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第12話「裏切りの残響」
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スマートフォンの画面に表示された奈々からのメッセージは、陽一の心を確実に切り裂いた。
その短い一文。
たった数行の文章が、これまで綿密に築いてきた理性という土台をあっさりと崩した。
《部長。大事な話があります。……婚約者の白石美緒さん、昨夜、小田切係長とホテルにいました。証拠、あります》
理解するまでに時間がかかった。
文字列はすぐに視認できたのに、それが意味する事実を頭が受け入れるのを拒否していた。
彼は思わずスマートフォンを伏せ、両手で額を覆った。
朝の光は既に差し込んでいた。
だが部屋の中はどこか薄暗く、空気が濁っていた。
寝室のカーテンはわずかに揺れ、無音の風が吹いているような錯覚を与えた。
壁に映る影がゆらゆらと揺れている。
それが陽の光によるものなのか、それとも別の“何か”の気配なのか、陽一にはもう見分けがつかなかった。
ベッドの隅には昨夜見つけた婚約指輪が置かれていた。
中に絡みついていた黒髪はもうなかった。
誰かが取ったのか、自分で捨てたのか、それも記憶が曖昧だった。
気がつけば、シャツの袖に黒い煤のような汚れがついていた。
焦げた匂いが、ふと鼻腔をくすぐる。
スマートフォンの通知音が再び鳴った。
奈々からの追撃だった。
《もしご都合よろしければ、昼休みに屋上で。写真も見せます。部長のために撮りました》
彼女の言葉の端々には、妙な温度があった。
冷たくはない。だが、純粋な善意でもない。
彼女の“熱”は、陽一の心を静かに焼いた。
昼。
陽一は社内のエレベーターに乗り、屋上階まで上がった。
エレベーター内の鏡に映る自分は、もう“部長”の顔ではなかった。
頬はこけ、目は赤く腫れ、髪は少し乱れていた。
疲れというより、“何かに取り憑かれている人間”の顔だった。
屋上の鉄扉を開けると、冬の空気が容赦なく肌を刺した。
澄んだ空が広がるなか、奈々はフェンス際に立っていた。
風に髪をなびかせ、陽一の方を向いて微笑む。
その笑顔がやけに乾いて見えた。
「来てくださってありがとうございます。……寒いですね」
「写真を見せてくれ」
「はい。すぐに」
奈々はコートのポケットからスマートフォンを取り出し、画面を開いた。
数回スワイプし、ある一枚の写真を提示した。
それは、都内某ホテルのロビーだった。
夜の時間帯、受付カウンターの奥に人影が二つ。
顔までははっきり写っていないが、シルエットと服装は、間違いなく小田切と美緒だった。
彼の横顔、彼女の髪型、姿勢。
すべてが、陽一の記憶と一致していた。
「……どこでこれを?」
「昨日の夜。仕事帰り、偶然前を通ったんです。で、ふたりが中に入っていくのを見て……信じられなくて。最初は間違いかと思いました。でも、角度を変えて何枚か撮りました」
別の写真には、エレベーターに並んで乗り込むふたりの後ろ姿があった。
距離はあるが、明らかに親密な距離感だった。
それを見た瞬間、胸の奥にある“何か”が、静かにひび割れた。
「……ありがとう。撮ってくれて」
奈々はかすかに笑った。
「部長が、疑ってるのは当然だと思う。でも、私……部長には真実を知ってほしかった。小田切係長って、人当たりはいいけど、ずっと部長のことを下に見てますよ。表では持ち上げてるけど、陰で『あいつは運だけで出世した』って」
「……聞いたのか?」
「何度も。美緒さんのことも、“あんなの、最後は金目当てでしょ”って」
陽一は息を詰めた。
言葉が、喉の奥でざらついていた。
この胸の苦しさは怒りなのか、失望なのか、それとも——
