帳簿は見ている

naomikoryo

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第8話「高木の靴音」

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事故物件――
その四文字が、脳内でこだまのように反響していた。
奈々から渡された紙ナプキンに記された短い一文。
陽一は紙を手にしたまま、自室の天井を見上げた。
部屋は静かだった。
時計の秒針が「カチ、カチ」と音を刻み、冷蔵庫のモーター音が控えめに空気を震わせていた。
だが、そのすべての音が、天井の向こうから何かが“聴いている”かのように感じられる。
もう、部屋がただの“生活空間”ではなくなっていることを、陽一は理解していた。
ここには、何かがいる。
人間ではない、何か。
そして、その“何か”と並行して、現実の“誰か”が、自分を壊そうとしている。
それが誰なのか。
この場所に足を踏み入れてから、すべてが狂い始めた。

翌朝、会社に着いた陽一は、エントランスの鏡で自分の顔を見た。
頬が少しこけ、目の下の隈は、隠そうとしても隠しきれないほどに濃かった。
これまでなら、それに気づいた部下が「大丈夫ですか」と声をかけてきただろう。
だが、今日は誰も声をかけてこない。
皆が目をそらしていた。
それが偶然でないことは、空気の密度からも感じ取れた。

午前中の業務中、ふと気づいた。
高木悠真が、珍しく早めに出社していた。
しかも、社内サーバの端末で何か作業をしている。
高木は普段、誰ともほとんど会話を交わさず、最低限のやりとりだけで業務をこなす男だった。
それだけに、陽一は彼の一挙一動に目を向けることが少なかった。
だが、今日の高木には、なにか“目的”のようなものが滲んでいた。

陽一は昼の休憩時間を利用して、小田切を呼んだ。
社内の空き会議室でふたりきりになると、声を潜めて言う。

「高木を調べてみてくれないか。ここ最近の行動とログイン履歴」

「……理由は?」

「勘だ。奴は何かを知っている。いや、やっているかもしれない」

小田切は少しだけ表情を動かした。
その顔に、微かな困惑の色が浮かんだ。

「彼は……少し変わってますが、仕事には忠実です。報告も正確ですし、残業もせず、私用もない」

「そういう奴だからこそ、見落としていた。何か意図的なことをしていたとしても、不自然には見えない。奴は……目立たないようにしてるんじゃないか?」

小田切は数秒考え、静かに頷いた。

「分かりました。ログを確認してみます。ただし、あくまで秘密裏に」

「頼む」

それだけを伝えて、陽一は会議室を出た。
オフィスに戻ると、高木はデスクに向かって淡々と書類に目を通していた。
その横顔には、感情というものが見えなかった。
仮面のような静けさ。
まるで「他者に興味がない」という生き方を体現しているかのようだった。

夕方。
社員たちが退勤しはじめる時間帯になっても、高木だけはデスクに残っていた。
陽一はそれを背後から見ていた。
彼の手は、何かを急いでコピーしている。
USBメモリ。
何を保存している?
どこに送ろうとしている?
陽一は思わず席を立ち、コピー機の影から様子を窺った。
だが、その直後、高木は何事もなかったかのようにデータを閉じ、デバイスをポケットにしまって立ち上がった。
すれ違いざまに、陽一に目を向けた。
ほんの一瞬。
何かが混じった視線だった。
感情か。警告か。あるいは――共犯者への“了解”か。
その夜、陽一はまっすぐに帰宅した。

部屋に入ると、空気が重かった。
それは湿度の問題ではない。
“濁り”だった。
言葉では形容しがたい、目に見えない膜のようなものが、部屋全体を包んでいた。
靴を脱いでリビングに足を踏み入れたとき、何かが動いた音がした。
陽一は動きを止め、耳を澄ませる。
「コツ……」
廊下の奥、クローゼットの中で、靴が“踏まれた”ような音。
陽一はゆっくりと近づき、ドアノブに手をかける。
だが、開けたとき、中には何もなかった。
それでも、微かな“体温”のようなものが残っている気がした。

その夜、風呂を終えて寝室に戻ると、デスクの上に置いたままの写真立てが、うつ伏せになっていた。
中には、陽一と美緒が旅行に行ったときの写真が入っていた。
立てた記憶はある。
倒す理由もない。
風で動くような軽さでもない。
何かが、これを“見た”か、“見せたくなかった”のだ。

スマートフォンを手に取り、美緒に連絡を入れるか迷った。
だが、彼女からの通知は相変わらずなかった。
そのとき、不意に携帯が震えた。
小田切からのメッセージだった。

《高木のログ、確認しました。おかしな点はありません。ただ……数日前、USBポートに何かを接続した形跡はありました。詳細は分かりませんが、部長のPCに接続されていた時間帯と一致しています》

陽一は背筋に氷のような感触が走るのを感じた。
奴は、何かを仕込んだのか。
自分のPCに。
あの資料の改ざんも、もしかすると――。

だが、決定的な証拠はない。
すべてが仮説に過ぎない。
けれど、“高木の靴音”は確かに、陽一の背後で鳴っていた。

その夜、寝室に入ると、ベッドの上に置いたままのノートが勝手に開かれていた。
開かれたページには、陽一がメモしていた一文が記されていた。
《2/12 会議資料完成。USB保存済み。再確認必要》
だが、その下に、赤いペンで別の文字が書き加えられていた。

《再確認しても、遅いよ》

陽一は立ち尽くした。
震える手でノートを閉じる。
もはや、部屋のどこまでが“安全”で、どこからが“侵されている”のか分からない。
それでも、明日も会社へ行かなければならない。
自分を壊そうとする“誰か”が、そこにいると知っていながら。
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