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第13話「告白の夜」
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冷たい空気が夜の街を貫いていた。
街路樹は枯れた葉を揺らしながら街灯の下で黒く影を伸ばしている。
神崎陽一は待ち合わせ場所のカフェに、予定より十五分早く到着していた。
店内は落ち着いた照明とジャズが流れる静かな空間だったが、陽一の心は荒れた波間のように落ち着かなかった。
胸の内に沈殿しているのは、怒りか、悲しみか、それとももっと冷たいものなのか、まだ名前を与えられずにいた。
目の前には空のカップ。
中身を飲み終えたのに、手はそれを何度も持ち上げては戻していた。
指先に無意識の癖が染みついていた。
心を落ち着けようとするたびに、胸の奥で“黒い顔”が浮かび上がってくる。
それは昨夜、リビングのカーテン越しに見えたあの気配の正体だったのか、それとも“あの部屋”の記憶が脳に焼きついているだけなのか。
店の扉が静かに開いた。
控えめなベルの音が鳴り、彼女が現れた。
白石美緒。
陽一の婚約者であり、二年前から共に時間を重ねてきた相手。
その顔には、化粧では隠せない疲れがにじんでいた。
目の下のクマ。
頬のこけ具合。
そして、唇の端に見える、迷いの線。
その顔を見た瞬間、陽一の心にもう一度、問うべき言葉が浮かんだ。
——本当に、裏切ったのか。
そして、なぜ。
「……待たせて、ごめんなさい」
「いや、俺が早かっただけだ」
美緒は陽一の向かいに座り、コートを丁寧にたたんだ。
指の動きに緊張が滲んでいた。
その手に触れようとしたが、陽一は自分の手をわずかに引いた。
その動きに、美緒の肩が小さく揺れた。
「見たよ。写真。小田切とホテルにいたって」
美緒はしばらく何も言わなかった。
沈黙が、会話よりも重く、空間に満ちていった。
やがて彼女は、唇を少しだけ開いた。
「……あれは、偶然だったの。信じてもらえないかもしれないけど、仕事の延長。接待のあと、タクシーが捕まらなくて……小田切さんが“部屋をとるから話そう”って言ってきた。私は断った。でも、彼は強引だった」
陽一は顔をしかめた。
それは嘘にしては、あまりに生々しい感情を孕んでいた。
しかし、彼の内側ではもうひとつの声が囁いていた。
“彼女は演技が上手い”
“何度も目を見て騙されたじゃないか”
“それにしても、よりによって小田切だぞ”
「だったら、なぜ俺に黙ってた?」
「言えるわけないでしょ。何を信じていいか分からなくて……あなたも最近ずっと変だった。目の奥が冷たくて、私の話も聞いてるようで、どこか違う場所にいるみたいで……。怖かったの。あの部屋に行くのも」
陽一は眉をひそめた。
「“あの部屋”?」
「うん。……あなたの部屋、変な音がするの。水がないのにぽたぽた音がしたり、誰もいないはずなのに、夜中にドアが開いたり。最初は気のせいかと思った。でも、最近は私も夢に見るの。炎に包まれる部屋で、誰かが“出して”って叫んでる。女の子の声……」
陽一の手が止まった。
それは、彼が何度も“幻視”した場面だった。
炎の中、誰かが助けを求める声。
そして、焼けた壁。
美緒も同じ夢を見ていたという事実に、何かが一致した音がした。
「じゃあ……お前は、小田切と何も?」
「ないわ。私は……あなたを裏切ってない。信じて」
陽一はじっと彼女を見つめた。
その瞳には、涙が溜まっていた。
だが、それすらも計算かもしれない。
もう、何を信じればいいのか分からなかった。
だからこそ、次の質問は、本能のように口をついて出た。
「……じゃあ、お前の“元恋人”は誰だ?」
美緒の表情が凍った。
瞬間、唇が小さく震え、視線がわずかに泳いだ。
彼女の“感情の逃げ場”が、数秒の沈黙の中に露呈していた。
「……どうして、それを?」
「答えろ」
「……彼も、あなたの部下だった。でももう、終わってたの。三年前に別れて、もう会ってない」
「名前は」
「……小田切さんよ」
陽一の中で、世界が反転した音がした。
冷たい水に頭から叩き込まれたような衝撃。
小田切——あいつが、美緒の元恋人だった。
だからこそ、自分の行動パターンを熟知していた。
そして、陽一のPCにアクセスした形跡。
資料の改ざん。
田島の操作の裏に、彼の指示があったのではないか。
全てが一本の線になった。
「なぜ、隠してた」
「言えるわけないでしょ……あなたに、そんなこと……。でも私は、あなたとちゃんと向き合いたくて……」
陽一はその言葉を最後まで聞かずに立ち上がった。
椅子が大きな音を立てて床をこすった。
彼の体が震えていたのは、怒りだけではなかった。
全てのピースがはまってしまった恐怖だった。
そして、そのピースの裏側には、さらなる影があった。
——彼女の元恋人、小田切。
——彼は今、部下として、係長として、自分の“懐”にいる。
——美緒の言葉を信じれば、裏切りは終わっている。
——だが、小田切の行動は“終わっていない”。
「……俺は、真実を知る。何があったのか、全部な」
彼はそれだけ言い残し、カフェの外へ出た。
冷気が襟元を刺した。
夜の街に響く足音は、遠くで誰かが並走しているようだった。
