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第6章 陰謀、動揺、時々誤解
(7)松原工業社員立入禁止
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薬が効いたのか翌日には熱は下がったものの、「潜伏期間中は寝ていなさい」と真由美に厳命された沙織は、我慢して三日を過ごした。そして医師と真由美からのお許しが出てから出勤し、更に二日程が過ぎてから、新たな騒動が勃発した。
「おはようございます」
「おはよう、沙織さん。今朝食を持って来るから、少し待っていてね」
「ありがとうございます」
その日も出勤の支度を整えてから沙織が食堂に出向くと、義則が常とは違って自分より早く椅子に座って朝食を食べていた為、不思議に思いながら問いかけた。
「お義父さん、今朝は随分早いですね。特別な会議でもあるんですか?」
「いや、そうではなくて……。暫くの間、電車通勤をしようと思っているんだ」
どこか言いにくそうに言われた内容に、沙織は本気で首を傾げる。
「役員以上は自家用車通勤が許可されているのに、どうしてわざわざそんな事をされるんですか?」
「その……、沙織さんの熱が下がって潜伏期間を過ぎても、真由美がインフルエンザを発症しなかっただろう? それで昨夜、『昔から滅多に風邪もひかなかったし、入院したのもあの時だけだった』と、真由美が結構落ち込んでいてね」
(それって多分、妊娠中に病気が分かった時の事よね。昨日、相当空気が重くなったのが想像できるわ)
困り顔で打ち明けられた内容を聞いて、沙織は咄嗟に返答に困った。しかし相手に喋らせておいて黙り込む訳にもいかず、なるべく当たり障りのない表現を選んで言葉を返してみる。
「それは……、免疫系がしっかりしていて、宜しいのではないかと思いますが……」
「世間一般的にはそうだし、私もそう宥めたんだが……。それでここは一つ、電車通勤をしてみようと考えたんだ」
「あの……、すみません。今の流れで、どうして電車通勤云々の話になるのでしょうか?」
「それは……」
ここで義則が何か言いかけたが、真由美が戻って来たのを見て口を噤んだ。
「沙織さん、お待たせ。病み上がりだし、しっかり食べて栄養を付けてね」
「はい、いただきます」
「それにしても、友之は遅いわね。まだ寝ているのかしら? 昨日までに、直接出張に行くとかも言っていなかったのに」
「そうですね。定時出社の筈ですから、ちょっと起こしてきます」
「私が起こしてくるわ。遅くなるから、沙織さんはそのまま食べていて」
「すみません、お願いします」
反射的に腰を浮かしかけた沙織に、真由美が笑って言い聞かせる。それに甘えて食べるのを再開した沙織だったが、まだ話の途中だった事を思い出した。
「お義父さん。さっきの電車通勤の話ですが、結局どういう事ですか?」
「あ、ああ……、うん。ちょっと健康の為に歩こうかと……」
「え?」
(どうしたのかしら? 何か変な感じ。それにお義母さんがインフルエンザにかからなくて気落ちしている話から、どう繋がるのかが意味不明なんだけど……。いえ、ちょっと待って?)
相手の歯切れの悪さと、意味の繋がらなさに沙織は本気で首を捻ったが、ここでふと思い至った考えに盛大に顔を引き攣らせながら、確認を入れた。
「あの……、まさかとは思いますが、お義父さん。電車通勤でインフルエンザに感染して看病して貰って、お義母さんに感染させようとか、馬鹿な事を考えていませんよね?」
(あ、お義父さんに面と向かって「馬鹿な事」とか言っちゃった。でも、そうとしか言えないわよね?)
