手を置き、墨の香に微笑んだ。
◆◇◆
飛燕は、書簡を受け取ると、すぐに筆を止めた。
目を細め、ゆっくりと読み進める。
「――月影、名を返上し、以後は一文官として籍を置き、書庫室に留まることを願い申し上げます」
その文面は、まるで“礼儀”を極めたような一通の辞表だった。
しかし、その意味は重い。
飛燕は、しばらくそれを見つめたあと、書簡を机に置いた。
「……来るように」
侍従が深く頭を下げ、去っていった。
◆◇◆
謁見の間。
雪蘭は、静かに頭を下げて立っていた。
その姿は、かつて戦略を語った軍師としてではなく、ただの一人の文官としてあった。
飛燕は、玉座の上から、まっすぐに彼女を見据えていた。
「月影――いや、李 雪蘭。おぬしの願い、確かに見届けた」
「恐れ入ります」
「しかし、朕は、今そなたを手放すわけにはいかぬ」
雪蘭は顔を上げた。
「そなたは、過去を記した。ならば、これからは“未来”を記す者となれ」
「……未来、ですか」
「帝国は今、変わろうとしている。ならばその始まりを記し、誰が何を選んだかを後の世に残す者が必要だ」
「そなたはその筆を持つに相応しい」
雪蘭は、しばし沈黙した。
そして、深く頭を下げた。
「では、私は“記録官”として残ります。墨華宮にて、歴史の筆を執る者として」
飛燕の目に、わずかに笑みが浮かんだ。
「よい。ならば朕は、昼寝猫の眠りを妨げぬよう、静かに見守るとしよう」
「……ご配慮、痛み入ります」
そのやりとりに、謁見の間に小さな笑いが生まれた。
かつて敵と呼ばれた者と、皇帝が交わす言葉。
それは、かつてなかった風景だった。
◆◇◆
夕暮れの書庫室。
雪蘭は、新たな帳面を前に座っていた。
「……改めて、ここに戻るのですね」
麗華が、少しだけ頬を紅く染めながら言う。
「はい。今度は、戦ではなく、静かに文字を並べる者として」
「それでも、きっと眠るのは下手なままですね」
「ふふ……どうでしょう。少しは眠れるようになるかもしれません」
「私が隣にいれば?」
「ええ。あなたがいてくれるなら、きっと」
風が吹いた。
白い紙が一枚、机の端からふわりと舞い上がり、床へ落ちた。
それを拾い上げた麗華が、紙を見つめて言う。
「これは?」
「……昔、金 逸臣と交わした短歌です」
そこには、こう記されていた。
――月は還る 影に沈みし 名を捨てて
ただ照らすのみ 今の世の道
雪蘭は目を細めて笑った。
「彼は、もう月を憎んでいません。だから、私もこの名を手放せたのです」
「名前は……呪いではないのですね」
「ええ。名は、過去を背負うものではなく、未来へ渡す“橋”なのです」
麗華はその言葉を心に刻むように、静かに頷いた。
◆◇◆
その夜。
書庫室の灯りが消える少し前。
雪蘭は机に頬杖をつきながら、ゆっくりと目を閉じた。
窓の外では、雲の切れ間から月が顔を覗かせている。
それは、どこまでも静かで、穏やかな光だった。
「……おやすみなさい、“月”」
彼女は、そう言って微笑んだ。
もう、自らを“月影”と呼ぶ者は、どこにもいない。
けれど、“月”が還ったことを、誰よりも知る者が、そこにいた。
凍てついた石畳の隙間に、小さな草の芽が顔を出し、墨華宮の梅の木も、気づけば蕾を膨らませている。
書庫室の空気は、いつもと変わらぬ静けさに包まれていた。
けれど、そこにいる者たちの心には、確かに何かが変わっていた。
雪蘭は、机の上の筆を手に取り、一枚の書状をしたためていた。
その文字は迷いなく、美しかった。
「……お手紙ですか?」
麗華が茶を運びながら尋ねる。
「ええ。私の役目を、正式に終えるための書です」
「どなた宛に?」
「陛下へ」
麗華は茶を置き、その場に正座した。
