ハリネズミのジレンマ

篠原 皐月

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第74話 過去との決別

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(これまで電話や文書を送りつけたりはしてたけど、わざわざ出向いて来るなんて、よっぽど腹の虫が治まらなかったのね)
 先程聞いたばかりの話を思い返しながら、貴子がエレベーターを降り、自動ドアを抜けてエントランスに出ると、待ち構えていた啓介が早速憤怒の形相で噛み付いて来た。

「こんばんは、宇田川本部長。今夜はどういったご用件ですか?」
「ふざけるな!! 貴様のせいで、俺はいい恥曝しだ!」
(事実上の降格人事の憂さ晴らしに飲んで、その足で押し掛けたってところか。落ちたものだわね。同情する気は無いけど)
 近付いて来た途端、漂ってきたアルコール臭と、顔の紅潮ぶりを見て、貴子は冷めた目で今では大して身長差が無い、実の父親を見やった。

「あら、何かあったんですか? 怒って無いで教えて下さいません? 私、警察組織の人間じゃ無いもので」
「人を嵌めた癖に、しらばっくれるな!」
「それは酷い言い掛かりですね。れっきとした警察官僚の本部長様を、一調理師の私がどうやって嵌めると?」
「いけしゃあしゃあと! どの口がほざく!!」
 益々怒りを増幅させたらしい啓介だったが、貴子は考え込むふりをしてから、如何にも不愉快そうに言い返した。

「ひょっとして、例の立てこもり事件の事ですか? あれは私の方が酷い迷惑を被ったんですが。誰かさんのせいで、何度も警察から呼び出しがかかった上、講師の職も辞する事になりましたし」
「はっ! 自業自得だろうが!」
「それを言うなら、そちらも自業自得ですね」
「何だと?」
 そこで貴子は、より一層冷ややかな視線と口調で、恐らく事実であろう推測を述べた。

「今回のあなたの失態に対して一番問題になったのは、身を持って庇ってくれる人間など皆無な人徳の無さでは無くて、重大事件発生時に自分の所在を明確にしていなかった無責任さと、どこまでも下に責任転嫁しようとした姑息で周囲から愛想を尽かされた事でしょうから」
「五月蝿い、黙れ!!」
 どうやら図星を指された事で激昂したらしく、啓介は一気に間合いを詰めて貴子を平手打ちした。

「……っ」
「どこまで生意気な女だお前は!」
 うっかり油断してまともに打たれた貴子がよろめくと、その肩を掴んだ啓介が尚も殴ろうとしたが、ここで貴子が反撃する前に啓介の背後から鋭い制止の声がかかった。

「おい! 止めろ、何をやってる!!」
「その女性から離れろ!」
「貴様! 何をする! 離せ!」
「うわ、酒臭ぇ。どれだけ飲んでんだよ、この酔っ払い」
 どうやら啓介が貴子を叩いたところで、マンションのエントランスに二人組の警官がやって来たらしく、若い方が啓介を羽交い絞めして自分から引き剥がしたのが分かった。そこで貴子は安堵の溜め息を吐いたが、彼女に声をかけてきた年配の警官が不自然に固まる。

「大丈夫ですか? 殴られたのが見え……、宇田川さん?」
 その反応で、その警官がこれまで何度も出向いた新野署所属の警察官で、自分の顔を見知っているのだと分かった。しかし余計な事は口には出さず、貴子は素直に礼を述べる。

「はい、大丈夫です。ありがとうございました。殴られはしましたが、病院に行くほどではありませんので。ですが、どうしてこちらに?」
「それが……、先程通行人の方から通報がありまして。『マンションのエントランスで、女性が男性に絡まれているから、助けてやって欲しい』と。それで様子を見に来たんですが……」
「そうでしたか。ご苦労様です」
 困惑顔の警官と貴子が神妙に会話していると、未だ取り押さえられている啓介が暴れながら喚いた。

「おい! こら! 俺を誰だと思ってる! さっさと離せ!」
「はぁ? 何だよ。あんた誰だって言うんだ? 警視総監か? 大臣か?」
「第十三方面本部長殿だ」
「え?」
 どうやら啓介の顔も見知っていたらしい年配の男が苦々しい口調で告げると、若い警官の方は目を丸くした。

「分かったなら、さっさと離せ!」
 自分の身分が明らかになった事で得意満面で命令した啓介だったが、すぐに馬鹿にした口調での反撃を受ける。

「尤もその肩書きには、近々『元』が付くらしいって噂だがな」
「……っ!」
 それを聞いた啓介が怒りで顔を益々赤くしながら絶句し、彼を取り押さえている警官が白けた表情になったが、そんな二人を半ば無視して年配の警官が貴子に向き直った。 

「ささやかな願望を言わせて頂ければ、父娘喧嘩は他人の迷惑のかからない所で、家庭内でして頂きたいものですね」
 しかし貴子は、それに控え目に言い返した。

「生憎と、今は籍を抜いて高木貴子です。呼びもしないのにこんな時間に家に押し掛けて、人を殴りつける様な人と縁が切れてせいせいしてますわ。今回の行為はれっきとした暴行罪に該当しますから、この人を訴える時は、是非あなた方に証人になって頂きたいですね。勿論そこの防犯カメラの映像は、セキュリティーセンターで管理してますが、現職警察官の証言なら信憑性が無いなどと言う問題は起こらないと思いますし」
「…………」
 それにはっきりと顰めっ面をし、迷惑に思っているのを隠さずに自分を眺めてきた二人に、貴子は穏やかに提案してみた。

