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第9話:ジャスミンティーと彼岸の客人
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ティールーム「月影庵」の扉が、ゆっくりと開いたのは、深夜0時を少し過ぎたころだった。
その夜は、春と夏の境界のような、不思議な気配が漂っていた。
空には月が雲の向こうにぼんやり浮かび、風はどこか湿り気を帯びている。
そんな夜に、ジャスミンティーの香りはよく似合う。
「こんばんは」
「こんばんは、シズカさん」
喪服の女は、今夜も変わらぬ佇まいで店に現れる。
だがツキミは、ドアが開いた瞬間に気づいていた。
今夜の彼女は、少しだけ軽く見えた。
まるで、喪服の重みが和らいだかのように。あるいは、役目を終えた者のように。
「今夜は……ジャスミンティーをお願い」
「かしこまりました」
ツキミは棚の奥から、細長い缶を取り出す。
香り高い中国茶に、白いジャスミンの花が丁寧に混ぜられた一品。
それを熱湯で丁寧に抽出すると、店内にふわりと甘く青い香りが立ちのぼる。
「この香り……懐かしいですね。
春の終わりに、彼女がよく淹れてくれました」
ツキミの「彼女」とは、もちろん──かつてここにいた「御影 静」のことだ。
「ええ。ジャスミンには、過去と現在をつなぐ力があるの。
どこか他所の国の香りなのに、思い出に触れるたび、帰ってこられるような……そんな茶葉」
カップに注がれたジャスミンティーの色は、まるで白い光を透かしたように澄んでいた。
カウンターに並んで座るふたりの影も、どこか淡く見える。
「ツキミさん──今日は、最後の“死”を語りにきたの」
シズカはそう言って、いつものように紅茶を飲まずに話し始めた。
「ひとりの女がいた。
彼女は、もう誰からも必要とされていないと思っていた。
死んでも誰にも気づかれない、そんな存在だと。
けれど、彼女は“死ねなかった”。なぜなら、“誰かを守りたい”という想いが、彼女の死を拒んだから──」
ツキミは、それがシズカ自身の話だとすぐに理解した。
「……静さん、あなたは本当は、あの火事で死ぬはずだったんですね」
「そうよ。私は、自分の死を仕立てて、“この世から退場した”の。
それが正しいと思ってた。私が生きていたら、きっと大切な人を巻き込んでしまうから。
でもね、死んでから気づいたの。
本当に大切な人は、“私がいなくなることで苦しむ”んだって」
ツキミは目を伏せた。
七年前──彼女は静の死を知ったとき、ただ泣くことしかできなかった。
それでも、このティールームだけは残した。
それが、彼女の死を否定する唯一の手段だったから。
「静さん。じゃあ、どうして今まで……何も言わなかったんですか。
どうして“語り手”として、こんなふうに現れ続けたんですか」
「だって私は、“もう人間じゃない”と思っていたからよ。
生きていながら死んだ者──そんな矛盾を抱えた存在が、どうやって人と関われると思う?」
シズカは、初めて自分の正体を“認めた”。
──御影 静は、死を装って姿を消し、
夜になると「死者の語り手」として月影庵に現れていた。
「でもね……あなたと過ごすうちに思ったの。
もしかして私は、まだこの世界に“必要とされている”のかもしれないって。
紅茶を通して、誰かの“死”を語ることで、私自身が“生き直せる”のかもしれないって」
ツキミは、小さく、深く頷いた。
「あなたの語る死は、誰かを救ってきました。
私も……ユキナも、カナメさんも。
だから今度は、あなたが“生きている”ことを、誰かが語ってあげなきゃいけない」
「……そう、ね。
じゃあ──ツキミさん。私のこと、語ってくれる?」
その問いに、ツキミは躊躇わず、こう答えた。
「ええ。私は“語る人”になります。
喪服じゃなくて、エプロンをして。紅茶の香りと、あなたの話を添えて」
シズカの表情が、ほんの少しだけ崩れた。
──笑ったのだ。
それは、これまでの微笑みとは違う。
“人間らしい、あたたかい笑み”だった。
「……じゃあ、そろそろ行くわね」
「行く? どこへ?」
「彼岸よ。
ここに来る“最後の客”として。
でも……また戻ってこられる気がする。
今度は、喪服じゃなくて、花柄のワンピースで」
その瞬間、外の風鈴が――本来は付いていないはずの風鈴が――静かに鳴った。
ツキミは、シズカの後ろ姿を見送りながら、
心の中で、静かにこう告げた。
「また、いつか、紅茶を淹れさせてください」
扉が閉じる。
風が止む。
店の中に、ジャスミンの香りだけが残る。
それは、まるで誰かが「ありがとう」と言っているようだった。
***
ツキミは、その晩、カウンターのノートにこう記した。
---
御影 静
死者のふりをして、死者を救った人。
香りの奥に、やさしさを隠していた人。
今夜、彼岸へと帰っていった。
---
その字は、涙で少しにじんでいた。
月影庵。
語られなかった死が、語られる場所。
