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第9話「中村の警告」
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午前九時を五分過ぎた頃、神崎陽一はいつもよりやや早く出社した。
昨夜は眠ったのか、目を閉じたまま朝が来たのか、自分でもはっきりしなかった。
目覚めたときには喉がからからで、シャツの襟元には冷や汗のような湿りが残っていた。
ノートに書き込まれていた“赤い文字”のことを思い出し、彼はすぐに閉じて鍵付きの引き出しにしまった。
あれが本当に自分が書いたものではないという確信はある。
記憶にない。筆跡も異なる。
だが、他に誰が書けるのか。
部屋には鍵がかかっていた。
監視カメラもない。
もしかすると夢だったのかもしれない。
しかしそう思いたいと願うほど、現実の方がよほど悪夢に近づいていた。
デスクに着くと、背後から静かな足音が近づいてきた。
振り返ると、そこには中村翔子がいた。
彼女は知的で穏やかな印象の女性で、経理部では一歩引いた立ち位置を保ちつつも、確かな処理能力と冷静な判断で信頼されている。
派手さはないが、どこか芯の強さを感じさせる目をしている。
「おはようございます。神崎部長」
「おはよう。……どうかしたか?」
翔子は、少し声を落として言った。
「少しだけ、話がしたいんです。休憩のときで構いません」
陽一はわずかに眉をひそめた。
部下からこうして声をかけられるのは珍しいことではないが、翔子からというのは異例だった。
彼女は通常、雑談すら最小限に抑えるタイプで、何かを“持ちかける”ことはない。
それだけに、逆に陽一の胸に微かな警鐘が鳴った。
午前十時過ぎ、給湯室の奥にある小さなスペースでふたりは向かい合った。
翔子はいつもの表情を保ったまま、小声で言った。
「部長。……お住まいのマンション、何号室でしたっけ?」
唐突な質問に、陽一は一瞬返答に詰まった。
「え? ……706だが」
翔子は小さく頷いた。
「私、少し気になって調べたんです。数日前のことです。なぜか分かりませんが、急に“あのマンションの名前”が頭に浮かんで。それで、事故物件の情報サイトを開いて……」
陽一の心臓が、すこし強く打った。
「そしたら、出てきたんです。706号室。……八年前に、火事があったって」
「……そんなことが……?」
「ええ。報道は最初“ボヤ”とされてたみたいです。でも、調べていくと、詳細が少しずつ見えてきました」
翔子はタブレットを取り出して、画面を見せた。
そこには、複数の記事の見出しが並んでいた。
《都内マンションで一家火災、二名死亡》
《室内に灯油の痕跡 放火の可能性も》
《住人男性は行方不明 事件性を捜査中》
「住んでいたのは、夫婦と小学生の娘さん。それが……奥さんと娘さんだけが亡くなって、ご主人は“失踪”という形になってるんです。事件性は不明のまま、未解決」
陽一は声を出せなかった。
背筋に何か冷たいものが走り、指先がじんじんと痺れる。
「そんなことが……あの部屋で」
「でも、いちばん不気味なのはそこじゃないんです」
翔子は声をさらに落とした。
「そのご主人が失踪したのは、火事の“直前”なんです。二日前に職場を辞め、携帯も解約して姿を消した。火事の日、現場にいたのは奥さんと娘さんだけ。でも、第三者の侵入は確認されていない。火の気もなかった。……なのに、灯油の痕跡があったんです」
陽一は、思わず唇を噛んだ。
「……つまり」
「はい。“誰か”が室内に灯油を撒いて、着火した。でも、その“誰か”がどうしても見つかっていない。管理人の証言も曖昧で、“いつから誰がいたかは分からない”って……」
翔子の目が、静かに揺れていた。
彼女は感情を露わにすることのない人物だった。
だが今、その瞳の奥には、“得体の知れないもの”への恐れがにじんでいた。
「私……最近、部長の周囲で変な噂があるのも知ってます。でも、それ以上に……この話は、誰かに知らせておくべきだと思ったんです」
陽一は、小さく息を吐いた。
