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第81話『不穏なる影』【陰謀と真実の序曲編①】
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朝の鐘が三つ、尖塔の間をころがるように鳴り渡った。
クロス組の教室は今日も朝から騒がしい。
ゴルムが「おはようやで!」と渾身の関西イントネーションで叫び、双子のキルとカルが左右から「せやな!」とハモる。
メリルは机の引き出しをそっと開けて、アメちゃんを祈るように一粒つまみ上げた。
「メリル。朝っぱらから糖で走ったら、二限目でガス欠やぞ。」
教卓の前でカイが腕を組んで言う。
「ちゃんとパンも食え。パン。あと水や。」
「はい、先生。アメちゃんは“学術的支援物資”として……。」
「物資言うな。補給や。」
ルーティアは窓をぴしゃりと閉め、ふっと顎を上げた。
「今日も旦那様の授業、きりっと参りますわ。新入生たち、居眠りしたら成敗よ。」
「誰が成敗されるのか怖くて寝られへんやろそれ。」
カイが苦笑した瞬間、リリシアが静かに手を挙げた。
「先生。……今朝から、誰かに見られている気がします。」
「ふむ。」
カイは目を細め、黒板のチョークを一本、指でころりと転がした。
「数字で言うと、どれくらいや。」
「七割くらい。本能の警鐘が鳴っている感じです。」
「本能の精度としては高いな。」
教室の空気が、少しだけ引き締まる。
護衛団の影走りツエルがすでに腰を浮かせ、幻術のカサは眼鏡の縁に指を添えて、透明になる準備をはじめている。
けれどルーティアは、すっとリリシアの横に立って言った。
「なら、今日は私が隣を歩くわ。」
「……ありがとう。」
返すリリシアの声は落ち着いている。けれど、その紫紺の瞳の奥で小さな波が立っていた。
(やっぱり“視線”の匂いがする。誰かが、こちらを測っている。)
◆◇◆
同じ時刻、はるか深い闇の底。
黒曜の塔のさらに下、封じられた地下の間に、灯りはない。
しかし、声はあった。
「予定どおりに進めろ。」
暗闇から声だけが響き、周囲の影が粛然と頭を垂れる。
「姫は今、弱い器の中にある。」
「はい、“人の姿”の制約下に。」
「人の法で身を包む者ほど、異界の刃にはよく絡まる。――捕獲は容易い。」
別の影が畏れと興奮を混ぜた舌で続ける。
「魔王は娘に甘い。誘えば必ず来る。人間どもは迎え撃つ。混乱は広がり、双方は疲弊。」
「その果てに、我らが手で双方を屠る。」
くぐもった笑いが重なり、石の天井に滴るように消えた。
声の主は姿を見せない。
けれど、その言葉は氷のように冷たく、刃のように鋭かった。
「忘れるな。狩りの極意は“待つこと”だ。焦るな。測れ。裂け目を見つけ、最も静かな一手で引き裂け。」
影たちは一斉に散った。
音もなく。匂いもなく。けれど確かに、人の国へ向かって。
◆◇◆
午前の講義は、境界を丸める演習。
カイは黒板に円と直線を描き、式を走らせた。
「ええか。“強い力をぶつける”んやなく、“角を撫でる”んや。ぶつかったら割れる。撫でたら音が鳴る。」
「先生、音?」
リリシアが首を傾げる。
「歌う、やな。」
「……好きです。」
短く、しかし熱のある返答に、ルーティアがぴくりと眉を動かす。
「式のことよ。」
「分かってますわ。」
ふたりの距離が一瞬だけ近づき、また離れた。
その時。
廊下の彼方で、かすかな靴音。
カサが無言で指を弾き、教室の前に薄い幻膜を張る。
ツエルは窓枠にしゃがみ、猫のように気配を消した。
ゴルムは……そっとアメちゃんの袋を机にしまい、両手を空にした。
