25歳差の恋愛指南、それは人生最大の不覚でした

naomikoryo

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第一話:満員電車の邂逅(かいこう)

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朝の通勤ラッシュは、東京という街の中で最も無機質な時間だ。
誰もが言葉を発さず、感情を封印し、ただ“目的地へ向かうだけ”の群れとなる。

銀座線、朝八時二分の渋谷発。
女性専用車両のないこの時間帯は、毎朝のように理奈を小さく息苦しい空間へと押し込めた。

結城理奈、四十九歳。
小さな出版社「結文社」の社長。
端正な黒髪ボブに細身のグレージャケット、控えめなパールのピアスに、ベージュのパンプス。
清潔感と知性を纏ったその佇まいは、無言のまま車内に凛とした緊張感をもたらしていた。

理奈は、左手の薬指に光る金の指輪にそっと視線を落とす。

(……もう、二十三年。)

二十六歳で結婚し、三十歳の時に夫を失った。
交通事故だった。
婚姻生活はたったの四年。
だが、結婚という事実は、今も彼女の人生に深く刻まれている。
以来二十三年、外出する日は必ずこの指輪を身に着けている。
“既婚者”という記号のように。
それが自分を守る唯一の手段だと思っていた。

だからこそ——

その時、腰のあたりに感じた“他人の手”に、理奈の背筋が一気に凍りついた。

(……また、これ。)

冷たい怒りと羞恥が交差する。
無言のまま、手のひらがじわりとスカートの後ろに滑ってくる。
電車の揺れのせいではない。
これは明らかに、故意だった。

周囲の誰も気づかないふりをしている。
彼女は咄嗟に足を動かそうとしたが、密集する人波のなか、まるで身動きが取れない。

心臓が早鐘を打つ。
怒りが胸にせり上がる一方で、声が出ない。
大人である自分が、社会の中に立つ自分が、声を上げることをためらわせる。

——その時だった。

「……先輩、おはようございます。昨日の企画書、修正しておきましたよ。」

突然、耳元で男の声がした。
一瞬ぎょっとして振り返ろうとする。
だが、その声は穏やかで、柔らかく、そしてどこか懐かしいほど落ち着いていた。

理奈の真後ろに、一人の青年が立っていた。
彼の大きな体が、そっと彼女の背中に触れるほどの距離にある。
黒いフードパーカーを深く被り、長い髪を束ねて後ろへ垂らし、瓶底のように分厚い眼鏡をかけている。

明らかに「知り合い」ではなかった。
けれど、その声が落とす静かな安心感に、理奈はわずかに身を預けた。

彼はさらに一歩近づき、理奈と痴漢の間にぴたりと身体を差し入れる。

「後ろ、失礼しますね。」

低く穏やかな声とともに、青年の背中が理奈の背を覆うように立つ。
その直後、痴漢の手がすっと引いていくのがわかった。
理奈は息を呑んだ。

青年はそのまま、痴漢の方へ目を向け、わずかに声を落とした。

「——やめておいたほうがいいですよ。」

その言葉は、感情を排したようなトーンだったが、不思議と圧があった。

痴漢は言葉も発さず、次の駅で足早に電車を降りた。

車内には、誰も何も気づいていないかのように、無関心な空気が流れていた。
だが、理奈の内側では、確かに何かが大きく動いていた。

「……助けてくれて、ありがとう。」

彼女がようやくそう声を出したとき、青年は小さくうなずいた。

「いえ……気にしないでください。」

それだけを言って、次の駅で彼も降りていった。
振り返りもせず、人の波に飲まれていく。

その背中は、なぜか理奈の胸に焼き付いた。
フード越しに見える長い髪、無造作な背中。
とても“洗練”とは言えない。でも、どこか優しかった。

(まるで、私のことを……知っていたみたいだった。)

そう思った瞬間、理奈は自分の胸の奥で微かに何かがきらめいたのを感じた。
それが何なのか、自分でもまだわかっていなかった。

**

午後。結文社の小さな会議室。
今日は、年に一度の「ライトノベル若手作家賞」の最終選考日だった。

理奈を含めた編集メンバー数名が、それぞれの最終候補作品を読み終え、意見を出し合っている。

その中で一際話題をさらっていたのが、匿名応募された一作——
タイトルは、《赤の戦場(カルミナ・テラ)》。

戦記ファンタジー。
血生臭い描写、戦略の緻密さ、兵士たちの心理描写が異常にリアル。
とても二十代の若者が書いたとは思えない、と編集部はざわついていた。

「ただ、恋愛要素は一切ないんですよね」

営業担当の佐久間凛華が言う。
「というか、人の“心”を描こうという意思は感じるけど、恋愛になると不自然なくらい触れてこない」

理奈は、目の前の原稿を手に取り、そっと息を吸った。

「それでも……この書き方は、間違いなく“伸びる”人の文章よ。」

森山も頷いた。

「まだ未完成ではあるけど、手をかければ良くなる。選ぶなら、この人じゃないかな」

理奈も頷いた。

「……では、この作品を受賞作に。」

**

数日後の授賞式。
理奈はどこか、楽しみにしていた。
あの戦記を描いた青年は、どんな顔をしているのか——
会場の空気は緊張していたが、彼女の心には珍しく、期待のような感情があった。

「では、《赤の戦場》で受賞された、新田純さん。どうぞ、壇上へ。」

アナウンスの声とともに、静かに歩み出てきた人物。
——その姿に、理奈は思わず目を見開いた。

黒いスーツに身を包み、フードはない。
だが、長い髪を後ろに束ね、瓶底のようなメガネをかけたその青年。

——あの朝、痴漢から助けてくれた、あの青年だった。

新田純は、理奈に気づき、軽く目を丸くする。
そして、小さく、確かに頭を下げた。

(嘘……)

偶然が、こんな形で再び彼女の前に現れるなんて。
理奈の胸に、強くも静かな波が打ち寄せた。

——これは、ただの再会ではない。

心のどこかで、確信めいた何かが芽吹いていた。

(これは……何かが、始まる)
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