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第5話「指輪と火花」
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日曜日の午後、空は晴れていたが、陽一の視界は曇っていた。
それは比喩でも誇張でもなく、本当に視界が滲んで見えた。
眠りは浅く、途中で何度も目を覚ました。
夜中に何度か天井の方から物音がしたが、もう気にしなくなりつつある自分がいた。
慣れた、というより、諦めに近い。
朝、美緒から短いメッセージが届いた。
《昨日は取り乱してごめん。やっぱり今日、一緒に行こう》
陽一は少しだけ息を吐いて返す。
《気にしてない。13時に駅前で。今日は楽しくしよう》
電車に揺られながら、窓の外を見る。
遠くのビルの輪郭がにじんでいた。
感情が、思考と呼応せずに揺れている。
それでも、今日は“けじめ”をつける日だった。
婚約指輪。
陽一は、このひとつの物理的な“印”によって、自分の現在と未来を再確認しようとしていた。
昨日の一件で、美緒との距離に薄い膜のようなものが張ってしまった感覚はある。
だが、だからこそ、この指輪の存在が必要だとも思っていた。
駅前に着くと、美緒はすでにいた。
ショートブーツにタイトな黒のロングコート、上品なベージュのワンピース。
少しだけ濃いめの口紅が、今日の彼女の“気持ち”を映しているようだった。
「ごめん、早く着きすぎた」
「いや、こっちこそ」
会話はぎこちなかったが、それでもお互いに歩み寄る意思があった。
銀座のジュエリー店に向かい、ふたりは昨日決めた指輪を受け取りに入った。
店内は静かで、白く輝く世界のようだった。
店員が丁寧に包装されたケースを差し出す。
「こちらがご注文の指輪でございます。刻印も、間違いなく『Y&M 2025』とお入れしております」
美緒はそれを受け取り、ケースの蓋を開けて微笑んだ。
「……綺麗。これで、ようやく実感わいたかも」
陽一も覗き込み、静かに頷く。
「ちゃんと、これからのこと考えていこう」
その瞬間、店内のドアが開く音がした。
鈴が鳴り、足音が近づいてくる。
その足音は、陽一の脊椎を凍らせた。
「間に合った……!」
振り返るまでもなく、声で誰かがわかった。
杉浦梨央。
そこに立っていたのは、まるで昨日の続きを演じる俳優のような顔をした彼女だった。
白いニットに黒のスカート、首にはあの紫がかったマフラー。
「何をしてるの……?」
美緒が一歩前に出た。
「やめて。いい加減にして」
「いい加減にするのはそっちじゃないの?」
梨央は笑っていた。
店員が静かに他のスタッフに合図を送り、奥へと下がる気配がする。
「陽一は、私とやり直すって言った。そうだよね? そう言ったよね?」
陽一の呼吸が止まりそうになる。
「言ってない。やり直すつもりなんてない」
「うそ」
「本当だ。やめてくれ、梨央」
「本気で、この女と結婚するの?」
「そうだ」
梨央は目を見開いた。
その目には、悲しみと怒り、そして空っぽの何かが混在していた。
「ふざけないでよ……。あなた、私と一度……もう……!」
彼女はバッグから何かを取り出しかける。
店員が即座に手を伸ばし、「申し訳ありませんが、他のお客様のご迷惑になりますので――」と声をかける。
「邪魔しないで!!」
梨央が叫ぶ。
一瞬、店内が凍る。
陽一は、美緒の腕を引いて後ずさる。
その手は、汗で湿っていた。
梨央は、震える指で手帳のようなものを落とす。
中から、ふたりの過去の写真がばらばらと床に散らばる。
それは明らかに、私的な、誰にも見せるべきでない記録だった。
旅行先での自撮り。
家で笑う陽一。
キスを交わす瞬間。
美緒の顔が、徐々に固まっていく。
「……これ、何?」
「昔の写真だよ。今じゃない」
「でも、陽一の今の家でしょ、これ。背景が同じ。最近じゃないの?」
陽一は息をのんだ。