「先生、外。」
「見えてる。」
カイはチョークの白粉を指で払うと、のんびりと扉を開けた。
廊下にいたのは、配達係の生徒――に紛れ込んだ、よくできた“人形”。
目が笑っているのに、焦点がない。
腕に抱えた巻物から、微細な毒針の気配が立っていた。
「ふーん。」
カイは笑い、巻物に指先で一字書き加える。
x→0。係数はゼロ。
ぱきん、と乾いた音。毒針の射出式がほどけ、ただの紙紐が足元に落ちた。
「授業の邪魔はアカンで。」
大阪訛りの柔い声。
しかし言葉の背骨は、鋼鉄のようにまっすぐだった。
人形の瞳から光が抜け、どさりと倒れる。
廊下の隅に潜んでいた影が舌打ちし、霧のように散った。
教室の空気が低く震える。
リリシアの胸に小さな棘が刺さるような感覚。
(やっぱり来た。まだ挨拶に過ぎない。けれど、本当の牙は……これから。)
◆◇◆
昼休み。
食堂は今日も大盛況だ。
護衛団は皿を片手に大移動し、メリルは「全品毒味!」と怪気炎を上げ、ゴルムは「うまい! いや、うまい言うても“具体”が必要や! 表面カリッ、中ふわっ、塩みカドなし、後味すっきり! なんでやねん!」と実況している。
「実況の最後に“なんでやねん”つける癖、直そか。」
カイが苦笑しつつ、スープに胡椒をひと振り。
ふと目線を上げると、入り口の向こうに視線。
こちらを見る無関係の誰か――ではない。
“測っている目”だ。
カイは器を置いた。
「ルーティア、リリシア。食ったらすぐ戻るで。」
「了解しましたわ。」
リリシアは黙って頷く。
護衛団はそれぞれ、自分の席でものの置き方を変えた。
ツエルは背を、キルとカルは肘を。カサは眼鏡の角度を。ゴルムは……アメちゃんを奥に。
こういう静かな“陣”は、クロス組がこの数ヶ月で自然に身につけてしまった癖だった。
見えない敵に、見える形で応じない。
でも、どこからでも跳べるように。
◆◇◆
夕刻。
学園の外縁、街へ降りる坂道。
リリシアはルーティアと並んで歩いていた。
護衛は距離を取って散開。
カイは少し後ろ、石段の影を踏む歩幅で付いてくる。
風が、いつもより冷たい。
石垣の上、瓦屋根の陰。
視線が、重なる。
「出てきなさい。」
リリシアが立ち止まり、声を放る。
静寂。
次の瞬間、屋根の縁が波打ち、仮面の男が二人、石畳に舞い降りた。
動きは軽く、足袋の音はほとんどしない。
背後、路地の影にも二つ。
合計四。最小の牙。
「姫を、お連れ願いたい。」
仮面越しの声は、礼儀を装っている。
だが、刃を隠しきれていない。
「断る。」
ルーティアの剣が、鞘走りの音ひとつで出る。
紅の刃が夕陽を受け、薔薇の花を一輪、空に咲かせた。
「交渉は短い方がよい。」
仮面が合図し、四つの影がはじけた。
が――その前に、カイの前で空気が“丸く”なる。
見えない輪が広がり、刃の角が、力の角が、ことごとく撫で落とされる。
「先生の“面”……。」
リリシアの頬に、初めて安心の色が差した。
足元では、ツエルが影へ影へと走り、背後ではカサの幻膜が路地の開口を別の方向に滑らせる。
双子は左右から同時に刃を立て、メリルは敵の袖に“むずむず粉”をはたいた。
そしてゴルムは――前に、ただ立った。
巨大な盾のように。
石壁のように。
「通行止めやで。」
灰色の瞳が真っ直ぐ仮面を射抜き、低く言う。
「アカン。」
仮面の男たちは、短期決戦が崩れたことを悟ったのだろう。
さっと後ろへ跳び、屋根へ消える。
追う足場は、カサの幻で“見かけの高さ”が変えられている。
転げ落ちる影、舌打ち、足音が遠のく。
静けさが戻った。
ルーティアは剣を納め、息を整え、鼻で笑う。
