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第1話「異音の夜」
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神崎陽一は、その夜、自分が幸せな男であることを認めざるを得なかった。
社内報にも載る予定の昇進。経理部長への就任。
上司たちの承認を得たその瞬間、彼はただ軽く笑って「ありがとうございます」とだけ言ったが、内心には得体の知れない達成感が渦巻いていた。
部長職ともなれば、予算の権限も違う。責任も跳ね上がる。
それでも、数字にしか興味がなかったはずの彼は、ふと「これが人生の節目なのだろうか」と自問していた。
帰り道、繁華街の端にある薄暗いバーに立ち寄り、スコッチを一杯だけ飲んでタクシーで帰宅。
財布の中の領収書に目を落としながら、マンションの古びたエレベーターを上がっていく。
午後九時五十一分。
五階の廊下に出ると、空気が一段と湿っていた。
彼が住むこの築三十年の賃貸マンションは、特別な立地にあるわけでもなければ、特段安いわけでもない。
ただ静かだった。
それが、陽一にとっては一番重要なことだった。
部屋のドアを開けると、いつも通りの無人の空気が出迎える。
靴を脱ぎながら、スマートフォンに通知が届いた。
LINE。白石美緒からだった。
《昇進おめでとう。今夜は接待で遅くなるけど、心からお祝いしてるよ。週末にゆっくり乾杯しようね》
彼はメッセージを見て、ほんの一秒だけ微笑んだ。
付き合って二年。交際は順調で、年内には婚約という話も進んでいる。
だが彼は恋愛にのめり込むタイプではなかった。
美緒が今どこにいて、誰と何をしているかを詮索しようとは思わない。
連絡さえあれば、それでいい。
それが陽一の恋愛観だった。
彼は指先で簡潔に返信を打った。
《ありがとう。そっちも仕事頑張って。週末、予約しとくよ》
既読がすぐにつき、スタンプが返ってくる。
可愛らしい乾杯のイラスト。
それを見て、彼はスマホをテーブルに置いた。
冷蔵庫を開け、缶ビールを一本。
スーツのジャケットをソファの背にかけ、ネクタイを緩めてから、テレビのリモコンに手を伸ばした。
ニュース番組のキャスターが誰かの汚職を読み上げている。
彼は無関心にそれを聞きながら、ビールをひと口飲んだ。
炭酸が喉に刺激を残す。
部屋は相変わらず静かで、時計の秒針の音すら耳に刺さるようだった。
だが、その静寂が破られたのは、その直後だった。
天井の奥から、「カサ……カサ……」という、這うような乾いた音。
陽一は動きを止めた。
テレビの音量を下げ、耳を澄ます。
その音は、微かに移動していた。
天井の隅から中央へ。
そして、自分の真上で止まった。
鼓動が一瞬だけ速くなる。
だが彼は、すぐに理性で押し込めた。
「ネズミでも入り込んだか」
古いマンションだ。
こうしたことが起きても不思議ではない。
だが、これまでそんな音を聞いたことはなかった。
初めての“異物”の気配に、背筋が冷たくなる。
彼は目を細めて天井を睨んだ。
木造ではない。音が響くはずがない。
それでも、そこに“何か”がいるような気がしてならなかった。
やがて音は止んだ。
陽一は缶ビールを飲み干し、テレビを消し、無言のまま風呂へと向かった。
シャワーを浴びながらも、頭のどこかが覚醒したまま眠っているような感覚が続いていた。
風呂を終え、歯を磨き、タオルで髪を拭きながら寝室に向かう。
午後十一時過ぎ。
ベッドに横たわり、スマホを手に取ると、美緒から「今ホテルに移動中。また明日ね」というメッセージ。
彼は短く返信を送った。
《了解。遅くまでお疲れ。気をつけて》
返信は来なかった。
それを確認し、スマホをナイトテーブルに置いた。
