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最終話:五寸釘零子は、呪いを受け入れない
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春の風が吹いていた。
鵺乃杜神社の桜が、例年より早く満開を迎えていた。
静かな境内に、誰のものとも知れない願いの言葉が風に運ばれてくる。
零子は、縁側に腰を下ろし、白湯の入った湯呑を両手で包んでいた。
いつものように髪は下ろし、顔の半分以上が前髪で覆われている。
けれど、どこかその佇まいには、これまでとは違う落ち着きがあった。
境内の奥、封じたはずの呪詛の森が微かにざわついていた。
結界に亀裂はない。
けれど、誰かが中で呼吸をしているような気配があった。
それは、かつての影の残り香か。
あるいは、まだ消えていない“誰かの呪い”か。
――そんなとき。
鳥居をくぐって、ひとりの若い女性がやってきた。
見覚えがあった。
相良朱音。
あの春の日、初めて「呪い」を求めてきた依頼者だった。
彼女は、落ち着いた顔で社務所の縁側に立った。
「……こんにちは。お久しぶりです」
「おぉ~……生きてたぁ~……よかったぁ~」
零子は、いつものように間延びした声で返す。
朱音は微笑んだ。
「あなたに会いに来ました。今の私なら、ちゃんと、お礼が言えると思って」
「……呪い、打たなかったのね」
「はい。あのとき、あなたが言ってくれたこと……本当に、救いでした。
あのときの私は、“自分を呪うために誰かを選ぼうとしてた”だけでしたから」
静かな時間が流れる。
やがて、朱音が、ふと顔を曇らせた。
「でも……今の私は、“呪われても仕方ない側”になってるのかもしれません」
「どういうこと?」
「私……職場の後輩の恋人を、奪ってしまいました。
ずっと彼に片思いしていて、タイミングを待っていたけれど……彼女を裏切る形になった」
「ふぅん……その子、あなたのところに呪いを持って来た?」
「……来てません。でも、もし来たら、私は……私のことを、呪ってくれてもいいと思ってる」
零子は湯呑を置き、ゆっくりと髪を結い上げた。
顔が現れる。
静かで、冷たく、しかし透明な目が、朱音をまっすぐ見つめた。
「朱音さん。呪いってね、“自分のことをちゃんと見つめようとした人間”にだけ、効くの」
「……え?」
「本気で誰かを憎んだとき、人間は“鏡”を見せられる。
それが呪いの正体。あなたが自分の罪を見つめてる限り、その呪いは“誰かに渡す必要はない”」
「……」
「本当に恐ろしいのは、“呪われる理由があるのに、それに気づかず、罪悪感も持たない人”なの。
そういう人のところにこそ、私の仕事がある」
朱音は、何かに気づいたように目を見開いた。
「……だから呪いを“叶える”ことはあっても、“受け入れる”ことはしないんですね」
「うん。私は、呪いの“中継点”でいたいの。
憎しみを直接ぶつけるでもなく、消し去るでもなく。
ただ、“ここに置いていっていい”って伝えるために」
静かに、風が吹いた。
桜の花が舞い、二人の間にふわりと降りる。
そのとき、社務所の奥から巴が現れた。
白い装束ではなく、普通の和装だった。
彼女は静かに、零子に語りかけた。
「結界、少し弱ってるわ。あなたの中に溜め込んだ呪いが、多すぎるのよ」
「うん、わかってる。だから……“祓う”んじゃなくて、“返す”ことにしたの」
「……返す?」
「来たる者に、“私ではない道”を選ばせるの。
私が選べなかったものを、“他人”に選ばせる。それがきっと、結界を保つ鍵になる」
巴は目を伏せた。
「それは、残酷よ」
「ううん。優しいよ。だって私、“呪いの中で生きてる人間”の、最後の話し相手になれるんだから」
◆
夕暮れ。
呪詛の森には、また新たな影が入ってきた。
若い女性。
恋人に裏切られ、家庭に絶望し、呪詛を求めて来た者。
零子は、静かに髪を結った。
今日は、打つかもしれない。
でも、もし打たなかったとしても――それでもいい。
(私は、呪いを否定しない。
でも、私は、呪いを受け入れない。
それは、“誰かのために選べる人間”でいたいから)
五寸釘を手にした巫女が、ゆっくりと森に入っていく。