「やれやれ。挨拶にしては礼がなってませんわ。」
「ありがとう。」
リリシアが言う。
それ以上言葉を足さないかわりに、目だけで礼を述べた。
カイは肩を回し、空を見上げた。
群青に染まりかけた西の空。
尖塔の先に、最初の星が灯りかけている。
(表の尖兵がこれや。裏の“声”は、もっと冷たい。)
(焦らん。こっちも、角を撫でていこ。)
◆◇◆
夜。
魔界の地下。
闇の間に、また声が落ちた。
「最初の牙は折れたか。」
「はい。相手は整っていた。特に“面”が厄介。」
「教師か。」
「はい。」
「古代魔術の匂いがする。」
短い沈黙ののち、声は低く笑った。
「良い。ならば次は式を壊せ。
境界を丸めるなら、こちらは“角を増やす”。
選ぶ場所は、学園の外だ。法の薄いところ。」
「了解。」
影が膝を折り、闇に溶けた。
「待て。」
声が、最後にひとつ付け加える。
「娘を傷つけるな。餌は新鮮でなければ、王は動かぬ。」
闇の底で、誰かの笑いが小さく震えた。
底冷えのする、いやに楽しげな笑いだった。
◆◇◆
その頃、学園の寮。
リリシアは机に向かって筆を取る。
書く言葉は、毎週送る“ふつう”の報告。
けれど、最後の行に小さく一文を加えた。
『パパ。葡萄は甘い。
けれど、風の匂いが少し変わりました。』
窓辺に魔伝書鳩が降り、静かに飛んでいく。
ルーティアがドアをノックして顔を覗かせた。
「様子は?」
「大丈夫。私は、ここにいます。」
「当たり前ですわ。」
ツンとしながら、ルーティアは小さな包みを差し出す。
「アメちゃん。……先生から預かったの。」
「ありがとう。」
包みを開けると、色とりどりの丸い光がこぼれた。
甘い匂いが、夜に溶ける。
リリシアはひとつ口に入れ、目を閉じた。
明日の朝も、黒板の前に座る。
それだけで、今は十分だった。
(でも、来る。たぶんすぐ。だから――)
(負けない。)
窓の外で、遠く小さな星が瞬いた。
不穏なる影が音もなく伸びていることを、まだ街の誰も知らないままに。
クロス組の教室は今日も朝から騒がしい。
ゴルムが「おはようやで!」と渾身の関西イントネーションで叫び、双子のキルとカルが左右から「せやな!」とハモる。
メリルは机の引き出しをそっと開けて、アメちゃんを祈るように一粒つまみ上げた。
「メリル。朝っぱらから糖で走ったら、二限目でガス欠やぞ。」
教卓の前でカイが腕を組んで言う。
「ちゃんとパンも食え。パン。あと水や。」
「はい、先生。アメちゃんは“学術的支援物資”として……。」
「物資言うな。補給や。」
ルーティアは窓をぴしゃりと閉め、ふっと顎を上げた。
「今日も旦那様の授業、きりっと参りますわ。新入生たち、居眠りしたら成敗よ。」
「誰が成敗されるのか怖くて寝られへんやろそれ。」
カイが苦笑した瞬間、リリシアが静かに手を挙げた。
「先生。……今朝から、誰かに見られている気がします。」
「ふむ。」
カイは目を細め、黒板のチョークを一本、指でころりと転がした。
「数字で言うと、どれくらいや。」
「七割くらい。本能の警鐘が鳴っている感じです。」
「本能の精度としては高いな。」
教室の空気が、少しだけ引き締まる。
護衛団の影走りツエルがすでに腰を浮かせ、幻術のカサは眼鏡の縁に指を添えて、透明になる準備をはじめている。
けれどルーティアは、すっとリリシアの横に立って言った。
「なら、今日は私が隣を歩くわ。」
「……ありがとう。」
返すリリシアの声は落ち着いている。けれど、その紫紺の瞳の奥で小さな波が立っていた。
(やっぱり“視線”の匂いがする。誰かが、こちらを測っている。)
◆◇◆
同じ時刻、はるか深い闇の底。
