帳簿は見ている

naomikoryo

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第4話「再会と疑惑」

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週末が、濁ったまま始まった。

予報では晴れと言っていたが、都内の空は朝から灰色の雲に覆われ、湿気を帯びた空気が肌にまとわりついた。

神崎陽一は、自室の洗面台で口をすすぎながら鏡を見た。

目の下の隈は薄くなったが、表情に冴えはない。

喉の奥にこびりついた違和感が、まだ取れない。

冷蔵庫からペットボトルの水を取り出し、ひと口含んだ。

蓋はきちんと閉じてあった。

一瞬、数日前の出来事が脳裏をよぎる。

タッパーの蓋、冷えた鉛筆、天井の音。

そして梨央。

あの再会が、すべての線を繋げてしまったような気がしていた。

彼女の目には、確かに“何か”が宿っていた。

それが執着なのか、ただの懐かしさなのか、陽一にはわからなかった。

ただ、あのとき喫茶店を出た後の背中に感じた視線は、偶然の産物ではなかったはずだ。

スマートフォンに目を落とすと、白石美緒からのメッセージが届いていた。

《おはよう。準備できた? 指輪の件、楽しみにしてるね》

《こっちは大丈夫。昼過ぎには出るよ。駅前で合流しよう》

彼女とのやりとりには、いつも安心があった。

だが今朝は、わずかにズレたノートのように、どこか音程が狂っていた。

不安の理由は自分にあるとわかっていても、それを完全には制御できなかった。

午前十一時、陽一はシャツにジャケットを羽織り、外へ出た。

駅前の人混みの中、美緒は時間ぴったりに現れた。

グレーのコートに、ラベンダー色のマフラー。

化粧は控えめで、それがまた彼女の清潔な印象を際立たせていた。

「お待たせ。寒いね」

「いや、ちょうど来たとこだ」

会話はいつも通りだった。

それでも陽一の内側には、うっすらと冷たい何かが沈殿していた。

二人は予約していた銀座のジュエリー店へ向かった。

店内は清潔で、白い照明が宝石の一つ一つを静かに輝かせていた。

案内されたカウンター席に腰を下ろす。

担当のスタッフが笑顔で挨拶し、婚約指輪のサンプルを並べていく。

美緒は真剣に、けれど楽しそうにそれを眺めていた。

「これ、繊細でいいかも。こういうの、どう思う?」

「……ああ。似合いそうだ」

陽一の返事に、少しだけ間があった。

それに気づいたのか、美緒が首をかしげる。

「ねえ、なんかあった? 最近、メッセージもそっけないし」

「いや……仕事が詰まってて、寝不足なだけだ」

「ほんとに?」

「ほんとだよ。指輪のことだって、ちゃんと楽しみにしてた」

言葉は本音だった。

だが、どこかぎこちなかった。

「なら、いいけど」

美緒は笑って指輪を指さす。

「これ、決めちゃおうか。来月に両親に挨拶行くし、それまでに用意したいしね」

陽一は頷き、店員に合図を送った。

サンプルの中から選んだ一つに決定し、支払い手続きへと進む。

その瞬間だった。

「……あら」

背後から聞こえた、聞き慣れた声。

振り向くと、そこに立っていたのは、杉浦梨央だった。

黒のコート。

首には前と同じマフラー。

まるで、時間が巻き戻されたかのような錯覚。

「こんな偶然って、あるんだね」

梨央は笑った。

その笑顔には、何もかも知っている者の余裕が滲んでいた。

「……梨央」

「こんにちは」

彼女は、何事もなかったように美緒に視線を移す。

「初めまして。杉浦です。……前に陽一さんと付き合ってました」

「……は?」

美緒の顔から、表情が消えた。

陽一は立ち上がり、梨央の腕を取る。

「やめろ、ここは――」

「どうして? だって、あなたは私に何も言わなかった。終わったと思ったのは、あなただけでしょ?」

声が、店内に響く。

周囲の客や店員が、振り返る。

美緒は立ち上がった。

「あなた、何が目的?」

梨央は無言で美緒を見つめる。

その視線は、静かに狂っていた。

「もう一度だけ、会ってほしいって言っただけなのに。どうして嘘ばっかり?」

「帰れ、梨央」

陽一の声に、初めて怒気が含まれた。

梨央はそれを聞いて、ようやく口元から笑みを引っ込めた。

「そう。じゃあ、もう二度と会わない」

そう言い残し、店を出て行く。

その背中は、妙に軽やかだった。

美緒はしばらく何も言わずに立ち尽くしていた。

「ごめん」

と陽一が言った。

「……なんで、今になって?」

「わからない。でも、もう関係は終わってる。信じてくれ」

美緒は黙って頷いたが、彼女の目の奥には、何かが沈んでいた。

帰宅後、陽一はベッドの上に座っていた。

スマートフォンを握りしめたまま、ずっと無言だった。

美緒からは、短く一通のメッセージが届いていた。

《今日はごめん。気にしないでって言いたいけど……少し、距離がほしい》

彼はすぐに返事を打った。

《わかった。でも、いつでも連絡して》

既読はついたが、返事はなかった。

ふと、机の上を見ると、今朝出しっぱなしにしていたスケジュール帳が、またわずかにズレていた。

ページを開くと、来週の欄に、赤いボールペンで“×”が付けられていた。

「……またかよ」

声に出したが、それが空虚に響く。

誰かが、この部屋に出入りしている。

現実に、あるいは――もっと別のかたちで。

陽一は初めて、自室の空間そのものに恐怖を覚えた。

梨央の存在、美緒との距離、そして、この部屋に巣食う何か。

すべてが彼の理性をすり減らし、崩壊へと向かわせていた。
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