交差点の約束、屋敷の夜に咲く ~突然始まる婿決定戦???~

naomikoryo

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本章:矢沢瞬ルート

Ep3:さよならの前に

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―「怖くても、あんたの手は……あったかかったよ」
 時計の針が進んでいるのか、止まっているのかも分からない。
 部屋の空気は静かすぎて、春香の指がカップに触れる音すら、やけに響いた。

 
 矢沢瞬は、テーブルの端に座っていた。

 彼の指先は何度も膝の上で擦れ合い、時折握りしめられ、そしてまた力を抜かれていた。
 その姿は、彼がいかに心の中で戦っているかを雄弁に物語っていた。

 
 春香は、そっと立ち上がった。
 

 「ねえ、瞬くん」

 
 その声は、今までで一番“素の声”だった。

 
 「……もう、我慢しなくていいよ。
  “触って”って言っていいかな?」

 
 瞬は顔を上げた。

 
 春香の目には、涙はなかった。
 でも、覚悟のにじんだ目だった。

 
 「服の上からでいいの。ほんの一瞬だけ。
  あたし、今日ここに来て……“誰でもいい”って思ってたけど――あんたが相手で、良かったって思えたから」

 
 「……でも、そんなことで100万って……」

 
 「うん。おかしいよね。でも、そういう場所なんだって。
  でも、これは私の“お願い”として言う。
  ……最後に、“自分を大事にしてくれた手”に、触ってほしいって」

 
 そう言って春香は、静かにベッドの方へ向かう。

 
 着ていたTシャツの裾を掴み、ゆっくりと整える。
 中にキャミソールを着ているとはいえ、谷間のラインがわずかに浮かぶ。

 
 瞬は、飲み込んだ唾が喉に貼りつく感覚を感じていた。

 頭の中で何度も、「やめろ」「それでも触るな」「逃げろ」と声がする。

 
 でも――

 春香の背中が、**“ここでちゃんと終わりにしたい”**と語っているように見えた。

 
 そして、瞬は、立ち上がった。
 

 ゆっくりと、恐る恐る、ベッドの手前まで歩く。
 春香は目を閉じたまま、胸元に手を添え、小さくうなずいた。

 
 「……触れて。……ね?」

 
 その声が、背中を押した。

 
 瞬は、右手を――震えながら、伸ばした。
 

 彼女の胸元に、服の上から、そっと指先を重ねた。

 
 柔らかい。
 あたたかい。
 そして……何より、その心音が手のひらから伝わってくるようだった。
 

 春香は、わずかに息を吸って、小さく吐いた。
 目は閉じたまま、でも、口元は笑っていた。

 
 「……うん。
  大丈夫だった。あんたの手、怖くなかった。
  むしろ……あったかかった」

 
 瞬は、ゆっくりと手を離した。

 
 「……ありがとう、春香さん。
  俺、怖かったけど……触れてよかった。
  春香さんのこと、ちゃんと“女の人”として見たの、初めてだった」

 
 「……うん。ありがとう。
  あたしね、これで100万もらえるはずなんだけど――いらないや」

 
 「……え?」
 

 「もらっちゃったら、たぶんこの気持ち、嘘になる気がするから。
  “瞬くんの優しさ”っていう、大事なものを踏みにじっちゃう気がして……やだ」

 
 彼女は、テーブルの上にあった封筒をゆっくり押し返した。

 
 「ちゃんと、自分の意思で触れたくれたんでしょ?
  だったらそれで十分。……お金じゃない。
  これは、私の“記憶”にしたいから」
 

 部屋の四隅から、“カチ、カチ”と音がした。
 ロック解除の合図。

 
 春香は、微笑んで言った。

 
 「……開いたね。
  でも、あたしはここでお別れ。
  この先、瞬くんにぴったりな子、絶対いる。……その子のために、ちゃんと進んであげて」

 
 「……春香さん」

 
 瞬は、言葉が出なかった。
 ただ――目の前の少女のために、胸がぎゅっと苦しくなるのを感じていた。

 
 「ありがとう。ほんとに。
  “あたしを見てくれた”男の子、たぶん初めてだった。
  じゃあね――あたし、頑張って生きるから。あんたも、幸せになってね」

 
 そう言って、春香はドアを開け、静かに部屋を出ていった。

 
 その背中は、最初に見たときよりも、ずっと強く、まっすぐに見えた。
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