黒曜の塔のさらに下、封じられた地下の間に、灯りはない。
しかし、声はあった。
「予定どおりに進めろ。」
暗闇から声だけが響き、周囲の影が粛然と頭を垂れる。
「姫は今、弱い器の中にある。」
「はい、“人の姿”の制約下に。」
「人の法で身を包む者ほど、異界の刃にはよく絡まる。――捕獲は容易い。」
別の影が畏れと興奮を混ぜた舌で続ける。
「魔王は娘に甘い。誘えば必ず来る。人間どもは迎え撃つ。混乱は広がり、双方は疲弊。」
「その果てに、我らが手で双方を屠る。」
くぐもった笑いが重なり、石の天井に滴るように消えた。
声の主は姿を見せない。
けれど、その言葉は氷のように冷たく、刃のように鋭かった。
「忘れるな。狩りの極意は“待つこと”だ。焦るな。測れ。裂け目を見つけ、最も静かな一手で引き裂け。」
影たちは一斉に散った。
音もなく。匂いもなく。けれど確かに、人の国へ向かって。
◆◇◆
午前の講義は、境界を丸める演習。
カイは黒板に円と直線を描き、式を走らせた。
「ええか。“強い力をぶつける”んやなく、“角を撫でる”んや。ぶつかったら割れる。撫でたら音が鳴る。」
「先生、音?」
リリシアが首を傾げる。
「歌う、やな。」
「……好きです。」
短く、しかし熱のある返答に、ルーティアがぴくりと眉を動かす。
「式のことよ。」
「分かってますわ。」
ふたりの距離が一瞬だけ近づき、また離れた。
その時。
廊下の彼方で、かすかな靴音。
カサが無言で指を弾き、教室の前に薄い幻膜を張る。
ツエルは窓枠にしゃがみ、猫のように気配を消した。
ゴルムは……そっとアメちゃんの袋を机にしまい、両手を空にした。
「先生、外。」
「見えてる。」
カイはチョークの白粉を指で払うと、のんびりと扉を開けた。
廊下にいたのは、配達係の生徒――に紛れ込んだ、よくできた“人形”。
目が笑っているのに、焦点がない。
腕に抱えた巻物から、微細な毒針の気配が立っていた。
「ふーん。」
カイは笑い、巻物に指先で一字書き加える。
x→0。係数はゼロ。
ぱきん、と乾いた音。毒針の射出式がほどけ、ただの紙紐が足元に落ちた。
「授業の邪魔はアカンで。」
大阪訛りの柔い声。
しかし言葉の背骨は、鋼鉄のようにまっすぐだった。
人形の瞳から光が抜け、どさりと倒れる。
廊下の隅に潜んでいた影が舌打ちし、霧のように散った。
教室の空気が低く震える。
リリシアの胸に小さな棘が刺さるような感覚。
(やっぱり来た。まだ挨拶に過ぎない。けれど、本当の牙は……これから。)
◆◇◆
昼休み。
食堂は今日も大盛況だ。
護衛団は皿を片手に大移動し、メリルは「全品毒味!」と怪気炎を上げ、ゴルムは「うまい! いや、うまい言うても“具体”が必要や! 表面カリッ、中ふわっ、塩みカドなし、後味すっきり! なんでやねん!」と実況している。
「実況の最後に“なんでやねん”つける癖、直そか。」
カイが苦笑しつつ、スープに胡椒をひと振り。
ふと目線を上げると、入り口の向こうに視線。
こちらを見る無関係の誰か――ではない。
“測っている目”だ。
カイは器を置いた。
「ルーティア、リリシア。食ったらすぐ戻るで。」
「了解しましたわ。」
リリシアは黙って頷く。
護衛団はそれぞれ、自分の席でものの置き方を変えた。
ツエルは背を、キルとカルは肘を。カサは眼鏡の角度を。ゴルムは……アメちゃんを奥に。
こういう静かな“陣”は、クロス組がこの数ヶ月で自然に身につけてしまった癖だった。
見えない敵に、見える形で応じない。
でも、どこからでも跳べるように。
◆◇◆
夕刻。
学園の外縁、街へ降りる坂道。
リリシアはルーティアと並んで歩いていた。