そして、死を語ることで、生を取り戻す場所。
誰も知らない路地裏のその場所で、
新たな“語り部”が、今、紅茶を淹れている。
その夜は、春と夏の境界のような、不思議な気配が漂っていた。
空には月が雲の向こうにぼんやり浮かび、風はどこか湿り気を帯びている。
そんな夜に、ジャスミンティーの香りはよく似合う。
「こんばんは」
「こんばんは、シズカさん」
喪服の女は、今夜も変わらぬ佇まいで店に現れる。
だがツキミは、ドアが開いた瞬間に気づいていた。
今夜の彼女は、少しだけ軽く見えた。
まるで、喪服の重みが和らいだかのように。あるいは、役目を終えた者のように。
「今夜は……ジャスミンティーをお願い」
「かしこまりました」
ツキミは棚の奥から、細長い缶を取り出す。
香り高い中国茶に、白いジャスミンの花が丁寧に混ぜられた一品。
それを熱湯で丁寧に抽出すると、店内にふわりと甘く青い香りが立ちのぼる。
「この香り……懐かしいですね。
春の終わりに、彼女がよく淹れてくれました」
ツキミの「彼女」とは、もちろん──かつてここにいた「御影 静」のことだ。
「ええ。ジャスミンには、過去と現在をつなぐ力があるの。
どこか他所の国の香りなのに、思い出に触れるたび、帰ってこられるような……そんな茶葉」
カップに注がれたジャスミンティーの色は、まるで白い光を透かしたように澄んでいた。
カウンターに並んで座るふたりの影も、どこか淡く見える。
「ツキミさん──今日は、最後の“死”を語りにきたの」
シズカはそう言って、いつものように紅茶を飲まずに話し始めた。
「ひとりの女がいた。
彼女は、もう誰からも必要とされていないと思っていた。
死んでも誰にも気づかれない、そんな存在だと。
けれど、彼女は“死ねなかった”。なぜなら、“誰かを守りたい”という想いが、彼女の死を拒んだから──」
ツキミは、それがシズカ自身の話だとすぐに理解した。
「……静さん、あなたは本当は、あの火事で死ぬはずだったんですね」
「そうよ。私は、自分の死を仕立てて、“この世から退場した”の。
それが正しいと思ってた。私が生きていたら、きっと大切な人を巻き込んでしまうから。
でもね、死んでから気づいたの。
本当に大切な人は、“私がいなくなることで苦しむ”んだって」
ツキミは目を伏せた。
七年前──彼女は静の死を知ったとき、ただ泣くことしかできなかった。
それでも、このティールームだけは残した。
それが、彼女の死を否定する唯一の手段だったから。
「静さん。じゃあ、どうして今まで……何も言わなかったんですか。
どうして“語り手”として、こんなふうに現れ続けたんですか」
「だって私は、“もう人間じゃない”と思っていたからよ。
生きていながら死んだ者──そんな矛盾を抱えた存在が、どうやって人と関われると思う?」
シズカは、初めて自分の正体を“認めた”。
──御影 静は、死を装って姿を消し、
夜になると「死者の語り手」として月影庵に現れていた。
「でもね……あなたと過ごすうちに思ったの。
もしかして私は、まだこの世界に“必要とされている”のかもしれないって。
紅茶を通して、誰かの“死”を語ることで、私自身が“生き直せる”のかもしれないって」
ツキミは、小さく、深く頷いた。
「あなたの語る死は、誰かを救ってきました。
私も……ユキナも、カナメさんも。
だから今度は、あなたが“生きている”ことを、誰かが語ってあげなきゃいけない」
「……そう、ね。
じゃあ──ツキミさん。私のこと、語ってくれる?」
その問いに、ツキミは躊躇わず、こう答えた。
「ええ。私は“語る人”になります。
喪服じゃなくて、エプロンをして。紅茶の香りと、あなたの話を添えて」
シズカの表情が、ほんの少しだけ崩れた。
──笑ったのだ。
それは、これまでの微笑みとは違う。
“人間らしい、あたたかい笑み”だった。
「……じゃあ、そろそろ行くわね」
「行く? どこへ?」
「彼岸よ。
ここに来る“最後の客”として。
でも……また戻ってこられる気がする。
今度は、喪服じゃなくて、花柄のワンピースで」
その瞬間、外の風鈴が――本来は付いていないはずの風鈴が――静かに鳴った。
ツキミは、シズカの後ろ姿を見送りながら、
心の中で、静かにこう告げた。
「また、いつか、紅茶を淹れさせてください」
扉が閉じる。
風が止む。
店の中に、ジャスミンの香りだけが残る。
それは、まるで誰かが「ありがとう」と言っているようだった。
***
ツキミは、その晩、カウンターのノートにこう記した。
---
御影 静
死者のふりをして、死者を救った人。
香りの奥に、やさしさを隠していた人。
今夜、彼岸へと帰っていった。
---
その字は、涙で少しにじんでいた。
月影庵。
語られなかった死が、語られる場所。
そして、死を語ることで、生を取り戻す場所。
誰も知らない路地裏のその場所で、
新たな“語り部”が、今、紅茶を淹れている。
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