「ありがとう。教えてくれて……」
「どうか、気をつけてください」
翔子はそれだけ言い残して、足早に給湯室を出ていった。
残された陽一は、その場にしばらく立ち尽くしていた。
背中の汗が冷え、シャツにべったりと貼りついていた。
事故物件。火事。灯油。失踪。
それが全部、偶然であるはずがなかった。
自分の部屋で起きていた数々の異変。
冷蔵庫のズレた棚。
開いていたクローゼット。
倒れた写真立て。
赤いペンの文字。
あれらすべてが、“存在しない誰か”の仕業だとするならば、その“誰か”はこの部屋に、最初から棲みついていたのではないか。
その夜、陽一はふとした思いつきで、寝室のクローゼットの奥を探っていた。
衣類の裏側、スーツケースをずらすと、床板の一部がわずかに浮いていた。
指で押すと、ペコリと沈む音がした。
力を入れて板をめくると、そこには小さな空洞があり、中には焦げたような新聞紙の束が押し込まれていた。
手袋をして取り出すと、新聞の一部は黒く焼け、ページは炭化して崩れかけていた。
だが、その中の一枚に、うっすらと人の顔が焼きついていた。
女性と、女の子――笑っている。
顔の輪郭は崩れていたが、目元だけがくっきりと残っていた。
その目が、こちらを見ていた。
確かに。
“この空間”からずっと。
陽一は、新聞を元の場所に戻すこともできず、そのままクローゼットの扉を閉めた。
部屋の空気が、重くなった気がした。
窓を開けても、冷たい外気がなぜか部屋の中に届かなかった。
まるで壁の中に、何かが広がっているかのように。
その夜、眠りに落ちる寸前、天井の奥から「カリ……カリ……」という音がした。
ネズミの走るような軽い音ではない。
まるで、人の爪が石膏ボードを引っ掻くような、湿った音だった。
陽一は、ふと布団を引き上げ、目を閉じた。
心臓の鼓動が、枕に直接響く。
その音にまぎれて、もう一つ、奇妙な囁きが聞こえた気がした。
「……ここ、知ってる……?」
誰の声かは、分からなかった。
だがその言葉は、耳の奥ではなく、頭の内側から響いた。
そして、目を閉じた陽一のまぶたの裏に、一瞬だけ、燃えるカーテンの影が揺れた。
昨夜は眠ったのか、目を閉じたまま朝が来たのか、自分でもはっきりしなかった。
目覚めたときには喉がからからで、シャツの襟元には冷や汗のような湿りが残っていた。
ノートに書き込まれていた“赤い文字”のことを思い出し、彼はすぐに閉じて鍵付きの引き出しにしまった。
あれが本当に自分が書いたものではないという確信はある。
記憶にない。筆跡も異なる。
だが、他に誰が書けるのか。
部屋には鍵がかかっていた。
監視カメラもない。
もしかすると夢だったのかもしれない。
しかしそう思いたいと願うほど、現実の方がよほど悪夢に近づいていた。
デスクに着くと、背後から静かな足音が近づいてきた。
振り返ると、そこには中村翔子がいた。
彼女は知的で穏やかな印象の女性で、経理部では一歩引いた立ち位置を保ちつつも、確かな処理能力と冷静な判断で信頼されている。
派手さはないが、どこか芯の強さを感じさせる目をしている。
「おはようございます。神崎部長」
「おはよう。……どうかしたか?」
翔子は、少し声を落として言った。
「少しだけ、話がしたいんです。休憩のときで構いません」
陽一はわずかに眉をひそめた。
部下からこうして声をかけられるのは珍しいことではないが、翔子からというのは異例だった。
彼女は通常、雑談すら最小限に抑えるタイプで、何かを“持ちかける”ことはない。
それだけに、逆に陽一の胸に微かな警鐘が鳴った。
午前十時過ぎ、給湯室の奥にある小さなスペースでふたりは向かい合った。
翔子はいつもの表情を保ったまま、小声で言った。
「部長。……お住まいのマンション、何号室でしたっけ?」
唐突な質問に、陽一は一瞬返答に詰まった。
「え? ……706だが」
翔子は小さく頷いた。
「私、少し気になって調べたんです。数日前のことです。なぜか分かりませんが、急に“あのマンションの名前”が頭に浮かんで。それで、事故物件の情報サイトを開いて……」