振り返っても、そこには誰もいない。
ただ、路地の奥で黒い影が一瞬、揺れた気がした。
街路樹は枯れた葉を揺らしながら街灯の下で黒く影を伸ばしている。
神崎陽一は待ち合わせ場所のカフェに、予定より十五分早く到着していた。
店内は落ち着いた照明とジャズが流れる静かな空間だったが、陽一の心は荒れた波間のように落ち着かなかった。
胸の内に沈殿しているのは、怒りか、悲しみか、それとももっと冷たいものなのか、まだ名前を与えられずにいた。
目の前には空のカップ。
中身を飲み終えたのに、手はそれを何度も持ち上げては戻していた。
指先に無意識の癖が染みついていた。
心を落ち着けようとするたびに、胸の奥で“黒い顔”が浮かび上がってくる。
それは昨夜、リビングのカーテン越しに見えたあの気配の正体だったのか、それとも“あの部屋”の記憶が脳に焼きついているだけなのか。
店の扉が静かに開いた。
控えめなベルの音が鳴り、彼女が現れた。
白石美緒。
陽一の婚約者であり、二年前から共に時間を重ねてきた相手。
その顔には、化粧では隠せない疲れがにじんでいた。
目の下のクマ。
頬のこけ具合。
そして、唇の端に見える、迷いの線。
その顔を見た瞬間、陽一の心にもう一度、問うべき言葉が浮かんだ。
——本当に、裏切ったのか。
そして、なぜ。
「……待たせて、ごめんなさい」
「いや、俺が早かっただけだ」
美緒は陽一の向かいに座り、コートを丁寧にたたんだ。
指の動きに緊張が滲んでいた。
その手に触れようとしたが、陽一は自分の手をわずかに引いた。
その動きに、美緒の肩が小さく揺れた。
「見たよ。写真。小田切とホテルにいたって」
美緒はしばらく何も言わなかった。
沈黙が、会話よりも重く、空間に満ちていった。
やがて彼女は、唇を少しだけ開いた。
「……あれは、偶然だったの。信じてもらえないかもしれないけど、仕事の延長。接待のあと、タクシーが捕まらなくて……小田切さんが“部屋をとるから話そう”って言ってきた。私は断った。でも、彼は強引だった」
陽一は顔をしかめた。
それは嘘にしては、あまりに生々しい感情を孕んでいた。
しかし、彼の内側ではもうひとつの声が囁いていた。
“彼女は演技が上手い”
“何度も目を見て騙されたじゃないか”
“それにしても、よりによって小田切だぞ”
「だったら、なぜ俺に黙ってた?」
「言えるわけないでしょ。何を信じていいか分からなくて……あなたも最近ずっと変だった。目の奥が冷たくて、私の話も聞いてるようで、どこか違う場所にいるみたいで……。怖かったの。あの部屋に行くのも」
陽一は眉をひそめた。
「“あの部屋”?」
「うん。……あなたの部屋、変な音がするの。水がないのにぽたぽた音がしたり、誰もいないはずなのに、夜中にドアが開いたり。最初は気のせいかと思った。でも、最近は私も夢に見るの。炎に包まれる部屋で、誰かが“出して”って叫んでる。女の子の声……」
陽一の手が止まった。
それは、彼が何度も“幻視”した場面だった。
炎の中、誰かが助けを求める声。
そして、焼けた壁。
美緒も同じ夢を見ていたという事実に、何かが一致した音がした。
「じゃあ……お前は、小田切と何も?」
「ないわ。私は……あなたを裏切ってない。信じて」
陽一はじっと彼女を見つめた。
その瞳には、涙が溜まっていた。
だが、それすらも計算かもしれない。
もう、何を信じればいいのか分からなかった。
だからこそ、次の質問は、本能のように口をついて出た。
「……じゃあ、お前の“元恋人”は誰だ?」
美緒の表情が凍った。
瞬間、唇が小さく震え、視線がわずかに泳いだ。
彼女の“感情の逃げ場”が、数秒の沈黙の中に露呈していた。
「……どうして、それを?」
「答えろ」
「……彼も、あなたの部下だった。でももう、終わってたの。三年前に別れて、もう会ってない」
「名前は」
「……小田切さんよ」
陽一の中で、世界が反転した音がした。
冷たい水に頭から叩き込まれたような衝撃。
小田切——あいつが、美緒の元恋人だった。
だからこそ、自分の行動パターンを熟知していた。
そして、陽一のPCにアクセスした形跡。
資料の改ざん。
田島の操作の裏に、彼の指示があったのではないか。
全てが一本の線になった。
「なぜ、隠してた」
「言えるわけないでしょ……あなたに、そんなこと……。でも私は、あなたとちゃんと向き合いたくて……」
陽一はその言葉を最後まで聞かずに立ち上がった。
椅子が大きな音を立てて床をこすった。
彼の体が震えていたのは、怒りだけではなかった。
全てのピースがはまってしまった恐怖だった。
そして、そのピースの裏側には、さらなる影があった。
——彼女の元恋人、小田切。
——彼は今、部下として、係長として、自分の“懐”にいる。
——美緒の言葉を信じれば、裏切りは終わっている。
——だが、小田切の行動は“終わっていない”。
「……俺は、真実を知る。何があったのか、全部な」
彼はそれだけ言い残し、カフェの外へ出た。
冷気が襟元を刺した。
夜の街に響く足音は、遠くで誰かが並走しているようだった。
振り返っても、そこには誰もいない。
ただ、路地の奥で黒い影が一瞬、揺れた気がした。
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