アビシニアンと狡猾狐

篠原皐月

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第14話 可愛い義妹 

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 その頃、大きな鏡の前で口紅を直し終えた幸恵は、それをバッグにしまおうとして、中に入れておいた物を目にして、思わず溜め息を吐いた。
(これ、どうしようかな?)
 ぼんやりと考えていた時に、いきなり背後から肩を叩かれて、幸恵の心臓が飛び出そうになる。

「幸恵さん。どうしたの?」
「あ、え……、ええっと、べっ、別に何でも」
「無いなんて、言わないわよね?」
 狼狽しながら振り返り、兄嫁に弁解しようとした幸恵だったが、にっこりと微笑まれつつ断言され、これ以上の抵抗を諦めた。そして多少言いにくそうに話し出す。

「その……、兄さんから今日の事について電話を貰った時に、香織さんが妊娠した事を聞いて。その時も今日、待ち合わせで下で顔を合わせた時も、うっかりお祝いを言うのを忘れていてすみません。おめでとうございます」
 そう言って軽く頭を下げた義妹を、香織は幾分面白そうに見やった。

「それはご丁寧に、ありがとうございます。だけど幸恵さん? 私の事、お祝いの言葉を言って貰うのが遅くなった位で腹を立てる様な、そんな狭量な人間だと思っていたのかしら?」
「違うの! そうじゃなくて!」
「じゃあ何かしら? 他に何か言いたい事が有るのよね?」
 続けて追い詰めてきた香織に、もはやぐうの音も出無かった幸恵は、早々に諦めて白状した。

「その……、さっき君島さんから、水天宮の安産祈願の御守りを貰ったじゃないですか」
「ええ、それが?」
「実は……、私も安産祈願の御守りを、仕事帰りに寄って買って来て。通勤に南北線を使ってるから、溜池山王駅最寄りの日枝神社の物なんだけど……」
「あら、嬉しい。ありがとう」
「それ、一応今日持って来たんだけど、渡すのを止めようかな、と……」
「どうして!?」
 嬉しそうに顔を綻ばせたのも束の間、義妹が告げた内容に香織は驚いたが、幸恵はゆっくりと口を開いた。

「それが……、以前出産する友達に頼まれて、水天宮に御守りを貰いに行った事があって。そうしたら水天宮には子宝犬の石像とかあったの。昔から犬はお産が軽くて一度に何匹も産むから、安産の守り神として祀られているんですよね」
「そうよね。妊婦の戌の日参りってメジャーだし。それで?」
 とにかく幸恵の話を聞いてみようと、冷静に先を促した香織に、幸恵は小さく頷いて話を続けた。

「私が御守りを貰ってきた日枝神社は、猿を祀ってるんです。猿は集団生活をしてるし、子供への愛情が強いから、安産の他にも夫婦円満とか子育ての御利益があるそうで」
「あら、益々御利益が有りそうで嬉しいわ。それなのにどうして御守りをくれないなんて言い出すわけ?」
 益々訳が分からなくなった香織に、幸恵が真顔で問い掛けた。

「でも、まずくないですか?」
「何がまずいの?」
「だって……。犬と猿って喧嘩しそうだし」
 すこぶる真剣に幸恵が口にした途端、香織は表情を消して黙ったままニ・三回瞬きしたと思ったら、「ぶはっ!!」っと盛大に噴き出しつつ目の前の幸恵に抱き付いた。

「ゆっ、幸恵さん、最高!! 可愛すぎるわ! こんな子が私の義妹だなんて、もうどうしてくれようかしら!?」
 香織がそう叫びながら幸恵の背後に回した両手で、自分の背中を力一杯バンバンと叩き出した為、幸恵は本気で悲鳴を上げた。

「ちょ、ちょっと香織さん! 本気で痛いんですけど!?」
「だぁって! 幸恵さんが可愛すぎるのが悪いのよ!」
 そうして尚も「あははははっ!!」と笑い続けている香織への抵抗を諦めた幸恵がされるがままになっていると、漸く笑いの発作が収まったらしい香織が、幸恵から身体を離した。そして力強く断言する。

「大丈夫大丈夫。神様や神様の御使いなんだから、鉢合わせしたって喧嘩するような不心得な犬や猿じゃないって! 安心しなさい! これ以上は無い、強力タッグを組んでくれるわよ。第一どっちも、立派な桃太郎の家来じゃない!」
「はぁ……」
「と言うわけだから、頂戴?」
 ニコニコと片手を差し出された幸恵は、まだ若干悩んでいる様な面持ちでバッグから小さな白い紙袋を取り出し、その手に乗せた。

「えっと……、どうぞ。あの……、お店が忙しいかもしれないけど、体調には気をつけて。元気な赤ちゃんを産んで下さい」
「ありがとう。君島さんが秘書さんとかに買わせに行かせた御守りより、幸恵ちゃんが仕事帰りにわざわざ足を運んで買ってくれたこっちの方が、私は数倍嬉しいし、御利益があると思うわよ?」
「えっと……、ありがとう」
 面と向かってそんな事を言われた幸恵は、照れ臭そうに僅かに顔を赤くした。すると香織が確認を入れてくる。

