喪服の女と深夜のティールーム

naomikoryo

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第8話:アールグレイと月影庵の秘密

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静かな雨が降っていた。

 霧のような細い雨。濡れるよりも、染み入るような雨。
 そんな夜、月影庵の外壁はしっとりと濡れ、看板のない店の存在が、まるで「夢の中の家」のように曖昧に浮かび上がっていた。

 深夜0時。
 扉の鈴が、ひときわ高く、鋭く鳴る。

 「こんばんは」

 喪服の女──シズカが現れる。

 だが今夜は違っていた。

 ツキミの前に立ったシズカの姿には、違和感があった。
 喪服はいつもの通りだが、手に一冊の古いノートを抱えていたのだ。

 「……今夜は、紅茶より先に、話を聞いてほしいの」

 ツキミは頷き、店内の灯りを少しだけ落とす。
 蝋燭のような光の中、シズカはそのノートを静かにカウンターに置いた。

 

 「この店、月影庵は──かつて、死者たちの“最期の言葉”を記録していた場所なの」

 その一言に、ツキミは手を止める。

 「記録……?」

 「ええ。このノートは、その記録のひとつ。
 もともとこの店は、緩和ケアを終えた人たちが“最後に紅茶を飲む”ために訪れる場所だった。
 彼らの“死に際の言葉”を、店主が紅茶の香りに乗せて書き留めていた」

 ツキミはノートを開く。
 そこには、手書きの文字でびっしりと書かれた短い言葉たちが並んでいた。

 ──「海のにおいがした」
 ──「父さんに会えると思う」
 ──「苦いけど、いい香り」

 どれも、名前も日付もない。
 ただ、最後に一行ずつ綴られた、息のような言葉たち。

 

 「……誰が、書いたんですか? このノート」

 「“前の店主”よ」

 「前の……?」

 シズカは微笑んだ。その笑みには、どこか痛みのようなものが滲んでいた。

 「実はね、私もこの店の“元客”だったの。
 七年前、私はこのティールームで、自分の“死に方”を決めた。
 ──でも、決めたはずの死を、生き延びてしまったのよ」

 「火事の夜……」

 「そう。その時、私はすでに“死んだ”つもりで、名前を捨てていた。
 それでも、焼け残ったこのノートだけは持ち出してしまった。
 今思えば、それが私の“未練”だったのかもしれない」

 

 ツキミは息を呑んだ。
 この店に宿る“死者の記録”──それが、シズカを現在につなぎとめていた。

 

 「そして、もう一つ。
 この店には、あなた自身の“記録”もあるのよ」

 シズカは、ノートの奥のページを一枚めくる。

 そこに、ひとことだけ──小さな文字でこう書かれていた。

 「ツキミ 紅茶の香りのなかで泣いていた」

 日付は、七年前の火事の翌日。

 「……これは」

 「“前の店主”が書いたもの。
 あなたがここに初めて来た日、泣きながら紅茶を淹れていた日」

 

 ツキミの中に、記憶が押し寄せる。

 あの日、火災現場の前に立ち尽くし、何もできなかった自分。
 たまたま見つけたこの店の灯りに惹かれ、ふらりと入り、出された紅茶にただただ泣いた。
 それが、彼女と紅茶と月影庵の、すべての始まりだった。

 

 「……前の店主は、どこへ?」

 「亡くなったわ。数年前に。
 だから、私が“代わり”にここへ来るようになったの。
 語られなかった死を、香りに変えるために」

 

 ツキミは、震える指でノートのページをなぞる。

 そして、ぽつりと呟いた。

 「私……店主じゃないんです。まだ本当は“店を引き継いでない”。
 いつか前の店主が戻ってくると思って、看板も出さなかった。
 でも……もう、いないんですね」

 

 シズカはゆっくりと立ち上がり、カウンターの中へと入ってくる。

 そして、棚から一缶のアールグレイを取り出し、ツキミに手渡した。

 「これが、あの人が最後に私に淹れてくれた紅茶。
 あなたがこの店を続けるなら、このアールグレイから始めて」

 

 ツキミは缶を抱きしめるようにして、深く頷いた。

 「──はい。今度こそ、引き継ぎます。
 香りを、死を、そして、誰かの言葉を。
 この店で、それを“生かし直す”仕事を、私がします」

 

***

 

 その夜、月影庵に灯る明かりは、どこか凛としていた。

 シズカは、ツキミの淹れたアールグレイをゆっくりと口にする。

 「少し渋い。でも、香りは豊か」

 「まだまだですね。でも、覚えておきます。この香りを、次に誰かに届けるときのために」

 ふたりは静かに笑った。

 そして、今宵もまた、誰かの“死”が紅茶の香りに溶けていった。
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