酸いも甘いも噛み分けて

篠原 皐月

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第6章 陰謀、動揺、時々誤解

(8)騒動収束?

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「皆、朝に松原課長が体調不良で休む事は伝えたが、たった今連絡があって、課長はインフルエンザだったそうだ。復帰まで何日か要するから、そのつもりで。至急の決済が必要な場合は、部長の指示を仰ぐように」
「分かりました」
「課長が病気で休むのって、珍しいよな」
「珍しいと言うか……、記憶に無いぞ」
「今年のインフルエンザは、本当にタチが悪いのかもな」
 昼前に係長の杉田が告げた内容を聞いて、課内が僅かにざわめく中、佐々木が沙織にしみじみとした口調で話しかけた。

「在籍年数が長い先輩方が、あんな風に言うなんて……。課長がインフルエンザに罹患したのが、先輩が回復して出社してからで良かったですね。先輩からうつっていないのは明白ですから」
「……そうね」
「先輩が病休中、先輩が俺にインフルエンザをうつしたとの不名誉な噂が立たないよう、徹底的に体調管理に努めました」
「うん……。常日頃から、体調管理は大事よね」
 力強く報告してきた佐々木に、沙織が引き攣った笑みを返していると、席の後ろを通り抜けようとしていたらしい吉村から、唐突に声をかけられた。

「関本さんは、課長のお見舞いに行くのかな?」
 それに沙織は、反射的に振り返りながら答える。
「はい? 長期療養中とか入院しているわけでも無いのに、どうしてわざわざ課長のお見舞いに行く必要があるんですか?」
「へえ? 仲が良さそうだから、心配かと思ったんだけど」
「一人暮らしならともかく、課長はご両親と同居されていますし、何も心配する事は無いと思いますが」
「意外に冷たいんだな」
「冷たくて結構。話がそれだけなら無駄口を叩いでいないで、さっさと仕事をして貰えませんか?」
「了解。邪魔したね」
 結構横柄に言い返したものの、吉村は軽く肩を竦めただけで、素直に引き下がっていった。そんな彼を佐々木が、胡散臭そうに見やる。

「何なんですか、あの人」
「構わなくて良いわよ。それより、例の改訂版の資料は揃っている?」
「はい、大丈夫です」
 そこで二人は仕事に集中し、他愛もない吉村とのやり取りなど、すぐに忘れ去ってしまった。

 それから数日後。帰宅した沙織が自分の部屋に向かおうとしたところで、パジャマ姿の友之と遭遇した。

「ああ、沙織。お帰り」
「友之さん、もう部屋から出て良いんですか?」
 自分の時と同様、友之も真由美の監視の下、トイレとお風呂しか室外に出るのを許して貰えなかった事を知っていた沙織は驚いたが、その問いかけに友之は苦笑気味に答えた。

「熱が下がって、潜伏期間も過ぎたから、明日から出社して良いとさ」
「今日の日中、病院を受診して来たんですか?」
「それプラス、母さんの指示だ」
「それは良かったですけど……、何だか結構やつれていますね。しっかり休んだ筈なのに」
 歩み寄った沙織が、しげしげと顔を見上げながら感想を述べると、友之は疲れきった表情で溜め息を吐いた。

「主に、精神的な疲労だな。熱が下がってからも『私に全く症状が出ないのに、そんな軟弱なウイルスに感染した挙げ句に休むだなんて、たるんでいるわよ!』と、何かにつけて母さんに怒られていた」
 その事実を聞いて、沙織も深い溜め息を吐く。

「お義母さん……、友之さんのお世話をしていても、結局最後まで罹患しませんでしたね。天晴れとしか言いようがありませんが……」
「父さんが、電車通勤するとか言い出しそうだな」
「友之さんが発症した時に、まさにそう仰っていました」
「そうか……。取り敢えず、馬鹿な事は止めろと言っておこう」
 そこで二人揃って溜め息を吐いてから、沙織が如何にも申し訳なさそうに言い出した。

「ええと……、ごめんなさい。友之さんが休んでいる間、全然看病しなかったのは、妻としてさすがにどうかと思うし……」
 そんな謝罪の言葉を口にした彼女を、友之が笑いながら宥める。

「そんな事は本当に気にするな。母さんが主張した通り感染した型が違っていたから、また沙織がかかる可能性があったしな。ところで、職場で何か不都合とか問題は生じていなかったか?」
「私が見聞きしている範囲では、特に差し迫った問題は生じていない筈だけど」
「それなら良かった。土日を挟んだし、不幸中の幸いだったな。明日から、滞った分を取り戻さないと」
「でも病み上がりだから、無理をしたら駄目ですよ? 今度の週末は、二人だけでマンションで過ごしましょうか」
 事務的な話をしてから沙織が提案すると、友之は少し考え込みながら答える。

「それは願ってもないが……。そう言えばまだ沙織の荷物が置いてあるし、やはり一之瀬さんはあそこを手放す気は無いみたいだな」
「そういう事。それじゃあ……、お疲れ様、と言うのも変だけど」
 ここで鞄を持ったまま沙織が友之の背中に両腕を回して軽く抱き付き、顔を上げて彼の唇に自分のそれを重ねた。滅多に自分の方からはしてこない彼女のその行動に、友之は一瞬驚いた表情になってから、破顔一笑する。

「沙織補給の前取りだな。うん、元気が出てきた。週末を楽しみに、頑張って働くか」
「それなら良かった。でも無理はしないでね」
「分かってる。それじゃあまずしっかり食べて、体力をつけないとな」
 その日、久しぶりに全員が顔を揃えた松原家の夕食の席は、いつも以上に笑顔が満ち溢れていた。
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