「それに、これを貰ったのは家に帰るまで、正敏さんには内緒にすれば良いのよね? ここで言ったら御守りが重なったと、君島さんが気にするかもしれないし。でしょう?」
 香織には全てお見通しらしい事が分かり、幸恵は慌てて弁解がましい事を口にした。

「べっ、別に、私が気にする事じゃ無いんだけど、良く考えてみたら例の噂は私には殆ど実害は無かったけど、あの人は子供に投げ飛ばされたって笑い物になってた筈だし。いつまでも腹を立てるのは大人気ないと思うし、ここは気分良く手打ちにする為にも、余計な事は言ったりしたりしない方が」
「うん、やっぱり可愛いわぁ~。特にこんな素直じゃ無いところが」
 わたわたと慌てて言い募る幸恵を見て、香織が微笑みながらしみじみと述べる。すると憮然とした顔付きになった幸恵が、面白く無さそうに呟いた。

「……そんな事言ってくれるのは、香織さん位です」
「それはどうかしらね~?」
 香織が意味有りげなクスクス笑いを零した所で、女性用トイレの出入り口の壁にもたれかかって二人の会話の殆どを聞いていた和臣は、ゆっくりと店に戻って行った。そして何食わぬ顔で自分の席に着いたが、正敏に声をかけられた瞬間、笑いが込み上げる。

「よう、随分時間がかかってるが、あいつら何してた?」
「……やっぱり幸恵さんは可愛いな。惚れ直した」
 そう言って口元を押さえてクスクスと笑い出した和臣を、周りの者達は怪訝な顔で見やった。

「何頭に花を咲かせてるんだお前は」
「和臣?」
「ちぃ兄ちゃん?」
 そこで和臣は何とか笑いを抑え、父親に囁いた。

「親父、ちょっと耳貸して」
「何だ?」
 不思議そうな顔をしつつも体を傾けた君島の耳に口を寄せた和臣は、自分が聞いた内容を手短に纏めて伝えた。それを聞いた君島も「ほぅ?」とだけ漏らして、面白そうに口元を緩める。
「な? 可愛いだろう?」
 それに君島が苦笑しながら黙って頷くと、向かいの席から正敏が催促してきた。

「何だ? 勿体ぶらずに教えろよ」
「正敏さんは帰ったら、香織さんに聞いて下さい」
「何だそれは? ……まあいいか」
 正敏はあっさり納得したが、綾乃は食い下がった。
「ちぃ兄ちゃん、一体何なの?」
 しかし妹に対する和臣の言葉はにべも無かった。

「お前はすぐ顔に出るから駄目だ」
「ちょっと何よそれっ!」
 さすがに綾乃は腹を立てたが、和臣は重ねて言い聞かせる。

「良いから。どうして席を外したかも聞かずに、黙ってろよ?」
「……何なのよ、もう」
 言いたい文句は山ほどあったものの、真顔で言い聞かせてきた和臣に、綾乃は不承不承頷いた。そこでタイミング良く、幸恵と香織が戻って来る。

「お待たせしました」
 そこで君島が、先程息子から聞いた話など無かったかの様に、気遣わしげな表情で声をかけた。
「やあ、幸恵さん。具合とか悪いわけでは無いかな?」
「はい、大丈夫です。失礼しました」
 いつもの口調で軽く頭を下げた幸恵だったが、ここで横から和臣が口を挟む。

「心配要らないよ。幸恵さんは俺に綺麗な顔だけ見せたくて、お化粧を直してきただけだよね?」
 そう茶々を入れてきた和臣を、幸恵は憤怒の表情で叱りつけた。

「どうしてあんたに見せる為なのよ! 寝言は寝てから言いなさい!!」
 しかし何がツボに嵌ったのか「くっ……」と笑いを堪える様子の和臣に、幸恵は益々口調をヒートアップさせた。

「何がおかしいのよっ!?」
「……和臣」
 呆れた口調で父親に短く窘められた和臣は、苦労して真面目な顔を取り繕いながら弁解した。

「いや、今日ここに来てから、幸恵さんに初めてまともに反応して貰ったから嬉しくて、つい笑いが込み上げて」
「はぁ!? 反応も何も、あんた最初からずっと黙ってたじゃない!?」
「話しかけてもちゃんと返してくれるかどうか分からなかったから、様子を見てたんだけど。じゃあこれから話しかけたら、ちゃんと返事してくれるんだ?」
「内容にもよるわよ! あまりつまらない事言わないでよね!?」
「了解。気をつけるよ」
「どうだか!」
 すっかりいつも通りの喧嘩腰のやり取りに、周りの者達は呆れて苦笑いした。そこで最後の水菓子が運ばれて来た為、全員席に着いてそれに手を伸ばす。

(全く。こいつったら毎回、人の神経を逆撫でするんだから! 性格悪過ぎよっ!)
 そんな風に腹を立てつつもしっかり最後まで料理を味わった幸恵は、和臣の視線を受けてもそれからは顔を逸らす事は無く、逆に睨み返して益々相手の笑いを誘っていたのだった。
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