灯りを消し、目を閉じた――はずだった。
「……トン……トン……」
壁の向こうから、小さく、均等なリズムで何かを叩く音。
左隣の壁だ。
彼はゆっくりと体を起こす。
あそこには住人はいないはずだった。
空き部屋。
契約の際、管理会社からそう聞いている。
それでも音は続く。
「トン……トン……トン……」
陽一は壁に手を当ててみた。
冷たい。
そして、かすかに震えていた。
咄嗟に電気を点ける。
部屋の空気が、重く、妙に湿っていた。
彼は深く息を吸い込む。
「……気のせいだ」
声に出すことで、現実を正気に引き戻そうとした。
だが、喉の奥には小さな棘のような不安が刺さったままだった。
午前一時を回った頃、喉の渇きを感じてキッチンへ向かう。
冷蔵庫を開けて、再び違和感に気づく。
開封したばかりの炭酸水のキャップが、半分ほど緩んでいた。
きっちり閉めたはずだ。
タッパーの蓋も、端が少し浮いている。
箸が一本、シンクの中に落ちている。
触った記憶はない。
彼は唇を固く結んだ。
視線をあちこちに巡らせるが、不審な点は見つからない。
冷蔵庫を閉め、寝室へ戻る。
ベッドに足を滑らせた瞬間、机の上から鉛筆が音を立てて転がった。
「カラ……カラ……」
床に落ち、リズムを刻みながら奥へと転がっていく。
風はない。
窓も閉まっている。
彼はベッドから立ち上がり、鉛筆を拾い上げた。
その指先に、妙な湿り気を感じた。
――手汗、だろうか。
だが、鉛筆の表面が、ひどく冷たい。
彼はそれを机のペン立てに戻すと、ため息を吐いた。
この部屋に入居して三年目。
それまで一度たりとも、こんな不可解なことは起きていなかった。
いや、ただ自分が気にしていなかっただけかもしれない。
昇進。
責任。
疲労。
そうしたものが、彼の思考を乱しているのかもしれない。
だが――。
「違うな」
声に出して言った。
これは、偶然ではない。
そして、誰かが――あるいは“何か”が、自分を見ている。
そんな感覚だけが、確実にそこにあった。
社内報にも載る予定の昇進。経理部長への就任。
上司たちの承認を得たその瞬間、彼はただ軽く笑って「ありがとうございます」とだけ言ったが、内心には得体の知れない達成感が渦巻いていた。
部長職ともなれば、予算の権限も違う。責任も跳ね上がる。
それでも、数字にしか興味がなかったはずの彼は、ふと「これが人生の節目なのだろうか」と自問していた。
帰り道、繁華街の端にある薄暗いバーに立ち寄り、スコッチを一杯だけ飲んでタクシーで帰宅。
財布の中の領収書に目を落としながら、マンションの古びたエレベーターを上がっていく。
午後九時五十一分。
五階の廊下に出ると、空気が一段と湿っていた。
彼が住むこの築三十年の賃貸マンションは、特別な立地にあるわけでもなければ、特段安いわけでもない。
ただ静かだった。
それが、陽一にとっては一番重要なことだった。
部屋のドアを開けると、いつも通りの無人の空気が出迎える。
靴を脱ぎながら、スマートフォンに通知が届いた。
LINE。白石美緒からだった。
《昇進おめでとう。今夜は接待で遅くなるけど、心からお祝いしてるよ。週末にゆっくり乾杯しようね》
彼はメッセージを見て、ほんの一秒だけ微笑んだ。
付き合って二年。交際は順調で、年内には婚約という話も進んでいる。
だが彼は恋愛にのめり込むタイプではなかった。
美緒が今どこにいて、誰と何をしているかを詮索しようとは思わない。
連絡さえあれば、それでいい。
それが陽一の恋愛観だった。
彼は指先で簡潔に返信を打った。
《ありがとう。そっちも仕事頑張って。週末、予約しとくよ》
既読がすぐにつき、スタンプが返ってくる。
可愛らしい乾杯のイラスト。
それを見て、彼はスマホをテーブルに置いた。
冷蔵庫を開け、缶ビールを一本。