思わず遠慮なしに口にしてしまった沙織だったが、義則はそれに対して気分を害するどころか、益々後ろめたそうに話を続けた。
「その……、経営者としては、不摂生で病気になるなど許されない事だが、今はインフルエンザが流行しているし、同じ車両内に患者の一人や二人存在していてもおかしくないから、罹患するのは不可抗力だと思うのだが……」
「……お義父さんは、本当にお義母さんの事がお好きなんですね」
「いや、まあ……、そうかな?」
(うん。もう、何も言わないでおこう)
照れまくっている義則を見て、呆れるやら感心するやら微妙な心境に陥った沙織は、心の中でそう結論付けた。そこで勢い良く食堂に飛び混んで来た真由美が、嬉々として夫に声をかける。
「あなた! 無理に電車通勤しなくて良いわ。疲れるだろうし、いつも通りゆっくり車で出勤して」
「どうかしたのか?」
「友之が、結構高い熱を出しているの。インフルエンザかもしれないわ!」
「え?」
「本当ですか?」
「午前中に、医者に連れて行くから! 友之は『一人で行く』と言っているけど、結構辛そうだしね!」
(あまり心配しているように見えんし、病院に行けば余計に感染し易いとか、考えているんだろうな……)
(三十過ぎの男に、母親の付き添い……。周囲からどんなマザコンだと、生温かい目で見られそう……)
上機嫌で報告する真由美を見て、義則と沙織は一瞬遠い目をしてしまった。しかし沙織はすぐに気を取り直し、真由美に申し出る。
「あの、お義母さん。やっぱり私が、友之さんを病院に」
「あら、駄目よ。沙織さんは治ったばかりで、休んだ間の仕事もまだ溜まっているでしょう? それにA型とB型があるんだから、友之が沙織さんがかかったのと違うタイプに罹患していたら、また寝込む事になりかねないわ」
「それは、そうかもしれませんが」
「とにかく、今日から友之の部屋は、松原工業社員は立ち入り禁止だから。ドアプレートもそう直しておくし、そのつもりでね。さあ、忙しくなるわね!」
「あの、お義母さん!」
言うだけ言ってパタパタと再び食堂から走り出ていった真由美を、沙織は慌てて追いかけようとしたが、ここで義則の冷静な声が割って入った。
「沙織さん……。色々言いたい事はあるかと思うが、真由美の気が済むようにさせて貰えないかな?」
「友之さんの看病を、全面的にお義母さんにお任せしろと?」
「平たく言えばそうだな」
流石にそれはどうなのかと思ったものの、義則から無言のまま懇願の眼差しを受けた沙織は、少し迷ってから軽く頭を下げた。
「……申し訳ありませんが、そうさせて貰います」
「沙織さん。謝るのはこちらの方だから」
「いえ、お義父さんが謝る筋合いの事ではありませんので」
微妙な表情で頭を下げ合ってから、沙織は朝食を急いで平らげて松原工業に出勤した。
「おはようございます」
「おはよう、沙織さん。今朝食を持って来るから、少し待っていてね」
「ありがとうございます」
その日も出勤の支度を整えてから沙織が食堂に出向くと、義則が常とは違って自分より早く椅子に座って朝食を食べていた為、不思議に思いながら問いかけた。
「お義父さん、今朝は随分早いですね。特別な会議でもあるんですか?」
「いや、そうではなくて……。暫くの間、電車通勤をしようと思っているんだ」
どこか言いにくそうに言われた内容に、沙織は本気で首を傾げる。
「役員以上は自家用車通勤が許可されているのに、どうしてわざわざそんな事をされるんですか?」
「その……、沙織さんの熱が下がって潜伏期間を過ぎても、真由美がインフルエンザを発症しなかっただろう? それで昨夜、『昔から滅多に風邪もひかなかったし、入院したのもあの時だけだった』と、真由美が結構落ち込んでいてね」
(それって多分、妊娠中に病気が分かった時の事よね。昨日、相当空気が重くなったのが想像できるわ)
困り顔で打ち明けられた内容を聞いて、沙織は咄嗟に返答に困った。しかし相手に喋らせておいて黙り込む訳にもいかず、なるべく当たり障りのない表現を選んで言葉を返してみる。
「それは……、免疫系がしっかりしていて、宜しいのではないかと思いますが……」
「世間一般的にはそうだし、私もそう宥めたんだが……。それでここは一つ、電車通勤をしてみようと考えたんだ」
「あの……、すみません。今の流れで、どうして電車通勤云々の話になるのでしょうか?」
「それは……」
ここで義則が何か言いかけたが、真由美が戻って来たのを見て口を噤んだ。
「沙織さん、お待たせ。病み上がりだし、しっかり食べて栄養を付けてね」
「はい、いただきます」
「それにしても、友之は遅いわね。まだ寝ているのかしら? 昨日までに、直接出張に行くとかも言っていなかったのに」
「そうですね。定時出社の筈ですから、ちょっと起こしてきます」
「私が起こしてくるわ。遅くなるから、沙織さんはそのまま食べていて」
「すみません、お願いします」
反射的に腰を浮かしかけた沙織に、真由美が笑って言い聞かせる。それに甘えて食べるのを再開した沙織だったが、まだ話の途中だった事を思い出した。
「お義父さん。さっきの電車通勤の話ですが、結局どういう事ですか?」
「あ、ああ……、うん。ちょっと健康の為に歩こうかと……」
「え?」
(どうしたのかしら? 何か変な感じ。それにお義母さんがインフルエンザにかからなくて気落ちしている話から、どう繋がるのかが意味不明なんだけど……。いえ、ちょっと待って?)