結界の中で、また一つ、“呪いと救いの物語”が始まる。
(了)
鵺乃杜神社の桜が、例年より早く満開を迎えていた。
静かな境内に、誰のものとも知れない願いの言葉が風に運ばれてくる。
零子は、縁側に腰を下ろし、白湯の入った湯呑を両手で包んでいた。
いつものように髪は下ろし、顔の半分以上が前髪で覆われている。
けれど、どこかその佇まいには、これまでとは違う落ち着きがあった。
境内の奥、封じたはずの呪詛の森が微かにざわついていた。
結界に亀裂はない。
けれど、誰かが中で呼吸をしているような気配があった。
それは、かつての影の残り香か。
あるいは、まだ消えていない“誰かの呪い”か。
――そんなとき。
鳥居をくぐって、ひとりの若い女性がやってきた。
見覚えがあった。
相良朱音。
あの春の日、初めて「呪い」を求めてきた依頼者だった。
彼女は、落ち着いた顔で社務所の縁側に立った。
「……こんにちは。お久しぶりです」
「おぉ~……生きてたぁ~……よかったぁ~」
零子は、いつものように間延びした声で返す。
朱音は微笑んだ。
「あなたに会いに来ました。今の私なら、ちゃんと、お礼が言えると思って」
「……呪い、打たなかったのね」
「はい。あのとき、あなたが言ってくれたこと……本当に、救いでした。
あのときの私は、“自分を呪うために誰かを選ぼうとしてた”だけでしたから」
静かな時間が流れる。
やがて、朱音が、ふと顔を曇らせた。
「でも……今の私は、“呪われても仕方ない側”になってるのかもしれません」
「どういうこと?」
「私……職場の後輩の恋人を、奪ってしまいました。
ずっと彼に片思いしていて、タイミングを待っていたけれど……彼女を裏切る形になった」
「ふぅん……その子、あなたのところに呪いを持って来た?」
「……来てません。でも、もし来たら、私は……私のことを、呪ってくれてもいいと思ってる」
零子は湯呑を置き、ゆっくりと髪を結い上げた。
顔が現れる。
静かで、冷たく、しかし透明な目が、朱音をまっすぐ見つめた。
「朱音さん。呪いってね、“自分のことをちゃんと見つめようとした人間”にだけ、効くの」
「……え?」
「本気で誰かを憎んだとき、人間は“鏡”を見せられる。
それが呪いの正体。あなたが自分の罪を見つめてる限り、その呪いは“誰かに渡す必要はない”」
「……」
「本当に恐ろしいのは、“呪われる理由があるのに、それに気づかず、罪悪感も持たない人”なの。
そういう人のところにこそ、私の仕事がある」
朱音は、何かに気づいたように目を見開いた。
「……だから呪いを“叶える”ことはあっても、“受け入れる”ことはしないんですね」
「うん。私は、呪いの“中継点”でいたいの。
憎しみを直接ぶつけるでもなく、消し去るでもなく。
ただ、“ここに置いていっていい”って伝えるために」
静かに、風が吹いた。
桜の花が舞い、二人の間にふわりと降りる。
そのとき、社務所の奥から巴が現れた。
白い装束ではなく、普通の和装だった。
彼女は静かに、零子に語りかけた。
「結界、少し弱ってるわ。あなたの中に溜め込んだ呪いが、多すぎるのよ」
「うん、わかってる。だから……“祓う”んじゃなくて、“返す”ことにしたの」
「……返す?」
「来たる者に、“私ではない道”を選ばせるの。
私が選べなかったものを、“他人”に選ばせる。それがきっと、結界を保つ鍵になる」
巴は目を伏せた。
「それは、残酷よ」
「ううん。優しいよ。だって私、“呪いの中で生きてる人間”の、最後の話し相手になれるんだから」
◆
夕暮れ。
呪詛の森には、また新たな影が入ってきた。
若い女性。
恋人に裏切られ、家庭に絶望し、呪詛を求めて来た者。
零子は、静かに髪を結った。
今日は、打つかもしれない。
でも、もし打たなかったとしても――それでもいい。
(私は、呪いを否定しない。
でも、私は、呪いを受け入れない。
それは、“誰かのために選べる人間”でいたいから)
五寸釘を手にした巫女が、ゆっくりと森に入っていく。
結界の中で、また一つ、“呪いと救いの物語”が始まる。
(了)
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