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第2話「影が押す」
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朝の光は、昨日よりもわずかにくすんで見えた。
寝不足が原因か、空模様のせいか、それとも――と陽一は無意識に考えを巡らせたが、すぐに打ち消す。
ベッドの上でのたうち回るような眠りを経て、いつもより30分早く目が覚めた。
空気は澱んでいた。
昨夜の鉛筆の音、壁のトントンという不可解な振動、冷蔵庫の違和感。
あれらが全て偶然だったと仮定しても、神経をすり減らすには十分すぎた。
陽一は洗面所で顔を洗い、鏡の奥の自分と目を合わせる。
肌は少し荒れており、目の下には浅い隈が浮いている。
部長になった途端に疲れが表に出たなどと笑い話にするには、笑う相手がいなかった。
白石美緒からは、昨夜遅くに短いメッセージが届いていた。
《ホテルに着いたよ。明日の朝は会議だから、もう寝るね。おやすみ》
陽一は短く返す。
《了解。おやすみ》
打ち終えても特に感情は動かない。
交際も長くなれば、安心が日常を覆い、恋愛は落ち着いた温度の中に溶けていく。
美緒がどこで何をしているかを気に病むこともない。
むしろ、それが彼にとって居心地のよい関係だった。
スマートフォンをポケットに入れ、ワイシャツに袖を通し、玄関を出た。
エレベーターはちょうど五階に止まっていたが、誰の姿もなかった。
妙に静かだった。
外に出ると、空はどんよりと曇っていた。
モノクロの街を歩いているような気分だった。
駅までの道を、いつものように歩く。
何かおかしなことが起きる前の朝、というものは、やけに静かだ。
陽一はそのことを、あとで思い返すことになる。
階段の下り口に差し掛かったときだった。
足音が、後ろから近づいてくる。
普段なら気にもしない。
だが、なぜか今日は、背中に重たい視線を感じた。
「……?」
半歩だけ振り返った瞬間、ぐい、と背中に圧がかかった。
何かが押してきた。
咄嗟に手すりに掴まり、身体を横にずらす。
バランスを崩しかけたが、何とか踏みとどまった。
階段の段下にも、当然振り返った段上にも、誰もいない。
背後も見渡したが、人の気配はなかった。
押された感覚は確かにあった。
服の背中の部分に、触れられた形跡すらある。
手のひら一つ分。
自分が転倒していたら、どうなっていたか。
ぞっとして、手すりを強く握りしめる。
だが次の瞬間には、誰かに見られることを恐れて、何事もなかったように階段を下り始めた。
電車の中でも、その感触が忘れられなかった。
背中の皮膚に、まだ熱が残っているようだった。
社内に着いても、頭がぼんやりとしたままだった。
オフィスに入り、自席に鞄を置いてから、一度深く息を吐く。
「落ち着け」
心の中で呟いた。
デスクの上にある前日の資料を整理していたとき、小田切が声をかけてきた。
「おはようございます。昨日はお疲れ様でした。あまり眠れなかったように見えますが……」
「……ああ。なんとなくな」
小田切は変わらぬ表情で小さく頷いた。
いつも通り、抑えたトーンで話す彼の言葉は、時に陽一の神経に心地よい距離感を与えていた。
陽一は一応笑って見せたが、頭の片隅ではまだ、あの階段の手の感触が生々しく残っていた。
午後、外回りの部下が戻ってきて雑談を交わす声が遠くに聞こえていた。
オフィスの空気は平穏だった。
仕事は順調だった。
だが、彼の思考だけが違う軌道を漂っていた。
退社後、陽一は小雨の降る中を歩いて帰路についた。
傘をさしていたが、風が強く、あまり意味を成さない。
ビルの多い一角を抜けたとき、頭上から「ガシャン!」と割れる音が響いた。
地面に何かが砕け散った音。
陽一は足を止めた。
見ると、道の端に、大きな陶器の植木鉢が割れていた。
土が飛び散り、陶片が飛び跳ねている。
彼の靴から30センチと離れていなかった。
上を見る。
ビルの7階か8階のあたり、ベランダに並んでいたはずの鉢が、一つ消えていた。
「……マジか」
思わず口に出していた。
こんな偶然があるだろうか。
自分の上に、それが落ちてこなかったのは、運が良かっただけに過ぎない。
しかしここまでの連続。
昨日の冷蔵庫。
壁の音。
天井の気配。
階段での“手”。
そして今の落下。
陽一は初めて、誰かの“意志”を感じた。
それは人のものか、それ以外かはまだわからない。
だが、彼は静かに確信した。
これは、偶然ではない。
誰かが、自分を見ている。
部屋に戻ったのは午後八時過ぎだった。
美緒からメッセージが届いていた。
《今日は無事に終わったよ。クライアントがちょっとクセ強かったけど。陽一もちゃんと食べた?》
陽一はいつもの調子で返信する。
《雨で濡れたけど、大丈夫。そっちこそ、遅くまでお疲れ》
数分後、既読がついて、ハートのスタンプが返ってきた。
そのやりとりは、確かに彼を現実に繋ぎとめる細い糸だった。
だがその糸は、すぐに再び引きちぎられる。
夜の十一時過ぎ、コンビニで買ったパンを食べ終えた頃。
ふと、玄関の方から物音がした。
「コツ……」
小さな靴音のような音。
息を飲み、音のした方へと足を運ぶ。
ドアスコープを覗くが、誰もいない。
鍵はかかっていた。
だが、チェーンはなぜか、中から掛けられていた。
彼は唖然とする。
自分が帰宅したとき、チェーンは外した。
それからずっと、玄関には近づいていない。
何者かがこの部屋に――。
いや、それは突飛すぎる発想だ。
だが、現実にチェーンは、内側から掛かっている。
誰が? いつ?
