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第11話「揺らぐ境界線」
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月曜日の朝、神崎陽一は電車の中で、スマートフォンを手にしたまま数分間その画面を見つめていた。
そこには、前夜に小田切から送られてきたメッセージが表示されたままだった。
田島のスマートフォンから、社内サーバへの不審な深夜アクセス。
その時間帯、陽一は確かに眠っていた。
あるいは、眠っていた“つもり”だったのかもしれない。
記憶が曖昧だった。
ベッドに横になっていたはずが、気づけばソファの前に立ち尽くしていた記憶があった。
リビングの床には、水のような染みが広がっていた。
だが、確認しようと近づいたときには、何もなかった。
あの出来事は夢だったのか、現実だったのか、それすら判別できない。
記憶がところどころ欠けていた。
目の裏に焼きついたように、誰かの顔が残っていた。
あの、白く乾いた顔。
笑っていたのか、怒っていたのか、感情は読み取れなかった。
だが、あの顔の目線だけは、確かに陽一を“見ていた”。
オフィスに着いた頃には、すでに心拍数が上がっていた。
それが不安からなのか、怒りからなのか、あるいは別の“何か”への生理的拒絶反応なのかは、彼自身もわからなかった。
エレベーターホールで待っていると、ちょうど小田切がやってきた。
彼はいつも通りの冷静な表情だったが、目の奥に何かしらの緊張感が宿っていた。
「部長、少しだけ……応接室をお借りしてもいいですか?」
「……分かった」
応接室に入ると、ふたりは深く腰をかけ、ドアを閉めた。
小田切は小さな封筒をテーブルに置いた。
中には一枚のコピーが入っていた。
それは、陽一が今のマンションを契約した際の登記簿謄本だった。
「部長の部屋……やはり、事故物件でした。正式な記録としても残っていました」
陽一は紙面に目を落とした。
そこには、八年前の火災の記録と、所有者履歴が記載されていた。
放火の可能性あり、遺体発見、男性の失踪――
公的には“未解決”として処理されていたが、欄外に小さく「建物内部に焦げ跡。可燃物使用の痕跡あり」との記述があった。
「俺にこの情報は、一度も開示されてなかった」
「はい。仲介業者も、売主も“心理的瑕疵”にあたると判断しなかったようです。とくに明示義務も発生せず……」
「ふざけてる」
陽一は苦々しく呟いた。
「で、田島の件は?」
「こちらも確認しました。サーバへのアクセスは、確かに彼のスマートフォンの端末IDから。アクセス時間は午前三時十一分から三時十九分。ログには資料の閲覧履歴がありますが、ダウンロードはなし。内容は経理部内の月次報告書と、会議資料」
「……ただの閲覧にしては、時間が短いな。自分が必要な情報だけを“確認”したってわけか」
「その可能性は高いです。本人に問いただしますか?」
陽一は黙って首を横に振った。
「まだだ。泳がせよう。まだ何かを隠してる気がする」
会話の最中も、どこか身体がじんわりと冷えていた。
小田切と話している間中、背中の肩甲骨のあたりに“視線”を感じていた。
もちろん、そこに人などいない。
ただの感覚に過ぎない。
だが、その感覚はあまりにも“確か”だった。
午後二時を過ぎた頃、仕事中に陽一は強烈な眠気に襲われた。
コーヒーを飲んでも、意識が浮上しない。
それは睡眠不足や疲労のレベルではなかった。
まるで“無理やり眠らされている”ような不自然な倦怠感だった。
彼はしばらく目を閉じ、深呼吸しようとした。
が、その瞬間――
耳の奥で、「トントン……」という音がした。
それは現実の音ではなかった。
“内側”から響いた音だった。
まるで、頭蓋の内側を“誰か”がノックしているような。
彼は椅子から立ち上がり、トイレに向かった。
洗面所で顔を洗い、水を飲み、呼吸を整える。
鏡を見ると、自分の顔は明らかにやつれていた。
肌の下に薄い青みが浮かび、眼の周りは赤く、疲労が滲み出ている。
