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零話:正しさの外側で
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春の朝は、空気がまだ冬の名残を引きずっている。
結城浩太は古い平屋の引き戸を静かに閉める。
木の擦れる音が小さく鳴って、家が生きているみたいに聞こえた。
玄関に置かれたスニーカーは、底が少しだけすり減っている。
買い替える理由はいくらでもあるのに、買い替えない理由のほうがもっと多い。
浩太は紐を結び直しながら、指先に残る洗剤の匂いを嗅いだ。
昨夜、母の芳子が洗濯をしてくれた匂いだ。
台所から、味噌汁の湯気と一緒に声が飛んでくる。
「浩太、朝ごはん、少しでも食べていきな」
「大丈夫。時間ない」
それが嘘じゃないのが、たぶんいちばん情けない。
家計はいつも計算機の中にある。
奨学金の返済の未来も、今月の食費も、母のため息も。
浩太はそれらを「現実」と呼ぶ癖がついていた。
現実って言えば、諦めが正当化できる気がするから。
自転車を引き出すと、サドルが夜露で湿っていた。
手のひらがひやりとして、眠気が少しだけ引く。
駅まで二十分。
電車を乗り継いで一時間。
大学は遠い。
遠いのに、遠いほど近づきたい理由がある。
(母さんに、楽をさせたい。)
(自分の人生くらい、自分でどうにかしたい。)
(それが、たぶん格好いいってことだろ。)
スポーツは苦手で、走るとすぐ息が上がる。
それなのに、浩太は毎日ペダルを踏む。
苦手でも続けられることがあるのが、せめてもの救いだった。
駅前の自販機で、いちばん安い缶コーヒーを買う。
甘いのに苦い。
舌に残る雑な甘さが、現実の味に似ている気がして嫌いじゃない。
それを握ったまま、浩太は改札へ向かった。
同じ朝。
朝霧美保は、広い部屋の真ん中で、鏡の前に立っていた。
カーテンの隙間から入る光は柔らかいのに、部屋の空気は硬い。
硬いのは家具のせいじゃない。
彼女の家の「正しさ」が、いつも空気を整えすぎるからだ。
メイクは薄い。
でも完璧。
髪は艶がある。
でも乱れない。
身長一七三センチの身体は、どこに立っても人の視線を集める。
それを「武器」だと言われるたび、美保は笑うしかなかった。
(武器じゃない。)
(私の体は、私のものなのに。)
スマホが震える。
画面に映るのは父の名前。
美保は一瞬で背筋が伸びた。
姿勢が変わるのは癖だ。
怖い時ほど、外側を整える癖。
「はい」
受話器越しの声は低く、端的で、命令に似ている。
「今日、取材がある。遅れるな」
「分かってる」
「分かっているなら、余計な行動も慎め」
美保の喉が一瞬だけ詰まる。
余計な行動。
その言葉には、いつも具体がない。
具体がないから、全部が該当する。
「……はい」
それだけ言って、通話が切れた。
切れたあとも、父の声の温度が部屋に残る。
美保は鏡の中の自分を見て、小さく息を吐いた。
吐いた息が、すぐ正しい形に吸い戻される気がした。
大学に着けば、笑顔を求められる。
キャンパスにいるだけで写真を撮られる。
ミス・キャンパス三年連続という肩書きは、称賛より先に拘束を連れてくる。
「期待されてるんだよ」
「すごいね」
「さすが」
その言葉の裏側に、いつも「裏切るな」が隠れている。
(息がしたい。)
(誰にも見られないところで。)
(誰にも期待されないところで。)
美保はバッグを持って玄関へ向かう。
広い廊下を歩く音が、ひとり分なのに反響する。
自分の足音が大きいほど、孤独が大きくなる気がして、歩幅を少しだけ早めた。
車のドアが閉まる音。
運転手の丁寧な挨拶。
窓の外の景色が、ガラス越しに流れていく。
街は動いているのに、自分だけが決められた軌道に乗っている。
それが安全で、それが牢屋だ。
同じ大学。
同じ朝。
でも二人の世界は、最初から交わっていない。
交わらないはずだった。
浩太は電車の中で、求人サイトのページを眺めていた。
大手。
安定。
福利厚生。
眩しすぎる単語が並んでいる。
そこに自分の名前を置く想像をすると、少しだけ笑ってしまう。
(俺が入れる場所じゃないだろ。)
(でも、入れたら――)
(母さんは、少し笑うかもしれない。)
◆◇◆
美保は車内で、取材の質問リストを頭の中で反復していた。
好きなタイプ。
将来の夢。
大学生活で頑張っていること。
どれも答えは用意できる。
用意できる答えほど、本音から遠い。
(好きなタイプ。)
(……私が好きって言っていい人って、誰。)
二人はまだ出会っていない。
でもそれぞれの胸の奥に、同じ形の空白がある。
「息ができる場所」が欲しいという空白。
「誰かの正しさ」から逃げたいという空白。
そしてその空白は、ある日の学食で、たった一度の衝突で埋まり始める。
ぶつかって汚れて、謝って、拭いてしまう。
正しさの外側にいる人の、不器用な優しさで。
その瞬間が来ることを、二人はまだ知らない。
知らないまま、春の午前は静かに進んでいく。
学食の湯気は今日も立ち上り、壁際の席は今日も空いている。