どこから入った?
彼はゆっくりと後ずさる。
部屋の空気が、突然変質していた。
呼吸が重く、心臓の音が耳にまで響く。
まるで、誰かが息を潜めて、すぐ背後にいるような感覚。
リビングのテーブルの上、何気なく置いていたスケジュール帳が、わずかにずれていた。
そのページには、今週末の予定が書かれていた。
《指輪の予約》
その文字の上に、微かに何かが書き加えられていた。
小さく、そして赤いペンで。
《×》
陽一は、その意味を読み取れなかった。
だが、直感的に「これは警告だ」と理解していた。
心臓が、喉の奥で跳ねる。
口を開いても声が出なかった。
ドライな性格を自認していた彼が、このときばかりは、自分の中の何かが凍りつく音を確かに聞いた。
その夜、彼は一睡もできなかった。
誰が、何のために。
なぜ、こんなことを。
理屈で処理できない事象が、彼の中の「秩序」を侵食していた。
答えはまだ見えない。
だが、次に何かが起きたとき、それはもう、“事故”では済まされないだろうということだけは、はっきりと感じていた。
寝不足が原因か、空模様のせいか、それとも――と陽一は無意識に考えを巡らせたが、すぐに打ち消す。
ベッドの上でのたうち回るような眠りを経て、いつもより30分早く目が覚めた。
空気は澱んでいた。
昨夜の鉛筆の音、壁のトントンという不可解な振動、冷蔵庫の違和感。
あれらが全て偶然だったと仮定しても、神経をすり減らすには十分すぎた。
陽一は洗面所で顔を洗い、鏡の奥の自分と目を合わせる。
肌は少し荒れており、目の下には浅い隈が浮いている。
部長になった途端に疲れが表に出たなどと笑い話にするには、笑う相手がいなかった。
白石美緒からは、昨夜遅くに短いメッセージが届いていた。
《ホテルに着いたよ。明日の朝は会議だから、もう寝るね。おやすみ》
陽一は短く返す。
《了解。おやすみ》
打ち終えても特に感情は動かない。
交際も長くなれば、安心が日常を覆い、恋愛は落ち着いた温度の中に溶けていく。
美緒がどこで何をしているかを気に病むこともない。
むしろ、それが彼にとって居心地のよい関係だった。
スマートフォンをポケットに入れ、ワイシャツに袖を通し、玄関を出た。
エレベーターはちょうど五階に止まっていたが、誰の姿もなかった。
妙に静かだった。
外に出ると、空はどんよりと曇っていた。
モノクロの街を歩いているような気分だった。
駅までの道を、いつものように歩く。
何かおかしなことが起きる前の朝、というものは、やけに静かだ。
陽一はそのことを、あとで思い返すことになる。
階段の下り口に差し掛かったときだった。
足音が、後ろから近づいてくる。
普段なら気にもしない。
だが、なぜか今日は、背中に重たい視線を感じた。
「……?」
半歩だけ振り返った瞬間、ぐい、と背中に圧がかかった。
何かが押してきた。
咄嗟に手すりに掴まり、身体を横にずらす。
バランスを崩しかけたが、何とか踏みとどまった。
階段の段下にも、当然振り返った段上にも、誰もいない。
背後も見渡したが、人の気配はなかった。
押された感覚は確かにあった。
服の背中の部分に、触れられた形跡すらある。
手のひら一つ分。
自分が転倒していたら、どうなっていたか。
ぞっとして、手すりを強く握りしめる。
だが次の瞬間には、誰かに見られることを恐れて、何事もなかったように階段を下り始めた。
電車の中でも、その感触が忘れられなかった。
背中の皮膚に、まだ熱が残っているようだった。
社内に着いても、頭がぼんやりとしたままだった。
オフィスに入り、自席に鞄を置いてから、一度深く息を吐く。
「落ち着け」
心の中で呟いた。
デスクの上にある前日の資料を整理していたとき、小田切が声をかけてきた。