だがそれ以上に、彼の心を凍らせたのは、鏡の奥の自分の背後に――“白い影”が一瞬映ったことだった。
振り返った。
誰もいない。
洗面所には自分ひとりだけ。
音もない。
だが、確かにいた。
そこにいた。
目を開けたまま、動かない顔が、自分の肩越しに覗いていた。
その日の帰り道、陽一は駅の階段で“押された”。
背中に小さな衝撃。
足元のバランスを崩し、身体が前のめりに傾いた。
咄嗟に手すりに掴まったが、あと数センチずれていたら、そのまま転落していた。
誰だ。
誰が押した。
だが、振り返っても、誰もいなかった。
通行人の流れの中に、それらしい人物はいなかった。
帰宅後、靴を脱いだ瞬間、リビングの照明がひとりでについた。
陽一は静かに言った。
「……いるのか」
返事はなかった。
だが、そこには明らかに“誰か”がいた。
それを認めるのは、自分の敗北のような気がして、唇を噛んだ。
だが、認めざるを得なかった。
誰かがここに棲みついている。
過去の亡霊か、今の誰かか、あるいは“両方”か。
そして自分はその標的になっている。
寝室に向かうと、枕元に置いてあった婚約指輪の箱が、開いていた。
中は空だった。
指輪は、消えていた。
陽一は冷や汗をにじませながら部屋中を探した。
引き出し、ソファの隙間、洗面所、キッチン。
だが、どこにもなかった。
ベッドの下を覗いた瞬間、彼は凍りついた。
そこに、婚約指輪が“置かれて”いた。
まるで、誰かが彼に“見せるために”わざわざ隠したかのように。
しかも、指輪の輪の中には、黒い髪の毛が一本巻きついていた。
陽一はそっと後ずさり、壁に背中を預けた。
この部屋はもう、安全ではない。
誰かが自分を壊そうとしている。
誰かが、自分の心を、時間を、空間を、すべてを操作しようとしている。
その夜、天井の奥から「ガリガリ……ガリガリ……」という音が続いた。
それは、何かが“這いずっている”音だった。
陽一は眠れなかった。
目を閉じると、白い顔が浮かぶ。
目を開けても、天井が微かに軋む。
どこにも逃げ場がなかった。
そして朝が来る頃、彼はスマートフォンに届いていた奈々からのメッセージを見た。
《部長。大事な話があります。……婚約者の白石美緒さん、昨夜、小田切係長とホテルにいました。証拠、あります》
目の前の世界が、すっと色を失った。
そこには、前夜に小田切から送られてきたメッセージが表示されたままだった。
田島のスマートフォンから、社内サーバへの不審な深夜アクセス。
その時間帯、陽一は確かに眠っていた。
あるいは、眠っていた“つもり”だったのかもしれない。
記憶が曖昧だった。
ベッドに横になっていたはずが、気づけばソファの前に立ち尽くしていた記憶があった。
リビングの床には、水のような染みが広がっていた。
だが、確認しようと近づいたときには、何もなかった。
あの出来事は夢だったのか、現実だったのか、それすら判別できない。
記憶がところどころ欠けていた。
目の裏に焼きついたように、誰かの顔が残っていた。
あの、白く乾いた顔。
笑っていたのか、怒っていたのか、感情は読み取れなかった。
だが、あの顔の目線だけは、確かに陽一を“見ていた”。
オフィスに着いた頃には、すでに心拍数が上がっていた。
それが不安からなのか、怒りからなのか、あるいは別の“何か”への生理的拒絶反応なのかは、彼自身もわからなかった。
エレベーターホールで待っていると、ちょうど小田切がやってきた。
彼はいつも通りの冷静な表情だったが、目の奥に何かしらの緊張感が宿っていた。
「部長、少しだけ……応接室をお借りしてもいいですか?」
「……分かった」
応接室に入ると、ふたりは深く腰をかけ、ドアを閉めた。
小田切は小さな封筒をテーブルに置いた。
中には一枚のコピーが入っていた。
それは、陽一が今のマンションを契約した際の登記簿謄本だった。
「部長の部屋……やはり、事故物件でした。正式な記録としても残っていました」
陽一は紙面に目を落とした。
そこには、八年前の火災の記録と、所有者履歴が記載されていた。
放火の可能性あり、遺体発見、男性の失踪――
公的には“未解決”として処理されていたが、欄外に小さく「建物内部に焦げ跡。可燃物使用の痕跡あり」との記述があった。
