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番外編『麗華記』③:誰にも見せぬ涙
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墨華宮の冬は、ことさらに静かだった。
冷えた石の廊下。
凍えた硯。
吐息ひとつが紙を湿らせそうな、澄んだ空気。
なのに雪蘭様は、いつもと同じように筆を走らせていた。
まるで寒さなど意に介さないかのように。
けれど、わたしにはわかっていた。
彼女の動きが、ほんの少しだけ重たい。
袖口を時折、そっと握るようにしている。
寒いのだ。
だけど、それを誰にも言わない。
いや――言えないのかもしれない。
雪蘭様は、弱さを見せない人だ。
それが強さなのか、それとも……。
(……あたたかいお茶、持っていこう)
小さな決意だった。
でも、それがわたしにできる、ささやかな“接し方”だと思った。
◆◇◆
その夜、書庫室には一人、灯りが灯っていた。
「……まだ、働いてる」
彼女は帳面の山に囲まれながら、薄明かりの中で筆を動かし続けていた。
わたしは、そっと湯気の立つ茶碗を机に置いた。
「夜更かしは、肌に悪いですよ」
「……ありがとう」
声は、細く、疲れていた。
彼女がこんなに弱い声を出したのは、初めてだった。
「少し、休みませんか?」
「……そうしたいのは山々ですが、ここ数日の記録がどうしても気になって」
「気になる?」
「……名前の綴りが、微妙に違っているんです」
そう言って彼女は、一枚の古い帳面を開いた。
墨がすこし掠れている。
「この文官、先日の名簿では『晋』の字でしたが、五年前の資料では『津』になっている」
「どちらも読みは同じ。でも……これは、違和感です」
「偽名の可能性がある?」
「あるいは、記録の改竄」
「そんな細かいところ、誰も気にしてないのでは?」
「だからこそ、気づくべきなんです」
そう言って、雪蘭様はふっと目を伏せた。
そして、わたしはその瞬間を、見てしまった。
――彼女の目に、薄く、光るものがあった。
「……泣いて、いるんですか?」
その問いに、彼女は微笑んだ。
「いいえ。これは……乾燥のせいです」
「……嘘ですね」
「……」
しばらくの沈黙が流れた。
「誰かの記録が、消されていくのを、見過ごすのは……悲しいんです」
「名を持って生きた人が、なかったことにされる」
「……その哀しみを、わたしは誰よりも知っているから」
その声には、誰にも見せなかった哀切があった。
わたしは、ただ頷いた。
何も言えなかった。
けれど、そっと茶碗を彼女の手に押しやった。
「せめて、温かいうちに飲んでください」
「……ありがとう、麗華さん」
名前で呼ばれたのは、初めてだった。
それが、こんなに嬉しいとは思わなかった。
◆◇◆
その夜、わたしたちは無言のまま茶を啜った。
記録の山に囲まれて。
誰にも見せぬ涙を、夜がそっと覆い隠してくれた。
そしてその時、わたしは確かに思った。
――この人のために、自分ができることを、もっと探したい。
ただ守るだけじゃない。
ただ仕えるだけじゃない。
この人の、そばにいたい。
◆◇◆
雪蘭様が席を立ったあと、机の上に残された帳面をそっと覗いた。
そこには、墨でこう記されていた。
《記録に、心は不要。だが、記録者に心がなければ、記録はただの灰となる》
それは、たぶん自分に向けて書いた言葉。
……あるいは、すべてを失った誰かへの悼みの言葉。
けれど、いまのわたしには、それがこう聞こえた。
――誰かの心に、寄り添える記録を書きたい、と。
幽霊猫と呼ばれたあの人が、静かに泣いた夜。
わたしの中でも、何かが変わり始めていた。
冷えた石の廊下。
凍えた硯。
吐息ひとつが紙を湿らせそうな、澄んだ空気。
なのに雪蘭様は、いつもと同じように筆を走らせていた。
まるで寒さなど意に介さないかのように。
けれど、わたしにはわかっていた。
彼女の動きが、ほんの少しだけ重たい。
袖口を時折、そっと握るようにしている。
寒いのだ。
だけど、それを誰にも言わない。
いや――言えないのかもしれない。
雪蘭様は、弱さを見せない人だ。
それが強さなのか、それとも……。
(……あたたかいお茶、持っていこう)
小さな決意だった。
でも、それがわたしにできる、ささやかな“接し方”だと思った。
◆◇◆
その夜、書庫室には一人、灯りが灯っていた。
「……まだ、働いてる」
彼女は帳面の山に囲まれながら、薄明かりの中で筆を動かし続けていた。
わたしは、そっと湯気の立つ茶碗を机に置いた。
「夜更かしは、肌に悪いですよ」
「……ありがとう」
声は、細く、疲れていた。
彼女がこんなに弱い声を出したのは、初めてだった。
「少し、休みませんか?」
「……そうしたいのは山々ですが、ここ数日の記録がどうしても気になって」
「気になる?」
「……名前の綴りが、微妙に違っているんです」
そう言って彼女は、一枚の古い帳面を開いた。
墨がすこし掠れている。
「この文官、先日の名簿では『晋』の字でしたが、五年前の資料では『津』になっている」
「どちらも読みは同じ。でも……これは、違和感です」
「偽名の可能性がある?」
「あるいは、記録の改竄」
「そんな細かいところ、誰も気にしてないのでは?」
「だからこそ、気づくべきなんです」
そう言って、雪蘭様はふっと目を伏せた。
そして、わたしはその瞬間を、見てしまった。
――彼女の目に、薄く、光るものがあった。
「……泣いて、いるんですか?」
その問いに、彼女は微笑んだ。
「いいえ。これは……乾燥のせいです」
「……嘘ですね」
「……」
しばらくの沈黙が流れた。
「誰かの記録が、消されていくのを、見過ごすのは……悲しいんです」
「名を持って生きた人が、なかったことにされる」
「……その哀しみを、わたしは誰よりも知っているから」
その声には、誰にも見せなかった哀切があった。
わたしは、ただ頷いた。
何も言えなかった。
けれど、そっと茶碗を彼女の手に押しやった。
「せめて、温かいうちに飲んでください」
「……ありがとう、麗華さん」
名前で呼ばれたのは、初めてだった。
それが、こんなに嬉しいとは思わなかった。
◆◇◆
その夜、わたしたちは無言のまま茶を啜った。
記録の山に囲まれて。
誰にも見せぬ涙を、夜がそっと覆い隠してくれた。
そしてその時、わたしは確かに思った。
――この人のために、自分ができることを、もっと探したい。
ただ守るだけじゃない。
ただ仕えるだけじゃない。
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◆◇◆
雪蘭様が席を立ったあと、机の上に残された帳面をそっと覗いた。
そこには、墨でこう記されていた。
《記録に、心は不要。だが、記録者に心がなければ、記録はただの灰となる》
それは、たぶん自分に向けて書いた言葉。
……あるいは、すべてを失った誰かへの悼みの言葉。
けれど、いまのわたしには、それがこう聞こえた。
――誰かの心に、寄り添える記録を書きたい、と。
幽霊猫と呼ばれたあの人が、静かに泣いた夜。
わたしの中でも、何かが変わり始めていた。
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