墨華宮の昼寝猫

naomikoryo

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番外編『麗華記』②:眠らぬ筆先、紡がれる嘘

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墨華宮での暮らしにも、少しずつ慣れてきた。

とはいえ、それは静かな毎日だ。

朝に帳面を整理し、昼には写本を行い、夕方には記録を納める。

誰かに話しかけられることもなければ、喧噪に巻き込まれることもない。

ただひとつ、音といえば――

李 雪蘭の筆先が、紙を滑る音だけ。

それが、墨華宮のすべてだった。

でも、不思議と退屈ではなかった。

彼女の筆音は、まるで風のように柔らかく、どこか切ない響きをもっていた。

まるで、語らぬ物語がそこにあるようで。

(……この人の書くもの、ちゃんと読んでみたいな)

そう思うようになったのは、きっと自然な流れだった。

◆◇◆

ある日、雪蘭が席を外している隙に、ふと机の上の帳面が目に入った。

表紙には見慣れない記録符。

「……これは、皇宮警備記録?」

本来なら、他人の記録に勝手に目を通すべきではない。

でも、そこに記されていた“ある文字”が、わたしの目を引きつけた。

――毒。

そして、その隣に走り書きのような記述があった。

「症状の時間が不自然。第二膳の後、茶を口にして以降、反応が遅すぎる」

さらに下には、

「遅効性? だとすれば、投与者は“席を立たなかった者”」

その分析は、医官ですら疑問に思っていなかった点にまで踏み込んでいた。

(これは……本当に、記録官の仕事?)

わたしは思わず、息を呑んだ。

そして、そのとき。

「――ご覧になりますか?」

背後から、静かな声がした。

振り返ると、雪蘭が、無言で立っていた。

帳面を覗き見るわたしに、非難の色はない。

ただ、わずかに笑ったように見えた。

「あなたなら、もうすぐ気づくと思っていました」

「……どういう、ことですか?」

「それは、ただの記録ではありません。“嘘”を暴く記録です」

その言葉に、わたしは言葉を失った。

彼女は机に戻り、筆を取った。

「記録というのは、すべてを残すものではありません。選ばれたものだけが、歴史に残る」

「でも、選ばれなかった事実の中にこそ、本当の出来事が眠っていることもあります」

そう言って、さらさらと筆を走らせる。

美しい筆跡。

でも、そこにあるのは、誰かを讃える言葉ではなく――

誰かが隠したかったことを掘り起こす、冷静な手記だった。

「……あの毒事件、真相を探っていたんですね」

「いいえ。わたしは探っていません。わたしは、記しただけです」

「記録というのは、“真実を暴く”ためのものではない。ただ、“在ったこと”を書くだけ」

「でも、在ったことを正しく書けば、誰かの嘘は浮き彫りになる」

その口調に、感情はなかった。

けれど、その筆の先には――確かに、執念があった。

(この人は……ただの書庫番じゃない)

(この人は、“見抜いている”んだ)

それは、剣でも言葉でもなく、ただ記録という手段で世界を捉える在り方。

こんな人がいるとは思わなかった。

そして、わたしは思ってしまった。

――すごい。

……この人の隣にいられるなら、もう少し、この記録の世界を見てみたい。

◆◇◆

夕方、いつものように筆を洗っていたとき。

雪蘭が、ぽつりと呟いた。

「あなたは、なぜ護衛を外されたのですか?」

「え?」

突然の問いに、思わず手を止める。

「……見ていたんですか?」

「いえ。護衛官の足運びは、書庫室の誰よりも軽い。筆を扱う人間にはない歩き方です」

「それに、墨華宮に“女官補佐”として配属されるには、あなたは少し、目の奥が戦場を知りすぎている」

(……やっぱりこの人、ただ者じゃない)

わたしは観念して言った。

「陛下の身近にいたとき、ある者の行動に疑問を持って、勝手に調べたんです」

「結果、上司に咎められて……。でも、間違っていたとは思ってません」

「……それは、きっと正しい行動だったのでしょう」

「でも正しいことが、正しい結果になるとは限りません。特に、この宮廷では」

それは、きっと自分にも言っている言葉だった。

◆◇◆

その夜、わたしは自室で帳面を開きながら思った。

李 雪蘭。

何者なのか、まだ分からない。

けれど、きっとこの人は、誰よりも正しいことを望みながら、正しくない世界に生きている。

だからこそ、“書く”のだ。

誰かの剣にならず。

誰かの言葉にならず。

ただ、事実のかけらを拾い集めて。

(……この人の記録を、守りたい)

(この人の、書きたい世界を)

そう思った。

そして、不思議なことに、その想いが胸の奥を温かくした。

それが、きっと“尊敬”という気持ちの始まりだった。
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