墨華宮の昼寝猫

naomikoryo

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28)正史の筆先

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書庫室に、筆の音が響いていた。

さらり、さらり。

墨を含んだ筆先が紙を滑るたび、夜の静寂が深まっていく。

「……本当に、全て書くのですか?」

麗華の問いに、金 逸臣は目を上げずに答えた。

「ええ。ありのままを。……たとえ、それが自分にとって不利であっても」

「それは、“正史”だから?」

「違います。“記憶”だからです」

雪蘭が、焚かれた香の煙越しに彼を見つめていた。

その瞳には、既に怒りも、痛みもなかった。

ただ、見届けようとする意志だけが残っている。

「私たちはもう、過去を裁くのではなく、未来の礎にしなければならない。そうでしょう?」

逸臣は、しばらく黙っていた。

そして、筆を置いた。

「……あの日。私は、自分が“正義”だと思っていた」

「我が国の民を救うため、帝国に屈せず、抗い、立ち向かうこと。それこそが忠義であり、誇りであると」

「けれど、実際には何も守れなかった」

「戦火は広がり、民は巻き込まれ、城は焼かれ、文化は奪われた」

「私が手を握ろうとした“勝利”は、ただの焼け跡だったのです」

静かな声だった。

だが、その言葉は一字一句、重く響いた。

「……私は、敗者です。けれど、だからこそ記さねばならない。私たちが何を願い、何を間違え、何を残そうとしたのか」

雪蘭は頷いた。

「そして、私はその記録を、帝の前に届けます」

「“敵”として語られる前に、“人”として語られた記録を」

「それが、あなたの贖罪であり、私の責務です」

逸臣は苦笑した。

「……変わりませんね、雪蘭は」

「あなたも。変わらないからこそ、こうして筆を執れるのでしょう?」

◆◇◆

翌朝。

御前会議が開かれた。

帝、飛燕が玉座に座すなか、朝陽が金の飾りを照らし出す。

その場には、宰相以下、三卿九卿が一堂に会していた。

重苦しい空気のなか、白衣に身を包んだ雪蘭が進み出る。

その手には、三冊の記録。

一つは、衛 懐遠の罪状を記した報告書。

一つは、金 逸臣の記録した「月影終焉記」。

そして、もう一つ。

「これは、帝国と月の民との間に結ばれた“影の歴史”でございます」

そう言って、雪蘭は記録を差し出した。

飛燕は、それを一瞥する。

「読ませよ」

宰相の声に従い、官吏が記録を読み上げる。

その声は、淡々としていた。

だが、内容は鋭く、重く、胸に突き刺さるものだった。

帝国の勝利の裏にあった密約。

裏切り。

沈黙。

そして、処刑された者たちの“名”。

「……李 遼、斬首」

「……蘇 芝、獄死」

「……文官七名、連座により流罪」

名が読み上げられるたびに、場の空気が震えた。

それらの名の中に、聞き覚えのある者があったのだ。

そして、金 逸臣の記した最後の言葉。

「――我ら、敗れたりといえども、志を失わず。
筆にて語ることこそ、未来への忠義なり」

読み終えた官吏が静かに頭を下げた。

会議の場は、しばし沈黙に包まれる。

誰もが、かつて語られることのなかった“歴史”の重さを、受け止めていた。

飛燕は、雪蘭に目を向けた。

「李 雪蘭。……そなたは何を願う」

問われた雪蘭は、すっと一礼した。

「この記録を、帝国の正史に加えることを願います」

「かつて我が国に敗れた“月の影”のことを、“影”のままにせぬために」

飛燕は、しばらく沈黙した。

その瞳は、深い森のように読めなかった。

だが、やがて短く頷いた。

「――よい。記録せよ。これは“敗者”の声にあらず。“国”の記憶とせよ」

その言葉は、重く、そして温かかった。

◆◇◆

会議が終わり、宰相が雪蘭の肩に手を置いた。

「……よくぞ、ここまで辿り着いたな」

「宰相殿のご助力があってこそ」

「違う。おぬしの目が、眠っていても決して曇らなかったからだ」

雪蘭は笑った。

「眠っているようで、ちゃんと聞いていますから」

「それは、やはり“猫”だな」

ふたりは、ふっと笑い合った。

その笑いが、どこか懐かしいものに思えた。

◆◇◆

夜。

書庫室に戻った雪蘭は、机に新たな帳面を開いた。

それは、帝国で正式に用いられる記録帳。

見開きには、金 逸臣の記録が筆写されている。

その下に、彼女は静かに一文を添えた。

「――歴史とは、眠らぬ猫の眼に宿るものなり」

筆を置いたその瞬間、外から一陣の風が吹いた。

まだ冷たいが、どこか春の香りを孕んでいる。

雪蘭は目を閉じた。

「……もう、眠ってもよろしいでしょうか」

誰に問うでもなく、静かに微笑んだ。

けれど、机の隅には、まだ筆が一本、墨を含んだまま置かれていた。

眠らぬ猫の物語は、もう少しだけ続くのかもしれない。
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