3 / 15
第3話「懐かしき影」
しおりを挟む
昼休みの時間を迎えたオフィスは、わずかな解放感に包まれていた。
どこかしこから軽食の包装を開ける音や、カチャリとペットボトルの蓋を開ける音が聞こえてくる。
笑い声もいくつか。
陽一は自席で静かに弁当を食べながら、午前中の作業進捗を頭の中で反芻していた。
集中力が長く持たない。
昨夜の“あの出来事”が、脳裏から離れない。
玄関のチェーン。
ずらされたスケジュール帳。
赤い×印。
意味はわからないが、明らかに“こちらへ向けた何か”だった。
そう思えば思うほど、食事の味さえぼやける。
スマートフォンが震えた。
メッセージだった。
白石美緒から。
《今日も会議づくし。夜はまた接待だけど、土曜は絶対空けておいてね》
陽一は即座に返信を打つ。
《了解。指輪の件もあるし、行く店決めておくよ》
既読がすぐについたが、返信はなかった。
会議中だろう。
彼は弁当の残りを食べ終え、黙って席を立った。
コートを手にし、エレベーターで地下のロビーへ向かう。
昼食後の気分転換が必要だった。
外の空気はまだ冷たく、空は灰色がかっていた。
吐く息が白くなり、陽一はコートの襟を少しだけ立てた。
ビルの隣にある喫茶店へ向かおうとしたときだった。
「……陽一?」
振り返る。
声の主は、思いもよらない人物だった。
杉浦梨央。
三年半付き合い、二年前に別れた女性。
そこに立っていたのは、確かに彼女だった。
黒のロングコート。
暗い色のマフラーを巻いて、髪を切ったらしく、首筋が細く見える。
だが、変わらないのは目だった。
こちらを射抜くような、焦点の定まった鋭い目。
「……久しぶりだな」
と陽一は言った。
「偶然ね。こんなところで」
梨央はそう言って微笑んだが、偶然にしては、あまりにも自然だった。
「ここ、たまに来るの?」
「いや。会社の近くだけど、最近はあまり」
「そっか」
梨央は、何かを探るように陽一の顔を見つめた。
視線が、目の奥を覗き込もうとするように深く、重かった。
陽一は一歩距離をとった。
「……どうしてここに?」
「近くにクライアントがいて、午前の打ち合わせ帰り。偶然見かけて。……声、かけちゃダメだった?」
「いや、別に。驚いただけだ」
「元気そうで安心した。……でも、ちょっと、痩せた?」
「そうか?」
「やつれて見える。眠れてないの?」
その問いに、陽一は一瞬だけ目を伏せた。
何気ない一言のようでいて、核心を突くような鋭さがあった。
まるで、何かを知っているかのような口ぶり。
「……どうかな。仕事が忙しいだけだよ」
「ううん。違う顔してる。私、覚えてる。あなた、疲れると目元に血の気が引くの。……それ、今出てる」
その言葉を聞いた瞬間、陽一の背中を冷たいものが這い上がった。
彼女の口調は優しく、それゆえに得体が知れなかった。
「もう行かないと」
と陽一は言い、背を向けようとした。
だが梨央は、その袖を軽く掴んだ。
「待って。お願い。もう一度だけ、ちゃんと話したい」
「何を話す?」
「何でも。今のこと、昔のこと、何かひとつだけでも」
その声音に懇願の色が混じっていた。
陽一は、ほんの数秒黙ったのち、深く息を吐いた。
「……昼休み、あと二十分しかない。短くならいい」
梨央は小さく頷き、手近な喫茶店に入った。
店内は、昼どきのせいか少し混んでいた。
窓際の二人席に案内され、彼らは向かい合って座った。
注文を済ませたあと、しばらく沈黙が続く。
梨央はテーブルの端に手を置き、指を組んでいた。
「……何かあった?」
陽一は不意に尋ねた。
「こんなふうに突然現れるなんて、何か理由があるんじゃないか」
「会いたかった。ずっと」
「二年も?」
「うん。あなたのこと、ずっとSNSとか検索してた。会社も、部署も、調べた。……怖い?」
「正直、少しな」
梨央は苦笑した。
その笑顔が、少しだけ、以前と違って見えた。
「でも安心したの。あなた、昇進したんだってね」
「……なんで知ってる?」
「SNS。部下の誰かが書いてた。『部長、おめでとうございます』って」
陽一は無言になった。
梨央は目を細めた。
「あなたの部屋、まだあの古いマンション?」