陽一の心臓が、すこし強く打った。
「そしたら、出てきたんです。706号室。……八年前に、火事があったって」
「……そんなことが……?」
「ええ。報道は最初“ボヤ”とされてたみたいです。でも、調べていくと、詳細が少しずつ見えてきました」
翔子はタブレットを取り出して、画面を見せた。
そこには、複数の記事の見出しが並んでいた。
《都内マンションで一家火災、二名死亡》
《室内に灯油の痕跡 放火の可能性も》
《住人男性は行方不明 事件性を捜査中》
「住んでいたのは、夫婦と小学生の娘さん。それが……奥さんと娘さんだけが亡くなって、ご主人は“失踪”という形になってるんです。事件性は不明のまま、未解決」
陽一は声を出せなかった。
背筋に何か冷たいものが走り、指先がじんじんと痺れる。
「そんなことが……あの部屋で」
「でも、いちばん不気味なのはそこじゃないんです」
翔子は声をさらに落とした。
「そのご主人が失踪したのは、火事の“直前”なんです。二日前に職場を辞め、携帯も解約して姿を消した。火事の日、現場にいたのは奥さんと娘さんだけ。でも、第三者の侵入は確認されていない。火の気もなかった。……なのに、灯油の痕跡があったんです」
陽一は、思わず唇を噛んだ。
「……つまり」
「はい。“誰か”が室内に灯油を撒いて、着火した。でも、その“誰か”がどうしても見つかっていない。管理人の証言も曖昧で、“いつから誰がいたかは分からない”って……」
翔子の目が、静かに揺れていた。
彼女は感情を露わにすることのない人物だった。
だが今、その瞳の奥には、“得体の知れないもの”への恐れがにじんでいた。
「私……最近、部長の周囲で変な噂があるのも知ってます。でも、それ以上に……この話は、誰かに知らせておくべきだと思ったんです」
陽一は、小さく息を吐いた。
「ありがとう。教えてくれて……」
「どうか、気をつけてください」
翔子はそれだけ言い残して、足早に給湯室を出ていった。
残された陽一は、その場にしばらく立ち尽くしていた。
背中の汗が冷え、シャツにべったりと貼りついていた。
事故物件。火事。灯油。失踪。
それが全部、偶然であるはずがなかった。
自分の部屋で起きていた数々の異変。
冷蔵庫のズレた棚。
開いていたクローゼット。
倒れた写真立て。
赤いペンの文字。
あれらすべてが、“存在しない誰か”の仕業だとするならば、その“誰か”はこの部屋に、最初から棲みついていたのではないか。
その夜、陽一はふとした思いつきで、寝室のクローゼットの奥を探っていた。
衣類の裏側、スーツケースをずらすと、床板の一部がわずかに浮いていた。
指で押すと、ペコリと沈む音がした。
力を入れて板をめくると、そこには小さな空洞があり、中には焦げたような新聞紙の束が押し込まれていた。
手袋をして取り出すと、新聞の一部は黒く焼け、ページは炭化して崩れかけていた。
だが、その中の一枚に、うっすらと人の顔が焼きついていた。
女性と、女の子――笑っている。
顔の輪郭は崩れていたが、目元だけがくっきりと残っていた。
その目が、こちらを見ていた。
確かに。
“この空間”からずっと。
陽一は、新聞を元の場所に戻すこともできず、そのままクローゼットの扉を閉めた。
部屋の空気が、重くなった気がした。
窓を開けても、冷たい外気がなぜか部屋の中に届かなかった。
まるで壁の中に、何かが広がっているかのように。
その夜、眠りに落ちる寸前、天井の奥から「カリ……カリ……」という音がした。
ネズミの走るような軽い音ではない。
まるで、人の爪が石膏ボードを引っ掻くような、湿った音だった。
陽一は、ふと布団を引き上げ、目を閉じた。
心臓の鼓動が、枕に直接響く。
その音にまぎれて、もう一つ、奇妙な囁きが聞こえた気がした。
「……ここ、知ってる……?」
誰の声かは、分からなかった。
だがその言葉は、耳の奥ではなく、頭の内側から響いた。
そして、目を閉じた陽一のまぶたの裏に、一瞬だけ、燃えるカーテンの影が揺れた。
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