奈々はスマートフォンをポケットに戻し、そっと言った。
「私……ずっと見てました。部長のこと。誰よりも、ちゃんと見てたつもりです」
風が一段と強く吹き、奈々の髪が顔にかかる。
その視線は真っすぐで、揺らがなかった。
「誰が味方で、誰が敵か、もう分からなくなりますよね。でも、私は……部長の味方です」
陽一は無言で彼女を見つめた。
屋上のフェンス越しに見える景色は、どこまでも遠く、現実から乖離しているように思えた。
それでも地面は確かにここにあり、自分の足もそこに立っている。
だが心だけが、別の場所に投げ出されていた。
「……ありがとう。助かったよ」
奈々は軽く頷き、微笑んだ。
「また何かあったら、いつでも言ってください。私、本当に……部長の力になりたいんです」
その言葉の“重さ”が、陽一の胸にひっそりと沈んでいった。
彼女の視線は、どこか執着に近い色を帯びていた。
愛情か、共犯的な共鳴か。
あるいは——利用。
その夜。
帰宅した陽一の部屋は、また“変わって”いた。
玄関の靴の位置が、わずかにずれていた。
照明のリモコンが裏返しになっていた。
そして、リビングの壁に、新たな“手形”が浮かんでいた。
前よりも深く、はっきりとした五本指。
だがその指は、まるで“何か”を掴もうと伸ばしているように見えた。
狙っているのは——自分か、それとも……?
眠れぬまま深夜を迎えた頃、スマートフォンがまた震えた。
美緒からだった。
《ごめんね。明日、ちゃんと話がしたい。私、全部話す》
その文面の“ごめんね”の一言が、陽一の心に突き刺さった。
彼女は、謝罪の対象が何かを明示していない。
だが、それでも何かを“認めた”のだと、陽一は感じた。
裏切りの残響は、すでに身体の深部にまで届いていた。
眠れぬ夜の終わり。
ふと、リビングのカーテンがひとりでに揺れた。
風はなかった。
窓も閉めてあった。
だがその向こうに、“誰か”が立っている気がした。
白く乾いた顔。
虚ろな眼。
ただ、そこに“いるだけ”の存在が、部屋と現実の境界を曖昧にしはじめていた。
その短い一文。
たった数行の文章が、これまで綿密に築いてきた理性という土台をあっさりと崩した。
《部長。大事な話があります。……婚約者の白石美緒さん、昨夜、小田切係長とホテルにいました。証拠、あります》
理解するまでに時間がかかった。
文字列はすぐに視認できたのに、それが意味する事実を頭が受け入れるのを拒否していた。
彼は思わずスマートフォンを伏せ、両手で額を覆った。
朝の光は既に差し込んでいた。
だが部屋の中はどこか薄暗く、空気が濁っていた。
寝室のカーテンはわずかに揺れ、無音の風が吹いているような錯覚を与えた。
壁に映る影がゆらゆらと揺れている。
それが陽の光によるものなのか、それとも別の“何か”の気配なのか、陽一にはもう見分けがつかなかった。
ベッドの隅には昨夜見つけた婚約指輪が置かれていた。
中に絡みついていた黒髪はもうなかった。
誰かが取ったのか、自分で捨てたのか、それも記憶が曖昧だった。
気がつけば、シャツの袖に黒い煤のような汚れがついていた。
焦げた匂いが、ふと鼻腔をくすぐる。
スマートフォンの通知音が再び鳴った。
奈々からの追撃だった。
《もしご都合よろしければ、昼休みに屋上で。写真も見せます。部長のために撮りました》
彼女の言葉の端々には、妙な温度があった。
冷たくはない。だが、純粋な善意でもない。
彼女の“熱”は、陽一の心を静かに焼いた。
昼。
陽一は社内のエレベーターに乗り、屋上階まで上がった。
エレベーター内の鏡に映る自分は、もう“部長”の顔ではなかった。
頬はこけ、目は赤く腫れ、髪は少し乱れていた。
疲れというより、“何かに取り憑かれている人間”の顔だった。
屋上の鉄扉を開けると、冬の空気が容赦なく肌を刺した。