確かに、その写真のいくつかには、最近買った家具や小物が映っている。
「これは、いつ……」
「陽一の家、ずっと見てたから。帰る時間も、入るタイミングも、知ってた」
梨央は、さらりとそう言った。
「入ったの……?」
「うん。あなた、鍵かけないときあるじゃない。あと、合鍵……」
「返しただろ、もうずっと前に」
「返したけど、コピーは……取ってた」
陽一は、一歩下がった。
視界がぐらぐらと揺れた。
美緒が何かを言おうとしたが、声にならなかった。
「もう帰れ」
陽一は言った。
「これ以上やったら、警察を呼ぶ」
梨央は目を伏せた。
その肩が小さく震えていた。
「そっか……そう、だよね……」
ぽつりと呟いた彼女は、そのまま写真を拾い集めてバッグに押し込み、静かに店を出ていった。
ドアの鈴が、また鳴った。
それは、とても軽やかだった。
美緒が陽一を見た。
その瞳は、信じたがっているけれど、信じきれないという色をしていた。
「陽一……」
「何もない。あれは、ただの……」
「でも、部屋に入ってたって……」
「俺は知らなかった。鍵は返されたはずだったんだ」
「……本当に?」
「信じてくれ。俺は、もう何年もあの女と会ってない」
沈黙。
美緒はやがて目を伏せた。
「……今日は、帰るね」
陽一は追いかけようとはしなかった。
その夜、彼は自室の鍵を交換した。
玄関にある小さな穴を見て、気づく。
そこに、小型のカメラが仕込まれていた痕跡がある。
誰が、いつ、どうやって。
そしてそのとき、思い出した。
数日前、チェーンが中から掛かっていたあの夜。
あのとき、すでに彼女は――。
その夜、美緒からの連絡はなかった。
だが、梨央からも、何の音沙汰もなかった。
静寂が、不気味に深くなっていた。
そしてふと、寝室のクローゼットを開けると、衣類の奥に置いてあったスーツケースが、5センチだけ引き出されていた。
誰かが、そこに手を入れた。
もう、間違いはなかった。
部屋は、侵されている。
身体だけでなく、時間までも。
その夜、陽一は、寝ずに夜を明かした。
部屋の灯りをすべて点け、椅子に座って目を閉じることなく、ただ朝が来るのを待った。
それは比喩でも誇張でもなく、本当に視界が滲んで見えた。
眠りは浅く、途中で何度も目を覚ました。
夜中に何度か天井の方から物音がしたが、もう気にしなくなりつつある自分がいた。
慣れた、というより、諦めに近い。
朝、美緒から短いメッセージが届いた。
《昨日は取り乱してごめん。やっぱり今日、一緒に行こう》
陽一は少しだけ息を吐いて返す。
《気にしてない。13時に駅前で。今日は楽しくしよう》
電車に揺られながら、窓の外を見る。
遠くのビルの輪郭がにじんでいた。
感情が、思考と呼応せずに揺れている。
それでも、今日は“けじめ”をつける日だった。
婚約指輪。
陽一は、このひとつの物理的な“印”によって、自分の現在と未来を再確認しようとしていた。
昨日の一件で、美緒との距離に薄い膜のようなものが張ってしまった感覚はある。
だが、だからこそ、この指輪の存在が必要だとも思っていた。
駅前に着くと、美緒はすでにいた。
ショートブーツにタイトな黒のロングコート、上品なベージュのワンピース。
少しだけ濃いめの口紅が、今日の彼女の“気持ち”を映しているようだった。
「ごめん、早く着きすぎた」
「いや、こっちこそ」
会話はぎこちなかったが、それでもお互いに歩み寄る意思があった。
銀座のジュエリー店に向かい、ふたりは昨日決めた指輪を受け取りに入った。
店内は静かで、白く輝く世界のようだった。
店員が丁寧に包装されたケースを差し出す。
「こちらがご注文の指輪でございます。刻印も、間違いなく『Y&M 2025』とお入れしております」
美緒はそれを受け取り、ケースの蓋を開けて微笑んだ。
「……綺麗。これで、ようやく実感わいたかも」
陽一も覗き込み、静かに頷く。
「ちゃんと、これからのこと考えていこう」