護衛は距離を取って散開。
カイは少し後ろ、石段の影を踏む歩幅で付いてくる。
風が、いつもより冷たい。
石垣の上、瓦屋根の陰。
視線が、重なる。
「出てきなさい。」
リリシアが立ち止まり、声を放る。
静寂。
次の瞬間、屋根の縁が波打ち、仮面の男が二人、石畳に舞い降りた。
動きは軽く、足袋の音はほとんどしない。
背後、路地の影にも二つ。
合計四。最小の牙。
「姫を、お連れ願いたい。」
仮面越しの声は、礼儀を装っている。
だが、刃を隠しきれていない。
「断る。」
ルーティアの剣が、鞘走りの音ひとつで出る。
紅の刃が夕陽を受け、薔薇の花を一輪、空に咲かせた。
「交渉は短い方がよい。」
仮面が合図し、四つの影がはじけた。
が――その前に、カイの前で空気が“丸く”なる。
見えない輪が広がり、刃の角が、力の角が、ことごとく撫で落とされる。
「先生の“面”……。」
リリシアの頬に、初めて安心の色が差した。
足元では、ツエルが影へ影へと走り、背後ではカサの幻膜が路地の開口を別の方向に滑らせる。
双子は左右から同時に刃を立て、メリルは敵の袖に“むずむず粉”をはたいた。
そしてゴルムは――前に、ただ立った。
巨大な盾のように。
石壁のように。
「通行止めやで。」
灰色の瞳が真っ直ぐ仮面を射抜き、低く言う。
「アカン。」
仮面の男たちは、短期決戦が崩れたことを悟ったのだろう。
さっと後ろへ跳び、屋根へ消える。
追う足場は、カサの幻で“見かけの高さ”が変えられている。
転げ落ちる影、舌打ち、足音が遠のく。
静けさが戻った。
ルーティアは剣を納め、息を整え、鼻で笑う。
「やれやれ。挨拶にしては礼がなってませんわ。」
「ありがとう。」
リリシアが言う。
それ以上言葉を足さないかわりに、目だけで礼を述べた。
カイは肩を回し、空を見上げた。
群青に染まりかけた西の空。
尖塔の先に、最初の星が灯りかけている。
(表の尖兵がこれや。裏の“声”は、もっと冷たい。)
(焦らん。こっちも、角を撫でていこ。)
◆◇◆
夜。
魔界の地下。
闇の間に、また声が落ちた。
「最初の牙は折れたか。」
「はい。相手は整っていた。特に“面”が厄介。」
「教師か。」
「はい。」
「古代魔術の匂いがする。」
短い沈黙ののち、声は低く笑った。
「良い。ならば次は式を壊せ。
境界を丸めるなら、こちらは“角を増やす”。
選ぶ場所は、学園の外だ。法の薄いところ。」
「了解。」
影が膝を折り、闇に溶けた。
「待て。」
声が、最後にひとつ付け加える。
「娘を傷つけるな。餌は新鮮でなければ、王は動かぬ。」
闇の底で、誰かの笑いが小さく震えた。
底冷えのする、いやに楽しげな笑いだった。
◆◇◆
その頃、学園の寮。
リリシアは机に向かって筆を取る。
書く言葉は、毎週送る“ふつう”の報告。
けれど、最後の行に小さく一文を加えた。
『パパ。葡萄は甘い。
けれど、風の匂いが少し変わりました。』
窓辺に魔伝書鳩が降り、静かに飛んでいく。
ルーティアがドアをノックして顔を覗かせた。
「様子は?」
「大丈夫。私は、ここにいます。」
「当たり前ですわ。」
ツンとしながら、ルーティアは小さな包みを差し出す。
「アメちゃん。……先生から預かったの。」
「ありがとう。」
包みを開けると、色とりどりの丸い光がこぼれた。
甘い匂いが、夜に溶ける。
リリシアはひとつ口に入れ、目を閉じた。
明日の朝も、黒板の前に座る。
それだけで、今は十分だった。
(でも、来る。たぶんすぐ。だから――)
(負けない。)
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