相手の歯切れの悪さと、意味の繋がらなさに沙織は本気で首を捻ったが、ここでふと思い至った考えに盛大に顔を引き攣らせながら、確認を入れた。
「あの……、まさかとは思いますが、お義父さん。電車通勤でインフルエンザに感染して看病して貰って、お義母さんに感染させようとか、馬鹿な事を考えていませんよね?」
(あ、お義父さんに面と向かって「馬鹿な事」とか言っちゃった。でも、そうとしか言えないわよね?)
思わず遠慮なしに口にしてしまった沙織だったが、義則はそれに対して気分を害するどころか、益々後ろめたそうに話を続けた。
「その……、経営者としては、不摂生で病気になるなど許されない事だが、今はインフルエンザが流行しているし、同じ車両内に患者の一人や二人存在していてもおかしくないから、罹患するのは不可抗力だと思うのだが……」
「……お義父さんは、本当にお義母さんの事がお好きなんですね」
「いや、まあ……、そうかな?」
(うん。もう、何も言わないでおこう)
照れまくっている義則を見て、呆れるやら感心するやら微妙な心境に陥った沙織は、心の中でそう結論付けた。そこで勢い良く食堂に飛び混んで来た真由美が、嬉々として夫に声をかける。
「あなた! 無理に電車通勤しなくて良いわ。疲れるだろうし、いつも通りゆっくり車で出勤して」
「どうかしたのか?」
「友之が、結構高い熱を出しているの。インフルエンザかもしれないわ!」
「え?」
「本当ですか?」
「午前中に、医者に連れて行くから! 友之は『一人で行く』と言っているけど、結構辛そうだしね!」
(あまり心配しているように見えんし、病院に行けば余計に感染し易いとか、考えているんだろうな……)
(三十過ぎの男に、母親の付き添い……。周囲からどんなマザコンだと、生温かい目で見られそう……)
上機嫌で報告する真由美を見て、義則と沙織は一瞬遠い目をしてしまった。しかし沙織はすぐに気を取り直し、真由美に申し出る。
「あの、お義母さん。やっぱり私が、友之さんを病院に」
「あら、駄目よ。沙織さんは治ったばかりで、休んだ間の仕事もまだ溜まっているでしょう? それにA型とB型があるんだから、友之が沙織さんがかかったのと違うタイプに罹患していたら、また寝込む事になりかねないわ」
「それは、そうかもしれませんが」
「とにかく、今日から友之の部屋は、松原工業社員は立ち入り禁止だから。ドアプレートもそう直しておくし、そのつもりでね。さあ、忙しくなるわね!」
「あの、お義母さん!」
言うだけ言ってパタパタと再び食堂から走り出ていった真由美を、沙織は慌てて追いかけようとしたが、ここで義則の冷静な声が割って入った。
「沙織さん……。色々言いたい事はあるかと思うが、真由美の気が済むようにさせて貰えないかな?」
「友之さんの看病を、全面的にお義母さんにお任せしろと?」
「平たく言えばそうだな」
流石にそれはどうなのかと思ったものの、義則から無言のまま懇願の眼差しを受けた沙織は、少し迷ってから軽く頭を下げた。
「……申し訳ありませんが、そうさせて貰います」
「沙織さん。謝るのはこちらの方だから」
「いえ、お義父さんが謝る筋合いの事ではありませんので」
微妙な表情で頭を下げ合ってから、沙織は朝食を急いで平らげて松原工業に出勤した。
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