「まあ、現場の方の書類仕事を増やすのもお気の毒なので、この場はその非常識な人を引き取って、二度とこの様な傍迷惑な行為をしない様に言い聞かせて一晩留置場ででも預かって頂ければ、お二人に免じて不問にしたいと思います。そちらは随分酔っていらっしゃる様ですし、酔い醒ましにはちょうど良いのでは? このまま一人で自宅に帰って頂いたら、事故に遭われるかもしれませんし。もしそうなった場合『お前の所に寄ったせいで事故に遭った』などと、後で難癖を付けられそうですから」
 その申し出を受けた警官二人は無言でアイコンタクトを交わし、即座に結論を出した。

「そうですね。ご配慮頂き、ありがとうございます。おい、行くぞ」
「はい。ほら、さっさと署に帰るぞ。大人しく乗ってろよ?」
「何をする! さっさと離せ! 無礼だろうが!」
 どうやら新野署に連行する事に決めたらしい二人が、啓介をマンション前に停めておいたパトカーに押し込むべく、移動を開始する。

「手錠をかけないだけありがたく思え」
「これ以上暴れるなら、かけちゃっても良いんじゃありませんかね? 公務執行妨害に当たりませんか?」
「そうだな」
「何だと!? 私は方面本部長だぞ!」
「そんなに偉い人間なら、それに相応しい振る舞いと言うものがあるんじゃないのか?」
 男三人が騒々しく一団になって歩き出したのを無言で眺めた貴子は、彼らがエントランスを出てその姿が完全に見えなくなってから、疲れた様に溜め息を吐いた。そして踵を返して住居スペースとの仕切りにある半自動ドアのロックを鍵で解除し、部屋へと戻る。

「戻ったか。どうなった?」
 リビングに入るなり、悠然とソファーに座ったまま手元の書類から顔を上げて尋ねてきた隆也に、貴子は苦笑いしながら尋ね返した。

「警官二人に引き取って貰ったわ。通報した通行人って、隆也よね?」
「ここから一番近いのは新野署だし、通報を受けて当直担当者が駆けつけるまで十分はかからないと思ったから、ちょうど良かっただろう? あいつが詫びを入れに来る筈が無いしな」
「……そうね」
 貴子が大人しく同意して自分の隣に静かに腰掛けた事で、少し予想が外れた隆也が意外そうに尋ねてきた。

「どうした? まさか俺に助けに入って貰いたかったとか、面白い事を考えているわけじゃ無いだろうな?」
 それに貴子は小さく頭を振ってから、静かに答える。

「そうじゃなくて……。直に顔を合わせたのは四年ぶりなんだけど、思っていた以上に貧相な男に見えたから、ちょっと拍子抜けしただけ」
「それは当然だ。俺と比べたら、世の中の大抵の男は馬鹿で甲斐性無しで貧相だからな」
 自分の台詞にすかさず応じてきた隆也を、貴子は思わずまじまじと見つめた。

「今の、本気で言ったわよね?」
「当たり前だ。否定する気か?」
「ううん、その通りよ。だから……」
 小さく苦笑いした貴子は、少し体をずらして隆也の方に向き直り、両手を伸ばして静かに彼に抱き付いた。完全に予想外だったらしく、隆也が無言で何度か瞬きすると、その耳元で貴子が若干疲れた様に囁く。

「そんな貧相な奴に、今まで散々煩わされて来たのが、本当に馬鹿馬鹿しく思えてきたのよ」
 その独白を耳にした隆也は、苦笑しながら片手で軽く彼女の後頭部を叩いた。

「漸く学習したって事で、良いんじゃないか? 益々馬鹿になるよりは遥かに良い」
「そうね」
 そしてくすくすと貴子が笑い始めた為、隆也も顔を緩めたが、ふと気になった事を思い出して彼女をゆっくり引き剥がした。

「ところで、少し頬が赤くなってないか?」
「ああ、一回叩かれたから」
 平然と貴子がそう述べた為、改めて彼女の頬の状態を確認した隆也は、忽ち表情を険しくした。
「……お前、大人しく叩かれたのか?」
 その剣幕に、貴子は若干弁解するように状況を説明する。

「ちょっと油断したのよ。叩かれた所で警官が来ちゃって、反撃できなかったし。でも暴行罪で訴えるって脅したら、さっさと帰ってくれたしね。結果オーライって事で」
「冷やすぞ」
「え? 大丈夫よ。そんなに痛くないし、目立って腫れたりもしていないでしょう?」
 話の途中で隆也が勢い良く立ち上がった為、貴子は慌てて引き止めた。しかし隆也は納得できなかったらしく、不機嫌そうな顔付きのままキッチンに向かう。

「そのまま座ってろ。保冷剤とかは無いのか?」
「その類は無いわね。……じゃあ、製氷機の氷で氷水を作って、それでタオルを冷やして持って来てくれる?」
「分かった」
 これ以上は言っても無駄だと諦めた貴子は、これから買い出しに行ったりしない様に、代替案を出した。それに素直に頷いた隆也がキッチンでごそごそ動き始めると、貴子はその気配を感じながら「大丈夫だって言ってるのに」と困ったような口調で呟きを漏らしたが、その顔は楽しそうに笑っていた。

 その一方で、言われた通りに金属製のボウルに氷水を作った隆也は、その中にハンドタオルを突っ込みながら「本当に、最後までろくでもない……。後腐れ無く、止めは俺が刺してやる」と、啓介に対する怒りを露わにしつつ、呪詛の言葉を口にしていた。
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