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零話①
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雨は、街の輪郭を溶かすように降っていた。
ガラス窓に当たった雫が、ネオンの光を引き延ばし、赤や青の線になって流れていく。
相沢健太は、その線が自分の人生の軌跡みたいに思えて、目を逸らした。
電車の窓に映る顔は、他人みたいだった。
眉も目も口も、どこにも悪くないのに、どこにも力がない。
疲れているのか、と聞かれたら、疲れているのだろう、と答えるしかない顔だった。
自分の表情を自分で所有していないような感覚が、最近ずっと続いていた。
会社の最寄り駅に着くと、雨はさらに冷たくなっていた。
改札を出る人の流れは、無言の群れみたいに均質で、誰も彼も同じ速度で歩いていく。
健太もその一部になって、同じように歩いた。
(群れから外れたら、何かに食われるのかもしれない)
そんな馬鹿な想像をしてしまう程度には、心が乾いていた。
デザイン事務所のビルは、雨に濡れたコンクリートの箱だった。
エレベーターの鏡に、また自分が映る。
鏡の自分は、少しだけ目の焦点が合っていない。
健太はそれを見て、笑おうとしてやめた。
笑う筋肉が、どこか固まってしまったみたいだった。
フロアに入ると、空調の匂いが鼻を刺した。
紙とインクと、どこか焦げたような電気の匂いが混じっている。
椅子を引く音。
キーボードの打鍵。
遠くでコピー機が唸る音。
この場所の音は全部、規則正しくて、だから余計に息苦しい。
「相沢。昨日の修正、まだ?」
上司の声は、いきなり鼓膜の内側に刺さってくる。
背中が勝手に丸まる。
「すみません、今、最終の確認を……」
「“今”って言うやつは、いつまで経っても終わんないんだよ」
笑いでも冗談でもない、ただの断定。
健太は「はい」と言った。
言葉が自分の意思から離れて、勝手に口から滑り落ちる。
モニターの中で、無意味な線を整える。
ロゴの角度を0.5度直す。
余白を2ピクセルずらす。
色の濃度を1%落とす。
そういう細部の正しさが、誰かの世界を良くするのだ、と教科書には書いてあった。
けれど現実の健太は、ただ「怒られない」ために整えているだけだった。
(この0.5度が、俺の人生を救うことはない)
そんなことを思った瞬間、胸の奥が小さく軋んだ。
昼休み。
コンビニの弁当を、屋上の隅で食べた。
風が雨の粒を運んでくる。
米は冷めていて、唐揚げは硬い。
健太は味を確かめるように咀嚼した。
味が、薄い。
というより、自分の舌が鈍っている。
スマホの画面を開く。
通知は、ほとんどない。
大学時代のグループチャットは、誰かの結婚式の写真と、誰かの転職報告で止まっていた。
健太はその画面を眺めて、指を動かさずに閉じた。
自分の未来が、そこにはない気がした。
代わりに、広告が目に入った。
動画広告。
光の粒子が集まって、ゴーグル型のヘッドセットを形作る。
「世界初、フルダイブVRホラー」
「痛み、匂い、恐怖――あなたは本当に生き残れるか」
タイトルは、黒地に白い文字で、短く表示された。
『Terrorscape』。
健太の指が止まった。
心臓が、いつもより一拍だけ強く打った。
(ホラーは嫌いじゃない)
映画も、ゲーム実況も、嫌いじゃない。
けれどそれは、画面越しの安全圏から眺めるものだった。
なのに、その広告だけは、違う場所を叩いてきた。
暗い廊下。
揺れる蛍光灯。
遠くで、何かを引きずる音。
そして画面の中央で、プレイヤーの視点が走る。
息が上がる。
喉が乾く。
手が震える。
その描写が、演出だと分かっているのに、なぜか健太の身体が反応した。
背中の皮膚が粟立ち、指先が冷える。
(俺の身体が、先に怖がってる)
それが妙に気持ちよかった。
広告の最後に、短いコピーが出た。
「現実からログアウトするな」
皮肉みたいに見えた。
健太は、笑った。
笑ってしまった。
声は出なかったけれど、口角だけが少し上がった。
それは久しぶりの、自分で作った表情だった。
仕事が終わる頃には、空はもう夜だった。
雨は止んでいない。
帰り道、健太は駅前の大型ビジョンを見上げた。
そこにも、同じ広告が流れていた。
街の騒音の上に、合成音声が重なる。
「フルダイブ型VRホラー、『Terrorscape』。本日発売」
発売。
今日。
健太は、呼吸が浅くなるのを感じた。
いつもの帰り道を、少しだけ逸れた。
家電量販店の明るい入り口に吸い寄せられるように入る。