「俺にこの情報は、一度も開示されてなかった」
「はい。仲介業者も、売主も“心理的瑕疵”にあたると判断しなかったようです。とくに明示義務も発生せず……」
「ふざけてる」
陽一は苦々しく呟いた。
「で、田島の件は?」
「こちらも確認しました。サーバへのアクセスは、確かに彼のスマートフォンの端末IDから。アクセス時間は午前三時十一分から三時十九分。ログには資料の閲覧履歴がありますが、ダウンロードはなし。内容は経理部内の月次報告書と、会議資料」
「……ただの閲覧にしては、時間が短いな。自分が必要な情報だけを“確認”したってわけか」
「その可能性は高いです。本人に問いただしますか?」
陽一は黙って首を横に振った。
「まだだ。泳がせよう。まだ何かを隠してる気がする」
会話の最中も、どこか身体がじんわりと冷えていた。
小田切と話している間中、背中の肩甲骨のあたりに“視線”を感じていた。
もちろん、そこに人などいない。
ただの感覚に過ぎない。
だが、その感覚はあまりにも“確か”だった。
午後二時を過ぎた頃、仕事中に陽一は強烈な眠気に襲われた。
コーヒーを飲んでも、意識が浮上しない。
それは睡眠不足や疲労のレベルではなかった。
まるで“無理やり眠らされている”ような不自然な倦怠感だった。
彼はしばらく目を閉じ、深呼吸しようとした。
が、その瞬間――
耳の奥で、「トントン……」という音がした。
それは現実の音ではなかった。
“内側”から響いた音だった。
まるで、頭蓋の内側を“誰か”がノックしているような。
彼は椅子から立ち上がり、トイレに向かった。
洗面所で顔を洗い、水を飲み、呼吸を整える。
鏡を見ると、自分の顔は明らかにやつれていた。
肌の下に薄い青みが浮かび、眼の周りは赤く、疲労が滲み出ている。
だがそれ以上に、彼の心を凍らせたのは、鏡の奥の自分の背後に――“白い影”が一瞬映ったことだった。
振り返った。
誰もいない。
洗面所には自分ひとりだけ。
音もない。
だが、確かにいた。
そこにいた。
目を開けたまま、動かない顔が、自分の肩越しに覗いていた。
その日の帰り道、陽一は駅の階段で“押された”。
背中に小さな衝撃。
足元のバランスを崩し、身体が前のめりに傾いた。
咄嗟に手すりに掴まったが、あと数センチずれていたら、そのまま転落していた。
誰だ。
誰が押した。
だが、振り返っても、誰もいなかった。
通行人の流れの中に、それらしい人物はいなかった。
帰宅後、靴を脱いだ瞬間、リビングの照明がひとりでについた。
陽一は静かに言った。
「……いるのか」
返事はなかった。
だが、そこには明らかに“誰か”がいた。
それを認めるのは、自分の敗北のような気がして、唇を噛んだ。
だが、認めざるを得なかった。
誰かがここに棲みついている。
過去の亡霊か、今の誰かか、あるいは“両方”か。
そして自分はその標的になっている。
寝室に向かうと、枕元に置いてあった婚約指輪の箱が、開いていた。
中は空だった。
指輪は、消えていた。
陽一は冷や汗をにじませながら部屋中を探した。
引き出し、ソファの隙間、洗面所、キッチン。
だが、どこにもなかった。
ベッドの下を覗いた瞬間、彼は凍りついた。
そこに、婚約指輪が“置かれて”いた。
まるで、誰かが彼に“見せるために”わざわざ隠したかのように。
しかも、指輪の輪の中には、黒い髪の毛が一本巻きついていた。
陽一はそっと後ずさり、壁に背中を預けた。
この部屋はもう、安全ではない。
誰かが自分を壊そうとしている。
誰かが、自分の心を、時間を、空間を、すべてを操作しようとしている。
その夜、天井の奥から「ガリガリ……ガリガリ……」という音が続いた。
それは、何かが“這いずっている”音だった。
陽一は眠れなかった。
目を閉じると、白い顔が浮かぶ。
目を開けても、天井が微かに軋む。
どこにも逃げ場がなかった。
そして朝が来る頃、彼はスマートフォンに届いていた奈々からのメッセージを見た。
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