スーツのジャケットをソファの背にかけ、ネクタイを緩めてから、テレビのリモコンに手を伸ばした。
ニュース番組のキャスターが誰かの汚職を読み上げている。
彼は無関心にそれを聞きながら、ビールをひと口飲んだ。
炭酸が喉に刺激を残す。
部屋は相変わらず静かで、時計の秒針の音すら耳に刺さるようだった。
だが、その静寂が破られたのは、その直後だった。
天井の奥から、「カサ……カサ……」という、這うような乾いた音。
陽一は動きを止めた。
テレビの音量を下げ、耳を澄ます。
その音は、微かに移動していた。
天井の隅から中央へ。
そして、自分の真上で止まった。
鼓動が一瞬だけ速くなる。
だが彼は、すぐに理性で押し込めた。
「ネズミでも入り込んだか」
古いマンションだ。
こうしたことが起きても不思議ではない。
だが、これまでそんな音を聞いたことはなかった。
初めての“異物”の気配に、背筋が冷たくなる。
彼は目を細めて天井を睨んだ。
木造ではない。音が響くはずがない。
それでも、そこに“何か”がいるような気がしてならなかった。
やがて音は止んだ。
陽一は缶ビールを飲み干し、テレビを消し、無言のまま風呂へと向かった。
シャワーを浴びながらも、頭のどこかが覚醒したまま眠っているような感覚が続いていた。
風呂を終え、歯を磨き、タオルで髪を拭きながら寝室に向かう。
午後十一時過ぎ。
ベッドに横たわり、スマホを手に取ると、美緒から「今ホテルに移動中。また明日ね」というメッセージ。
彼は短く返信を送った。
《了解。遅くまでお疲れ。気をつけて》
返信は来なかった。
それを確認し、スマホをナイトテーブルに置いた。
灯りを消し、目を閉じた――はずだった。
「……トン……トン……」
壁の向こうから、小さく、均等なリズムで何かを叩く音。
左隣の壁だ。
彼はゆっくりと体を起こす。
あそこには住人はいないはずだった。
空き部屋。
契約の際、管理会社からそう聞いている。
それでも音は続く。
「トン……トン……トン……」
陽一は壁に手を当ててみた。
冷たい。
そして、かすかに震えていた。
咄嗟に電気を点ける。
部屋の空気が、重く、妙に湿っていた。
彼は深く息を吸い込む。
「……気のせいだ」
声に出すことで、現実を正気に引き戻そうとした。
だが、喉の奥には小さな棘のような不安が刺さったままだった。
午前一時を回った頃、喉の渇きを感じてキッチンへ向かう。
冷蔵庫を開けて、再び違和感に気づく。
開封したばかりの炭酸水のキャップが、半分ほど緩んでいた。
きっちり閉めたはずだ。
タッパーの蓋も、端が少し浮いている。
箸が一本、シンクの中に落ちている。
触った記憶はない。
彼は唇を固く結んだ。
視線をあちこちに巡らせるが、不審な点は見つからない。
冷蔵庫を閉め、寝室へ戻る。
ベッドに足を滑らせた瞬間、机の上から鉛筆が音を立てて転がった。
「カラ……カラ……」
床に落ち、リズムを刻みながら奥へと転がっていく。
風はない。
窓も閉まっている。
彼はベッドから立ち上がり、鉛筆を拾い上げた。
その指先に、妙な湿り気を感じた。
――手汗、だろうか。
だが、鉛筆の表面が、ひどく冷たい。
彼はそれを机のペン立てに戻すと、ため息を吐いた。
この部屋に入居して三年目。
それまで一度たりとも、こんな不可解なことは起きていなかった。
いや、ただ自分が気にしていなかっただけかもしれない。
昇進。
責任。
疲労。
そうしたものが、彼の思考を乱しているのかもしれない。
だが――。
「違うな」
声に出して言った。
これは、偶然ではない。
そして、誰かが――あるいは“何か”が、自分を見ている。
そんな感覚だけが、確実にそこにあった。
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