澄んだ空が広がるなか、奈々はフェンス際に立っていた。
風に髪をなびかせ、陽一の方を向いて微笑む。
その笑顔がやけに乾いて見えた。
「来てくださってありがとうございます。……寒いですね」
「写真を見せてくれ」
「はい。すぐに」
奈々はコートのポケットからスマートフォンを取り出し、画面を開いた。
数回スワイプし、ある一枚の写真を提示した。
それは、都内某ホテルのロビーだった。
夜の時間帯、受付カウンターの奥に人影が二つ。
顔までははっきり写っていないが、シルエットと服装は、間違いなく小田切と美緒だった。
彼の横顔、彼女の髪型、姿勢。
すべてが、陽一の記憶と一致していた。
「……どこでこれを?」
「昨日の夜。仕事帰り、偶然前を通ったんです。で、ふたりが中に入っていくのを見て……信じられなくて。最初は間違いかと思いました。でも、角度を変えて何枚か撮りました」
別の写真には、エレベーターに並んで乗り込むふたりの後ろ姿があった。
距離はあるが、明らかに親密な距離感だった。
それを見た瞬間、胸の奥にある“何か”が、静かにひび割れた。
「……ありがとう。撮ってくれて」
奈々はかすかに笑った。
「部長が、疑ってるのは当然だと思う。でも、私……部長には真実を知ってほしかった。小田切係長って、人当たりはいいけど、ずっと部長のことを下に見てますよ。表では持ち上げてるけど、陰で『あいつは運だけで出世した』って」
「……聞いたのか?」
「何度も。美緒さんのことも、“あんなの、最後は金目当てでしょ”って」
陽一は息を詰めた。
言葉が、喉の奥でざらついていた。
この胸の苦しさは怒りなのか、失望なのか、それとも——
奈々はスマートフォンをポケットに戻し、そっと言った。
「私……ずっと見てました。部長のこと。誰よりも、ちゃんと見てたつもりです」
風が一段と強く吹き、奈々の髪が顔にかかる。
その視線は真っすぐで、揺らがなかった。
「誰が味方で、誰が敵か、もう分からなくなりますよね。でも、私は……部長の味方です」
陽一は無言で彼女を見つめた。
屋上のフェンス越しに見える景色は、どこまでも遠く、現実から乖離しているように思えた。
それでも地面は確かにここにあり、自分の足もそこに立っている。
だが心だけが、別の場所に投げ出されていた。
「……ありがとう。助かったよ」
奈々は軽く頷き、微笑んだ。
「また何かあったら、いつでも言ってください。私、本当に……部長の力になりたいんです」
その言葉の“重さ”が、陽一の胸にひっそりと沈んでいった。
彼女の視線は、どこか執着に近い色を帯びていた。
愛情か、共犯的な共鳴か。
あるいは——利用。
その夜。
帰宅した陽一の部屋は、また“変わって”いた。
玄関の靴の位置が、わずかにずれていた。
照明のリモコンが裏返しになっていた。
そして、リビングの壁に、新たな“手形”が浮かんでいた。
前よりも深く、はっきりとした五本指。
だがその指は、まるで“何か”を掴もうと伸ばしているように見えた。
狙っているのは——自分か、それとも……?
眠れぬまま深夜を迎えた頃、スマートフォンがまた震えた。
美緒からだった。
《ごめんね。明日、ちゃんと話がしたい。私、全部話す》
その文面の“ごめんね”の一言が、陽一の心に突き刺さった。
彼女は、謝罪の対象が何かを明示していない。
だが、それでも何かを“認めた”のだと、陽一は感じた。
裏切りの残響は、すでに身体の深部にまで届いていた。
眠れぬ夜の終わり。
ふと、リビングのカーテンがひとりでに揺れた。
風はなかった。
窓も閉めてあった。
だがその向こうに、“誰か”が立っている気がした。
白く乾いた顔。
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