彼女の顔には、かすかな不安と、少しの寂しさが混じっていた。
「……やはり、“辞す”のですね」
雪蘭は頷く。
「月影の名を返上し、軍師の役目を降ります」
「あなたの意志ですか?」
「ええ。私が“月影”を名乗ったのは、あの国の記録を守るため。けれど、今やそれは、正史として記された」
「ならば、私はもう“影”ではないのです」
「では、雪蘭様は、どこへ?」
雪蘭は答えなかった。
ただ、机に手を置き、墨の香に微笑んだ。
◆◇◆
飛燕は、書簡を受け取ると、すぐに筆を止めた。
目を細め、ゆっくりと読み進める。
「――月影、名を返上し、以後は一文官として籍を置き、書庫室に留まることを願い申し上げます」
その文面は、まるで“礼儀”を極めたような一通の辞表だった。
しかし、その意味は重い。
飛燕は、しばらくそれを見つめたあと、書簡を机に置いた。
「……来るように」
侍従が深く頭を下げ、去っていった。
◆◇◆
謁見の間。
雪蘭は、静かに頭を下げて立っていた。
その姿は、かつて戦略を語った軍師としてではなく、ただの一人の文官としてあった。
飛燕は、玉座の上から、まっすぐに彼女を見据えていた。
「月影――いや、李 雪蘭。おぬしの願い、確かに見届けた」
「恐れ入ります」
「しかし、朕は、今そなたを手放すわけにはいかぬ」
雪蘭は顔を上げた。
「そなたは、過去を記した。ならば、これからは“未来”を記す者となれ」
「……未来、ですか」
「帝国は今、変わろうとしている。ならばその始まりを記し、誰が何を選んだかを後の世に残す者が必要だ」
「そなたはその筆を持つに相応しい」
雪蘭は、しばし沈黙した。
そして、深く頭を下げた。
「では、私は“記録官”として残ります。墨華宮にて、歴史の筆を執る者として」
飛燕の目に、わずかに笑みが浮かんだ。
「よい。ならば朕は、昼寝猫の眠りを妨げぬよう、静かに見守るとしよう」
「……ご配慮、痛み入ります」
そのやりとりに、謁見の間に小さな笑いが生まれた。
かつて敵と呼ばれた者と、皇帝が交わす言葉。
それは、かつてなかった風景だった。
◆◇◆
夕暮れの書庫室。
雪蘭は、新たな帳面を前に座っていた。
「……改めて、ここに戻るのですね」
麗華が、少しだけ頬を紅く染めながら言う。
「はい。今度は、戦ではなく、静かに文字を並べる者として」
「それでも、きっと眠るのは下手なままですね」
「ふふ……どうでしょう。少しは眠れるようになるかもしれません」
「私が隣にいれば?」
「ええ。あなたがいてくれるなら、きっと」
風が吹いた。
白い紙が一枚、机の端からふわりと舞い上がり、床へ落ちた。
それを拾い上げた麗華が、紙を見つめて言う。
「これは?」
「……昔、金 逸臣と交わした短歌です」
そこには、こう記されていた。
――月は還る 影に沈みし 名を捨てて
ただ照らすのみ 今の世の道
雪蘭は目を細めて笑った。
「彼は、もう月を憎んでいません。だから、私もこの名を手放せたのです」
「名前は……呪いではないのですね」
「ええ。名は、過去を背負うものではなく、未来へ渡す“橋”なのです」
麗華はその言葉を心に刻むように、静かに頷いた。
◆◇◆
その夜。
書庫室の灯りが消える少し前。
雪蘭は机に頬杖をつきながら、ゆっくりと目を閉じた。
窓の外では、雲の切れ間から月が顔を覗かせている。
それは、どこまでも静かで、穏やかな光だった。
「……おやすみなさい、“月”」
彼女は、そう言って微笑んだ。
もう、自らを“月影”と呼ぶ者は、どこにもいない。
けれど、“月”が還ったことを、誰よりも知る者が、そこにいた。
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