その瞬間、店内のドアが開く音がした。
鈴が鳴り、足音が近づいてくる。
その足音は、陽一の脊椎を凍らせた。
「間に合った……!」
振り返るまでもなく、声で誰かがわかった。
杉浦梨央。
そこに立っていたのは、まるで昨日の続きを演じる俳優のような顔をした彼女だった。
白いニットに黒のスカート、首にはあの紫がかったマフラー。
「何をしてるの……?」
美緒が一歩前に出た。
「やめて。いい加減にして」
「いい加減にするのはそっちじゃないの?」
梨央は笑っていた。
店員が静かに他のスタッフに合図を送り、奥へと下がる気配がする。
「陽一は、私とやり直すって言った。そうだよね? そう言ったよね?」
陽一の呼吸が止まりそうになる。
「言ってない。やり直すつもりなんてない」
「うそ」
「本当だ。やめてくれ、梨央」
「本気で、この女と結婚するの?」
「そうだ」
梨央は目を見開いた。
その目には、悲しみと怒り、そして空っぽの何かが混在していた。
「ふざけないでよ……。あなた、私と一度……もう……!」
彼女はバッグから何かを取り出しかける。
店員が即座に手を伸ばし、「申し訳ありませんが、他のお客様のご迷惑になりますので――」と声をかける。
「邪魔しないで!!」
梨央が叫ぶ。
一瞬、店内が凍る。
陽一は、美緒の腕を引いて後ずさる。
その手は、汗で湿っていた。
梨央は、震える指で手帳のようなものを落とす。
中から、ふたりの過去の写真がばらばらと床に散らばる。
それは明らかに、私的な、誰にも見せるべきでない記録だった。
旅行先での自撮り。
家で笑う陽一。
キスを交わす瞬間。
美緒の顔が、徐々に固まっていく。
「……これ、何?」
「昔の写真だよ。今じゃない」
「でも、陽一の今の家でしょ、これ。背景が同じ。最近じゃないの?」
陽一は息をのんだ。
確かに、その写真のいくつかには、最近買った家具や小物が映っている。
「これは、いつ……」
「陽一の家、ずっと見てたから。帰る時間も、入るタイミングも、知ってた」
梨央は、さらりとそう言った。
「入ったの……?」
「うん。あなた、鍵かけないときあるじゃない。あと、合鍵……」
「返しただろ、もうずっと前に」
「返したけど、コピーは……取ってた」
陽一は、一歩下がった。
視界がぐらぐらと揺れた。
美緒が何かを言おうとしたが、声にならなかった。
「もう帰れ」
陽一は言った。
「これ以上やったら、警察を呼ぶ」
梨央は目を伏せた。
その肩が小さく震えていた。
「そっか……そう、だよね……」
ぽつりと呟いた彼女は、そのまま写真を拾い集めてバッグに押し込み、静かに店を出ていった。
ドアの鈴が、また鳴った。
それは、とても軽やかだった。
美緒が陽一を見た。
その瞳は、信じたがっているけれど、信じきれないという色をしていた。
「陽一……」
「何もない。あれは、ただの……」
「でも、部屋に入ってたって……」
「俺は知らなかった。鍵は返されたはずだったんだ」
「……本当に?」
「信じてくれ。俺は、もう何年もあの女と会ってない」
沈黙。
美緒はやがて目を伏せた。
「……今日は、帰るね」
陽一は追いかけようとはしなかった。
その夜、彼は自室の鍵を交換した。
玄関にある小さな穴を見て、気づく。
そこに、小型のカメラが仕込まれていた痕跡がある。
誰が、いつ、どうやって。
そしてそのとき、思い出した。
数日前、チェーンが中から掛かっていたあの夜。
あのとき、すでに彼女は――。
その夜、美緒からの連絡はなかった。
だが、梨央からも、何の音沙汰もなかった。
静寂が、不気味に深くなっていた。
そしてふと、寝室のクローゼットを開けると、衣類の奥に置いてあったスーツケースが、5センチだけ引き出されていた。
誰かが、そこに手を入れた。
もう、間違いはなかった。
部屋は、侵されている。
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