そこに座るべき誰かの影だけが、まだ見えないまま揺れていた。
結城浩太は古い平屋の引き戸を静かに閉める。
木の擦れる音が小さく鳴って、家が生きているみたいに聞こえた。
玄関に置かれたスニーカーは、底が少しだけすり減っている。
買い替える理由はいくらでもあるのに、買い替えない理由のほうがもっと多い。
浩太は紐を結び直しながら、指先に残る洗剤の匂いを嗅いだ。
昨夜、母の芳子が洗濯をしてくれた匂いだ。
台所から、味噌汁の湯気と一緒に声が飛んでくる。
「浩太、朝ごはん、少しでも食べていきな」
「大丈夫。時間ない」
それが嘘じゃないのが、たぶんいちばん情けない。
家計はいつも計算機の中にある。
奨学金の返済の未来も、今月の食費も、母のため息も。
浩太はそれらを「現実」と呼ぶ癖がついていた。
現実って言えば、諦めが正当化できる気がするから。
自転車を引き出すと、サドルが夜露で湿っていた。
手のひらがひやりとして、眠気が少しだけ引く。
駅まで二十分。
電車を乗り継いで一時間。
大学は遠い。
遠いのに、遠いほど近づきたい理由がある。
(母さんに、楽をさせたい。)
(自分の人生くらい、自分でどうにかしたい。)
(それが、たぶん格好いいってことだろ。)
スポーツは苦手で、走るとすぐ息が上がる。
それなのに、浩太は毎日ペダルを踏む。
苦手でも続けられることがあるのが、せめてもの救いだった。
駅前の自販機で、いちばん安い缶コーヒーを買う。
甘いのに苦い。
舌に残る雑な甘さが、現実の味に似ている気がして嫌いじゃない。
それを握ったまま、浩太は改札へ向かった。
同じ朝。
朝霧美保は、広い部屋の真ん中で、鏡の前に立っていた。
カーテンの隙間から入る光は柔らかいのに、部屋の空気は硬い。
硬いのは家具のせいじゃない。
彼女の家の「正しさ」が、いつも空気を整えすぎるからだ。
メイクは薄い。
でも完璧。
髪は艶がある。
でも乱れない。
身長一七三センチの身体は、どこに立っても人の視線を集める。
それを「武器」だと言われるたび、美保は笑うしかなかった。
(武器じゃない。)
(私の体は、私のものなのに。)
スマホが震える。
画面に映るのは父の名前。
美保は一瞬で背筋が伸びた。
姿勢が変わるのは癖だ。
怖い時ほど、外側を整える癖。
「はい」
受話器越しの声は低く、端的で、命令に似ている。
「今日、取材がある。遅れるな」
「分かってる」
「分かっているなら、余計な行動も慎め」
美保の喉が一瞬だけ詰まる。
余計な行動。
その言葉には、いつも具体がない。
具体がないから、全部が該当する。
「……はい」
それだけ言って、通話が切れた。
切れたあとも、父の声の温度が部屋に残る。
美保は鏡の中の自分を見て、小さく息を吐いた。
吐いた息が、すぐ正しい形に吸い戻される気がした。
大学に着けば、笑顔を求められる。
キャンパスにいるだけで写真を撮られる。
ミス・キャンパス三年連続という肩書きは、称賛より先に拘束を連れてくる。
「期待されてるんだよ」
「すごいね」
「さすが」
その言葉の裏側に、いつも「裏切るな」が隠れている。
(息がしたい。)
(誰にも見られないところで。)
(誰にも期待されないところで。)
美保はバッグを持って玄関へ向かう。
広い廊下を歩く音が、ひとり分なのに反響する。
自分の足音が大きいほど、孤独が大きくなる気がして、歩幅を少しだけ早めた。
車のドアが閉まる音。
運転手の丁寧な挨拶。
窓の外の景色が、ガラス越しに流れていく。
街は動いているのに、自分だけが決められた軌道に乗っている。
それが安全で、それが牢屋だ。
同じ大学。
同じ朝。
でも二人の世界は、最初から交わっていない。
交わらないはずだった。
浩太は電車の中で、求人サイトのページを眺めていた。
大手。
安定。
福利厚生。
眩しすぎる単語が並んでいる。
そこに自分の名前を置く想像をすると、少しだけ笑ってしまう。
(俺が入れる場所じゃないだろ。)
(でも、入れたら――)
(母さんは、少し笑うかもしれない。)
◆◇◆
美保は車内で、取材の質問リストを頭の中で反復していた。
好きなタイプ。
将来の夢。
大学生活で頑張っていること。
どれも答えは用意できる。
用意できる答えほど、本音から遠い。
(好きなタイプ。)
(……私が好きって言っていい人って、誰。)
二人はまだ出会っていない。
でもそれぞれの胸の奥に、同じ形の空白がある。
「息ができる場所」が欲しいという空白。
「誰かの正しさ」から逃げたいという空白。
そしてその空白は、ある日の学食で、たった一度の衝突で埋まり始める。
ぶつかって汚れて、謝って、拭いてしまう。
正しさの外側にいる人の、不器用な優しさで。
その瞬間が来ることを、二人はまだ知らない。
知らないまま、春の午前は静かに進んでいく。
学食の湯気は今日も立ち上り、壁際の席は今日も空いている。
そこに座るべき誰かの影だけが、まだ見えないまま揺れていた。
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