帳簿は見ている

naomikoryo

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第3話「懐かしき影」

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昼休みの時間を迎えたオフィスは、わずかな解放感に包まれていた。

どこかしこから軽食の包装を開ける音や、カチャリとペットボトルの蓋を開ける音が聞こえてくる。

笑い声もいくつか。

陽一は自席で静かに弁当を食べながら、午前中の作業進捗を頭の中で反芻していた。

集中力が長く持たない。

昨夜の“あの出来事”が、脳裏から離れない。

玄関のチェーン。

ずらされたスケジュール帳。

赤い×印。

意味はわからないが、明らかに“こちらへ向けた何か”だった。

そう思えば思うほど、食事の味さえぼやける。

スマートフォンが震えた。

メッセージだった。

白石美緒から。

《今日も会議づくし。夜はまた接待だけど、土曜は絶対空けておいてね》

陽一は即座に返信を打つ。

《了解。指輪の件もあるし、行く店決めておくよ》

既読がすぐについたが、返信はなかった。

会議中だろう。

彼は弁当の残りを食べ終え、黙って席を立った。

コートを手にし、エレベーターで地下のロビーへ向かう。

昼食後の気分転換が必要だった。

外の空気はまだ冷たく、空は灰色がかっていた。

吐く息が白くなり、陽一はコートの襟を少しだけ立てた。

ビルの隣にある喫茶店へ向かおうとしたときだった。

「……陽一?」

振り返る。

声の主は、思いもよらない人物だった。

杉浦梨央。

三年半付き合い、二年前に別れた女性。

そこに立っていたのは、確かに彼女だった。

黒のロングコート。

暗い色のマフラーを巻いて、髪を切ったらしく、首筋が細く見える。

だが、変わらないのは目だった。

こちらを射抜くような、焦点の定まった鋭い目。

「……久しぶりだな」

と陽一は言った。

「偶然ね。こんなところで」

梨央はそう言って微笑んだが、偶然にしては、あまりにも自然だった。

「ここ、たまに来るの?」

「いや。会社の近くだけど、最近はあまり」

「そっか」

梨央は、何かを探るように陽一の顔を見つめた。

視線が、目の奥を覗き込もうとするように深く、重かった。

陽一は一歩距離をとった。

「……どうしてここに?」

「近くにクライアントがいて、午前の打ち合わせ帰り。偶然見かけて。……声、かけちゃダメだった?」

「いや、別に。驚いただけだ」

「元気そうで安心した。……でも、ちょっと、痩せた?」

「そうか?」

「やつれて見える。眠れてないの?」

その問いに、陽一は一瞬だけ目を伏せた。

何気ない一言のようでいて、核心を突くような鋭さがあった。

まるで、何かを知っているかのような口ぶり。

「……どうかな。仕事が忙しいだけだよ」

「ううん。違う顔してる。私、覚えてる。あなた、疲れると目元に血の気が引くの。……それ、今出てる」

その言葉を聞いた瞬間、陽一の背中を冷たいものが這い上がった。

彼女の口調は優しく、それゆえに得体が知れなかった。

「もう行かないと」

と陽一は言い、背を向けようとした。

だが梨央は、その袖を軽く掴んだ。

「待って。お願い。もう一度だけ、ちゃんと話したい」

「何を話す?」

「何でも。今のこと、昔のこと、何かひとつだけでも」

その声音に懇願の色が混じっていた。

陽一は、ほんの数秒黙ったのち、深く息を吐いた。

「……昼休み、あと二十分しかない。短くならいい」

梨央は小さく頷き、手近な喫茶店に入った。

店内は、昼どきのせいか少し混んでいた。

窓際の二人席に案内され、彼らは向かい合って座った。

注文を済ませたあと、しばらく沈黙が続く。

梨央はテーブルの端に手を置き、指を組んでいた。

「……何かあった?」

陽一は不意に尋ねた。

「こんなふうに突然現れるなんて、何か理由があるんじゃないか」

「会いたかった。ずっと」

「二年も?」

「うん。あなたのこと、ずっとSNSとか検索してた。会社も、部署も、調べた。……怖い?」

「正直、少しな」

梨央は苦笑した。

その笑顔が、少しだけ、以前と違って見えた。

「でも安心したの。あなた、昇進したんだってね」

「……なんで知ってる?」

「SNS。部下の誰かが書いてた。『部長、おめでとうございます』って」

陽一は無言になった。

梨央は目を細めた。

「あなたの部屋、まだあの古いマンション?」

「……それもSNSから?」

「ううん。予想。あそこ、引っ越すような人じゃない。あなたって、そういう人でしょ? 一度決めたら、変えない」

陽一は、なぜか心のどこかをなぞられたような気がした。

彼女は、たしかに彼を知っている。

だが、その知り方が少し異質に感じられる。

「あなた、変わってない」

と梨央は言った。

「でもね。あなたを忘れた日はなかった」

「梨央」

と陽一は呼びかけた。

彼女は顔を上げ、目が合う。

「もう終わったことだよ」

「終わってない。私の中では、ずっと止まってた」

その言葉には、切実さと異常さが同時に宿っていた。

陽一は、胸の内に微かな不安を感じ始めた。

何かがおかしい。

梨央の話し方、距離感、そして眼差し。

それは懐かしさではなく、執着という名の罠だった。

「もう行くよ」

と陽一は席を立った。

梨央は何も言わず、ただ見上げていた。

その目の奥に、何かが灯っているような気がした。

陽一は振り返らずに店を出た。

ドアの鈴の音が、耳の奥で鳴り続けた。

その夜、陽一は妙な夢を見た。

寝室の天井に、無数の目が浮かび、こちらを覗いている。

何かが笑っていた。

飛び起きると、汗でシーツが湿っていた。

息が荒い。

部屋は暗く、静かだった。

スマホの画面を見た。

午前四時。

通知はない。

だが、なぜか、LINEのトーク画面を開いた。

梨央の名前は、ブロックしたまま残っていた。

指が、ほんの一瞬だけ動きかけた。

だがすぐに止めた。

美緒からのメッセージが届いていた。

《土曜日、指輪見に行けそう。午後から空いてるよ》

陽一は返した。

《わかった。13時に例の店で》

だが、その返信を送信した直後、部屋の天井から、「トン……トン……」と、またあの音が聞こえた。

まるで、誰かが上から、合図を送っているかのように。
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