帳簿は見ている

naomikoryo

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第7話「奈々の視線」

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火曜日の朝、神崎陽一は自室の窓を開けた瞬間、冷たい空気に頬を刺されるような感覚を覚えた。
二月も終盤に入り、春の気配が遠くで息をしているというのに、今年の寒さはいつまでも粘着質だった。
彼はジャケットの襟を立て、空を見上げた。
雲は薄く広がり、太陽の光はまるですりガラスの向こう側から届くようにぼんやりとしている。
昨日の重役会議の失態が、胸の内にずしりと残っていた。
今日の出社は、これまでで最も気の重いものになるだろう。
だが、それと同時に、もう一つの“重さ”が彼の背中にのしかかっていた。
誰かが、社内にいる誰かが、意図的に資料を改ざんしたという確信。
それが陰謀なのか、悪意なのか、あるいは遊び半分の悪戯なのかは分からない。
だが、偶然とは言えない。
USBが勝手に書き換えられるなど、物理的にあり得ない。

会社に着いた陽一は、昨日とは打って変わって、周囲の視線を敏感に感じ取るようになっていた。
部内の誰もがいつも通りの振る舞いをしていた。
資料を読み、メールを打ち、会話を交わしている。
だが、その全てが“演技”のように見えた。
とくに気になったのは――長谷川奈々の視線だった。

奈々はデスクでキーボードを打ちながら、時折、こちらに目をやる。
その視線は明らかに“探る”ようなものだった。
だが、合わせるとすぐに逸らす。
まるで何かを隠している者の目だった。

午前中の定例ミーティングが終わり、社員たちが席に戻った後、陽一は自分の席に座ったまま、そっとメールの画面を開いた。
件名:「ミーティング資料の再確認のお願い」
宛先:長谷川奈々
内容はごく簡潔なものだった。
だが、その文面に自分の目が光っていることを含ませたつもりだった。
彼女の反応を確かめるため。
送信から約三分後、奈々がファイルを添付して返信してきた。
返信は事務的で、ミスもなく、必要以上の丁寧さもない。
だが――文章の最後にあった一文が、陽一の胸に引っかかった。

《何かお気づきの点があれば、またいつでもご指摘ください》

ただの礼儀か。
あるいは、自分の行動を把握しているという仄めかしなのか。
陽一はファイルを開き、記載された内容を目で追った。
特におかしな点はない。
だが、どこかが不自然だった。
構成が整いすぎている。
まるで“見せる”ために仕込まれた資料のような、そんな印象があった。

昼休み、陽一は社内の空気を避けるように外に出た。
近くの公園のベンチに腰掛け、コンビニで買ったパンと缶コーヒーを手にする。
空はまだ灰色で、風が頬を切るように吹いていた。
ベンチの向こう側で誰かが立ち止まり、スマートフォンを操作していた。
ふとした違和感で顔を向けると、それは奈々だった。
彼女は遠巻きにこちらを見ていた。
そして、目が合うと、すぐに歩き出した。

陽一は立ち上がり、追うように歩き出した。
信号の手前で、奈々が足を止めた。
背中越しに話しかける。

「長谷川さん」

彼女は一瞬驚いた様子を見せたが、すぐに微笑みに変えた。

「神崎部長、外でお昼ですか?」

「まあ、そんなところだ。……ちょっと、話がある」

「はい?」

「時間、大丈夫?」

「ええ。15分くらいなら」

近くのカフェに入り、奥のカウンター席に並んで腰掛けた。
注文を済ませ、陽一は正面から奈々を見た。
彼女は伏し目がちで、手元の紙ナプキンをいじっていた。

「単刀直入に聞く。……なにか、俺について調べてる?」

奈々は顔を上げた。
驚きと、ほんのわずかな動揺が見えた。

「調べてる、って……どういう意味ですか?」

「昨日、俺のデータが改ざんされてた。ミスじゃない。何者かの手が加わった」

「……まさか、私が?」

「いや、決めつけてるわけじゃない。ただ、お前の視線が、最近変わった気がして」

奈々は数秒、黙った。
そして、口を開いた。

「……部長こそ、変わりましたよ。表情が。ずっと、何かに怯えてるみたいな目をしてる」

陽一は無言で彼女の目を見た。

「だから気になったんです。……なにか、おかしくなってる気がして」

「おかしく?」

「部内で、神崎部長に不信感を持ってる人、実はいます」

「誰が?」

「名前は言えません。だけど、最近の会議でのミス、それに……美緒さんの件も、みんな知ってます」

陽一の背中に冷たいものが這い上がった。

「……俺の家のことまで、知ってるのか?」

「SNSとか、噂とか。小田切係長が止めようとはしてますけど、流れは止められません。……みんな、何かが起きてるって思ってる」

陽一は、震える手でコーヒーを飲んだ。
味がしなかった。

「俺は……何もしてない」

「分かってます。でも、見えないものがあなたを追い詰めてる。……気をつけてください」

「見えないもの?」

「ええ。たぶん、誰かだけじゃない。何か、別のものも」

奈々は静かにそう言って、紙ナプキンに何かを書いた。
そして、それを折りたたんで陽一に渡す。

「読んでください。家に帰ってから」

陽一はそれを受け取り、頷いた。

「ありがとう」

「こちらこそ……すみません。疑わせるようなことして」

彼女の目は真剣だった。
だが、そこには何かを隠すような影もあった。
この会話そのものが“仕組まれたもの”なのではないかという疑念が、陽一の中で膨らんでいた。

その夜、帰宅した陽一は、鞄の中から紙ナプキンを取り出した。
折り目を開くと、そこにはこう書かれていた。

《部長の住んでる部屋、事故物件です。調べたら出てきました。詳細はまだ分かりません…》

手が止まる。

背筋が氷のように冷たくなる。

天井の音、チェーンの動き、冷蔵庫、鉛筆、赤い×印。

すべてが、一本の線に変わる音がした。

陽一はゆっくりと立ち上がり、天井を見た。

そこに、誰かがいる気がした。

そして――“それ”は、確実に、こちらを見ていた。
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