店内の匂いは、プラスチックと新しい布と、人の汗が混ざった匂いだった。
ガラス窓に当たった雫が、ネオンの光を引き延ばし、赤や青の線になって流れていく。
相沢健太は、その線が自分の人生の軌跡みたいに思えて、目を逸らした。
電車の窓に映る顔は、他人みたいだった。
眉も目も口も、どこにも悪くないのに、どこにも力がない。
疲れているのか、と聞かれたら、疲れているのだろう、と答えるしかない顔だった。
自分の表情を自分で所有していないような感覚が、最近ずっと続いていた。
会社の最寄り駅に着くと、雨はさらに冷たくなっていた。
改札を出る人の流れは、無言の群れみたいに均質で、誰も彼も同じ速度で歩いていく。
健太もその一部になって、同じように歩いた。
(群れから外れたら、何かに食われるのかもしれない)
そんな馬鹿な想像をしてしまう程度には、心が乾いていた。
デザイン事務所のビルは、雨に濡れたコンクリートの箱だった。
エレベーターの鏡に、また自分が映る。
鏡の自分は、少しだけ目の焦点が合っていない。
健太はそれを見て、笑おうとしてやめた。
笑う筋肉が、どこか固まってしまったみたいだった。
フロアに入ると、空調の匂いが鼻を刺した。
紙とインクと、どこか焦げたような電気の匂いが混じっている。
椅子を引く音。
キーボードの打鍵。
遠くでコピー機が唸る音。
この場所の音は全部、規則正しくて、だから余計に息苦しい。
「相沢。昨日の修正、まだ?」
上司の声は、いきなり鼓膜の内側に刺さってくる。
背中が勝手に丸まる。
「すみません、今、最終の確認を……」
「“今”って言うやつは、いつまで経っても終わんないんだよ」
笑いでも冗談でもない、ただの断定。
健太は「はい」と言った。
言葉が自分の意思から離れて、勝手に口から滑り落ちる。
モニターの中で、無意味な線を整える。
ロゴの角度を0.5度直す。
余白を2ピクセルずらす。
色の濃度を1%落とす。
そういう細部の正しさが、誰かの世界を良くするのだ、と教科書には書いてあった。
けれど現実の健太は、ただ「怒られない」ために整えているだけだった。
(この0.5度が、俺の人生を救うことはない)
そんなことを思った瞬間、胸の奥が小さく軋んだ。
昼休み。
コンビニの弁当を、屋上の隅で食べた。
風が雨の粒を運んでくる。
米は冷めていて、唐揚げは硬い。
健太は味を確かめるように咀嚼した。
味が、薄い。
というより、自分の舌が鈍っている。
スマホの画面を開く。
通知は、ほとんどない。
大学時代のグループチャットは、誰かの結婚式の写真と、誰かの転職報告で止まっていた。
健太はその画面を眺めて、指を動かさずに閉じた。
自分の未来が、そこにはない気がした。
代わりに、広告が目に入った。
動画広告。
光の粒子が集まって、ゴーグル型のヘッドセットを形作る。
「世界初、フルダイブVRホラー」
「痛み、匂い、恐怖――あなたは本当に生き残れるか」
タイトルは、黒地に白い文字で、短く表示された。
『Terrorscape』。
健太の指が止まった。
心臓が、いつもより一拍だけ強く打った。
(ホラーは嫌いじゃない)
映画も、ゲーム実況も、嫌いじゃない。
けれどそれは、画面越しの安全圏から眺めるものだった。
なのに、その広告だけは、違う場所を叩いてきた。
暗い廊下。
揺れる蛍光灯。
遠くで、何かを引きずる音。
そして画面の中央で、プレイヤーの視点が走る。
息が上がる。
喉が乾く。
手が震える。
その描写が、演出だと分かっているのに、なぜか健太の身体が反応した。
背中の皮膚が粟立ち、指先が冷える。
(俺の身体が、先に怖がってる)
それが妙に気持ちよかった。
広告の最後に、短いコピーが出た。
「現実からログアウトするな」
皮肉みたいに見えた。
健太は、笑った。
笑ってしまった。
声は出なかったけれど、口角だけが少し上がった。
それは久しぶりの、自分で作った表情だった。
仕事が終わる頃には、空はもう夜だった。
雨は止んでいない。
帰り道、健太は駅前の大型ビジョンを見上げた。
そこにも、同じ広告が流れていた。
街の騒音の上に、合成音声が重なる。
「フルダイブ型VRホラー、『Terrorscape』。本日発売」
発売。
今日。
健太は、呼吸が浅くなるのを感じた。
いつもの帰り道を、少しだけ逸れた。
家電量販店の明るい入り口に吸い寄せられるように入る。
店内の匂いは、プラスチックと新しい布と、人の汗が混ざった匂いだった。
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