「……それもSNSから?」
「ううん。予想。あそこ、引っ越すような人じゃない。あなたって、そういう人でしょ? 一度決めたら、変えない」
陽一は、なぜか心のどこかをなぞられたような気がした。
彼女は、たしかに彼を知っている。
だが、その知り方が少し異質に感じられる。
「あなた、変わってない」
と梨央は言った。
「でもね。あなたを忘れた日はなかった」
「梨央」
と陽一は呼びかけた。
彼女は顔を上げ、目が合う。
「もう終わったことだよ」
「終わってない。私の中では、ずっと止まってた」
その言葉には、切実さと異常さが同時に宿っていた。
陽一は、胸の内に微かな不安を感じ始めた。
何かがおかしい。
梨央の話し方、距離感、そして眼差し。
それは懐かしさではなく、執着という名の罠だった。
「もう行くよ」
と陽一は席を立った。
梨央は何も言わず、ただ見上げていた。
その目の奥に、何かが灯っているような気がした。
陽一は振り返らずに店を出た。
ドアの鈴の音が、耳の奥で鳴り続けた。
その夜、陽一は妙な夢を見た。
寝室の天井に、無数の目が浮かび、こちらを覗いている。
何かが笑っていた。
飛び起きると、汗でシーツが湿っていた。
息が荒い。
部屋は暗く、静かだった。
スマホの画面を見た。
午前四時。
通知はない。
だが、なぜか、LINEのトーク画面を開いた。
梨央の名前は、ブロックしたまま残っていた。
指が、ほんの一瞬だけ動きかけた。
だがすぐに止めた。
美緒からのメッセージが届いていた。
《土曜日、指輪見に行けそう。午後から空いてるよ》
陽一は返した。
《わかった。13時に例の店で》
だが、その返信を送信した直後、部屋の天井から、「トン……トン……」と、またあの音が聞こえた。
まるで、誰かが上から、合図を送っているかのように。
どこかしこから軽食の包装を開ける音や、カチャリとペットボトルの蓋を開ける音が聞こえてくる。
笑い声もいくつか。
陽一は自席で静かに弁当を食べながら、午前中の作業進捗を頭の中で反芻していた。
集中力が長く持たない。
昨夜の“あの出来事”が、脳裏から離れない。
玄関のチェーン。
ずらされたスケジュール帳。
赤い×印。
意味はわからないが、明らかに“こちらへ向けた何か”だった。
そう思えば思うほど、食事の味さえぼやける。
スマートフォンが震えた。
メッセージだった。
白石美緒から。
《今日も会議づくし。夜はまた接待だけど、土曜は絶対空けておいてね》
陽一は即座に返信を打つ。
《了解。指輪の件もあるし、行く店決めておくよ》
既読がすぐについたが、返信はなかった。
会議中だろう。
彼は弁当の残りを食べ終え、黙って席を立った。
コートを手にし、エレベーターで地下のロビーへ向かう。
昼食後の気分転換が必要だった。
外の空気はまだ冷たく、空は灰色がかっていた。
吐く息が白くなり、陽一はコートの襟を少しだけ立てた。
ビルの隣にある喫茶店へ向かおうとしたときだった。
「……陽一?」
振り返る。
声の主は、思いもよらない人物だった。
杉浦梨央。
三年半付き合い、二年前に別れた女性。
そこに立っていたのは、確かに彼女だった。
黒のロングコート。
暗い色のマフラーを巻いて、髪を切ったらしく、首筋が細く見える。
だが、変わらないのは目だった。
こちらを射抜くような、焦点の定まった鋭い目。
「……久しぶりだな」
と陽一は言った。
「偶然ね。こんなところで」
梨央はそう言って微笑んだが、偶然にしては、あまりにも自然だった。
「ここ、たまに来るの?」
「いや。会社の近くだけど、最近はあまり」
「そっか」
梨央は、何かを探るように陽一の顔を見つめた。
視線が、目の奥を覗き込もうとするように深く、重かった。
陽一は一歩距離をとった。
「……どうしてここに?」
「近くにクライアントがいて、午前の打ち合わせ帰り。偶然見かけて。……声、かけちゃダメだった?」
「いや、別に。驚いただけだ」
「元気そうで安心した。……でも、ちょっと、痩せた?」
「そうか?」
「やつれて見える。眠れてないの?」
その問いに、陽一は一瞬だけ目を伏せた。
何気ない一言のようでいて、核心を突くような鋭さがあった。