「おはようございます。昨日はお疲れ様でした。あまり眠れなかったように見えますが……」
「……ああ。なんとなくな」
小田切は変わらぬ表情で小さく頷いた。
いつも通り、抑えたトーンで話す彼の言葉は、時に陽一の神経に心地よい距離感を与えていた。
陽一は一応笑って見せたが、頭の片隅ではまだ、あの階段の手の感触が生々しく残っていた。
午後、外回りの部下が戻ってきて雑談を交わす声が遠くに聞こえていた。
オフィスの空気は平穏だった。
仕事は順調だった。
だが、彼の思考だけが違う軌道を漂っていた。
退社後、陽一は小雨の降る中を歩いて帰路についた。
傘をさしていたが、風が強く、あまり意味を成さない。
ビルの多い一角を抜けたとき、頭上から「ガシャン!」と割れる音が響いた。
地面に何かが砕け散った音。
陽一は足を止めた。
見ると、道の端に、大きな陶器の植木鉢が割れていた。
土が飛び散り、陶片が飛び跳ねている。
彼の靴から30センチと離れていなかった。
上を見る。
ビルの7階か8階のあたり、ベランダに並んでいたはずの鉢が、一つ消えていた。
「……マジか」
思わず口に出していた。
こんな偶然があるだろうか。
自分の上に、それが落ちてこなかったのは、運が良かっただけに過ぎない。
しかしここまでの連続。
昨日の冷蔵庫。
壁の音。
天井の気配。
階段での“手”。
そして今の落下。
陽一は初めて、誰かの“意志”を感じた。
それは人のものか、それ以外かはまだわからない。
だが、彼は静かに確信した。
これは、偶然ではない。
誰かが、自分を見ている。
部屋に戻ったのは午後八時過ぎだった。
美緒からメッセージが届いていた。
《今日は無事に終わったよ。クライアントがちょっとクセ強かったけど。陽一もちゃんと食べた?》
陽一はいつもの調子で返信する。
《雨で濡れたけど、大丈夫。そっちこそ、遅くまでお疲れ》
数分後、既読がついて、ハートのスタンプが返ってきた。
そのやりとりは、確かに彼を現実に繋ぎとめる細い糸だった。
だがその糸は、すぐに再び引きちぎられる。
夜の十一時過ぎ、コンビニで買ったパンを食べ終えた頃。
ふと、玄関の方から物音がした。
「コツ……」
小さな靴音のような音。
息を飲み、音のした方へと足を運ぶ。
ドアスコープを覗くが、誰もいない。
鍵はかかっていた。
だが、チェーンはなぜか、中から掛けられていた。
彼は唖然とする。
自分が帰宅したとき、チェーンは外した。
それからずっと、玄関には近づいていない。
何者かがこの部屋に――。
いや、それは突飛すぎる発想だ。
だが、現実にチェーンは、内側から掛かっている。
誰が? いつ?
どこから入った?
彼はゆっくりと後ずさる。
部屋の空気が、突然変質していた。
呼吸が重く、心臓の音が耳にまで響く。
まるで、誰かが息を潜めて、すぐ背後にいるような感覚。
リビングのテーブルの上、何気なく置いていたスケジュール帳が、わずかにずれていた。
そのページには、今週末の予定が書かれていた。
《指輪の予約》
その文字の上に、微かに何かが書き加えられていた。
小さく、そして赤いペンで。
《×》
陽一は、その意味を読み取れなかった。
だが、直感的に「これは警告だ」と理解していた。
心臓が、喉の奥で跳ねる。
口を開いても声が出なかった。
ドライな性格を自認していた彼が、このときばかりは、自分の中の何かが凍りつく音を確かに聞いた。
その夜、彼は一睡もできなかった。
誰が、何のために。
なぜ、こんなことを。
理屈で処理できない事象が、彼の中の「秩序」を侵食していた。
答えはまだ見えない。
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