離婚届を食べた日

naomikoryo

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第五話:破片を飲み込む夜

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夜の静けさというのは、時として鼓膜の奥を締め付けるように重い。

その日、篤志は自宅のリビングで、ひとり静かに立ち尽くしていた。手には、薄いA4サイズの紙束。彼が数ヶ月かけて練りに練った「共同の未来設計書」だった。

イヨと、再び少しずつ関係を結び直していく中で、無言のまま曖昧に進んでいく現状に、言葉を与えようとした結果だった。

内容は、二人の暮らしに関する具体的な構想だった。

二人で借り直す新しい部屋の候補(駅から近く、キッチンの広い物件)

互いのプライベートスペースを設けること

イヨの「食用日記スペース」を専用棚で確保

篤志の「保存レシピノート」の続刊を共同制作

篤志にしては珍しく、情熱的な文体で、ところどころに手描きのイラストまで添えられていた。キッチンの間取り図には、並んで立つ二人のスティックフィギュアまで描かれている。

「これで伝わるだろう。言葉じゃなくても、“生活”の形として」

彼は、イヨにそれを“見せる”ことで、ふたりの未来に対する本気度を示すつもりだった。

しかし、その紙束は——跡形もなく、消えた。

いや、“消された”のだった。

「ごめんなさい。でも、どうしても我慢できなかったの」

静かな夜。篤志の家にイヨが久しぶりに泊まった晩だった。

彼がシャワーを浴びているあいだに、イヨは設計書のすべてを「スープにした」。

冷蔵庫にあった野菜と一緒に、彼の想いを書き連ねた紙を刻み、塩味の効いた出汁で煮込んだ。

そしてそのスープを、全部、独りで飲み干したのだった。

「なぜ、よりによってそれを……?」

問いただす篤志に、イヨは苦笑すら浮かべず、淡々と答えた。

「書いてあること全部、読んだわ。確かに、嬉しかった。でも……あれは“未来の形”を押しつけられるようで、怖かったの」

「押しつけるつもりなんてなかった。話し合おうと思って——」

「“話し合うための資料”を、あなたはもう完成させていた。私の余白は、どこ?」

その瞬間、篤志は何かが胸の奥で“裂ける”音を聞いたような気がした。

黙っていたのが悪かった。黙りすぎて、ようやく出した“答え”がこれでは、伝えたい気持ちは届かない。

「だから……紙にして、食べたのか」

「うん。あなたの想いを、ちゃんと咀嚼したわ。でも……」

「でも?」

「刺さった。喉の奥に」

イヨはそう言って、自分の首元を軽く撫でた。

「たまにあるの。特定の紙だけ、飲み込めないことが。きっと“消化できない”感情が混ざってるんだと思う」

篤志は、もはや怒る気力もなかった。

ただ、どこか納得してしまう自分がいた。

「俺の想いは、“あなたにとって消化不良だった”ってことか」

「たぶんね。でも……胃まで届いたから、きっとそのうち消えるわ」

「忘れてもいいのか?」

「忘れるんじゃない。栄養にするの。ちょっと時間がかかるだけ」

その夜、二人は別々の部屋で寝た。

翌朝、篤志が目を覚ましたとき、イヨの姿はなかった。

テーブルの上には一通の手紙。いや、それは手紙ではなく、「食べかけの紙」だった。

真ん中が齧られて、端にだけいくつかの言葉が残っていた。

「飲み込めなかったものは、時間がかけて溶かす。
あなたの気持ちは、まだ喉元にある。
でも、嫌ではない。きっと、私は“飢えていた”。
だからもう少し、あなたの味に慣れてみたいと思ってる。」

そこには、イヨの唇の跡が、うっすらとスープの染みと一緒に残されていた。

その日から数日、篤志は「音のない生活」に逆戻りした。

だが、何かが違った。

空白ではなく、「余白」が生まれていた。

メールを送っても返事はなかったが、代わりに冷蔵庫には新しい紙スープの瓶が定期的に届くようになった。

瓶には短い手書きメモが貼ってある。

【バッチNo.1:反芻用】
内容:未来設計書スープ(再加熱可能)

【バッチNo.2:恋愛初期の過剰調味】
内容:酸っぱい会話のピクルス風味

【バッチNo.3:喉に刺さった設計書】
内容:苦み抜き済み・二人で再試食推奨

篤志はそれらを、ひとつずつ、時間をかけて飲んだ。

“紙の味”の中に、確かにイヨの気配があった。

そんなある夜、イヨから久しぶりに電話が来た。

「今、話せる?」

「話してるじゃないか、ずっと。スープで」

イヨがくすりと笑った。

「そろそろ、“声”でも味わってみたくなったの」

「じゃあ、俺の声も、食べるか?」

「それ、いいかもね」

「でもその場合、スープじゃなくて、ホットワインにしてくれ。俺の声、渋いってよく言われるし」

「それ、褒めてるの?」

「さあ? イヨにしか、味はわからないだろ」

電話越しの沈黙が、どこか柔らかい。

まるで、それ自体が一口のスープになって、身体の奥へと染み込んでいくようだった。

その夜、篤志は夢を見た。

夢の中で、イヨは巨大な鍋をかき混ぜていた。

中には無数の紙片が浮いていて、それがすべて二人の“失敗した会話”だった。

「ぜんぶ、溶かすつもり?」

と尋ねると、彼女は首を振った。

「これは、具なの。スープじゃなくて、シチューにする」

「……シチュー?」

「とろみがあるほうが、記憶が長持ちするのよ」

「なるほど。さすが、記憶料理のプロだな」

彼女はその鍋から、ひとすくいして篤志の口元に差し出した。

「はい、あーん」

目が覚めたとき、篤志の頬は濡れていた。

涙の味は、シチューとは違って、やっぱり少ししょっぱかった。
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