まるで、何かを知っているかのような口ぶり。
「……どうかな。仕事が忙しいだけだよ」
「ううん。違う顔してる。私、覚えてる。あなた、疲れると目元に血の気が引くの。……それ、今出てる」
その言葉を聞いた瞬間、陽一の背中を冷たいものが這い上がった。
彼女の口調は優しく、それゆえに得体が知れなかった。
「もう行かないと」
と陽一は言い、背を向けようとした。
だが梨央は、その袖を軽く掴んだ。
「待って。お願い。もう一度だけ、ちゃんと話したい」
「何を話す?」
「何でも。今のこと、昔のこと、何かひとつだけでも」
その声音に懇願の色が混じっていた。
陽一は、ほんの数秒黙ったのち、深く息を吐いた。
「……昼休み、あと二十分しかない。短くならいい」
梨央は小さく頷き、手近な喫茶店に入った。
店内は、昼どきのせいか少し混んでいた。
窓際の二人席に案内され、彼らは向かい合って座った。
注文を済ませたあと、しばらく沈黙が続く。
梨央はテーブルの端に手を置き、指を組んでいた。
「……何かあった?」
陽一は不意に尋ねた。
「こんなふうに突然現れるなんて、何か理由があるんじゃないか」
「会いたかった。ずっと」
「二年も?」
「うん。あなたのこと、ずっとSNSとか検索してた。会社も、部署も、調べた。……怖い?」
「正直、少しな」
梨央は苦笑した。
その笑顔が、少しだけ、以前と違って見えた。
「でも安心したの。あなた、昇進したんだってね」
「……なんで知ってる?」
「SNS。部下の誰かが書いてた。『部長、おめでとうございます』って」
陽一は無言になった。
梨央は目を細めた。
「あなたの部屋、まだあの古いマンション?」
「……それもSNSから?」
「ううん。予想。あそこ、引っ越すような人じゃない。あなたって、そういう人でしょ? 一度決めたら、変えない」
陽一は、なぜか心のどこかをなぞられたような気がした。
彼女は、たしかに彼を知っている。
だが、その知り方が少し異質に感じられる。
「あなた、変わってない」
と梨央は言った。
「でもね。あなたを忘れた日はなかった」
「梨央」
と陽一は呼びかけた。
彼女は顔を上げ、目が合う。
「もう終わったことだよ」
「終わってない。私の中では、ずっと止まってた」
その言葉には、切実さと異常さが同時に宿っていた。
陽一は、胸の内に微かな不安を感じ始めた。
何かがおかしい。
梨央の話し方、距離感、そして眼差し。
それは懐かしさではなく、執着という名の罠だった。
「もう行くよ」
と陽一は席を立った。
梨央は何も言わず、ただ見上げていた。
その目の奥に、何かが灯っているような気がした。
陽一は振り返らずに店を出た。
ドアの鈴の音が、耳の奥で鳴り続けた。
その夜、陽一は妙な夢を見た。
寝室の天井に、無数の目が浮かび、こちらを覗いている。
何かが笑っていた。
飛び起きると、汗でシーツが湿っていた。
息が荒い。
部屋は暗く、静かだった。
スマホの画面を見た。
午前四時。
通知はない。
だが、なぜか、LINEのトーク画面を開いた。
梨央の名前は、ブロックしたまま残っていた。
指が、ほんの一瞬だけ動きかけた。
だがすぐに止めた。
美緒からのメッセージが届いていた。
《土曜日、指輪見に行けそう。午後から空いてるよ》
陽一は返した。
《わかった。13時に例の店で》
だが、その返信を送信した直後、部屋の天井から、「トン……トン……」と、またあの音が聞こえた。
まるで、誰かが上から、合図を送っているかのように。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
意味が分かると怖い話(解説付き)
彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです
読みながら話に潜む違和感を探してみてください
最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください
実話も混ざっております
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる